「伏せて!!」
叫ぶと、マルタンは先ほどまで石造りの建造物の一部だったその塊の落下地点になるであろう場所へ走る。逃げそびれている人を庇ってバリアを展開するためだ。
「無茶だ!」
アドラがマルタンの手を掴んだ。
いくらマルタンのチークポーチバリアが強化されているとはいっても、あの大きさの岩をどうこうできるレベルではない。何もできないとわかっていながらも、グラナードはマルタンの方へ駆け寄る。ロベリアとネージュについては、魔法の行使を魔王に封じられている。呆然自失としているユウタは言うまでもなく使い物にならない。
魔王は静かに巨岩を見上げる。彼がそこへ手を伸ばすが早いか、岩が凍り付いた。時が止まったかのように、静止する。
「え」
「凍っちゃった……?」
マルタンが瞬きを繰り返す。そして、その視線を魔王へ向けた。
「いいや、我の力ではないぞ」
魔王はゆるりと首を横に振った。そして、上空を指さす。
「……え!?」
そこに見えたのは、小さな人影だった。
見覚えのあるカラスアゲハの翅が、陽の光を受けてきらきらときらめいていた。高く結いあげた黒髪が風に揺れている。
ニフタ・ドリュアス。その娘が凍り付いた岩に向けた手のひらを同時にぐっと握ると、あれだけ大きかった塊がバキバキと粉砕された。
それを見上げていた民衆が、声を上げる。
「あれは、何だ!?」
「あんなに小さな……絵本で見た妖精みたい!」
「恐ろしい力を持ってるのね……」
思い思いに騒ぐ人々に、ニフタ・ドリュアスの少女、セリスィはふん、と鼻を鳴らした。
「呼びつけられたので来てみたが、あと少し遅かったら甚大な被害が出ていたのではないのか」
メリアは急いでセリスィの元へ飛んでいくと、どうして助けてくれたのか問う。
「……受けた恩は返す。貸し借りを残したくないものでな」
ふい、と視線を逸らし、セリスィはそう言った。
やはり、ドリュアスというのはフォスもニフタも義理堅い種族らしい。
「で? いったいこれはどういう状況だ? マルタンから手紙を受け取り、この日に勇者なる人間の真実が暴かれると書いてあったので、私も無関係ではないと思ってきてみたわけだが……」
あの生命の大樹を枯らした勇者なる男は、膝を着いて口から魂が抜けたような顔をしている。少し来るのが遅かったか、とセリスィはユウタを見下ろして笑った。
マルタンから受け取った手紙の内容はこうだった。
ニフタ・ドリュアスの皆さんは、きっと人間の事を許してはくださらないと思う。それでも、わたしたちは出来ることをしたい、と。世界が『勇者』を名乗る者の特殊能力で汚染され、その均衡を崩されようとしているということや、他種族を排斥しようとするアロガンツィアの陰謀を明かしたい、と。
それを読んで、セリスィは初めは無視しようかとも思ったが、どうにも引っかかったのだ。
勇者を名乗る者の能力による汚染。それは、ドリュアデスにとって無関係なことではない。事の顛末を聞かせてもらうのも、悪くないじゃないか、と。
それで、はるばるニフタの森からここまでやってきてみたら、巨大な瓦礫が吹っ飛んできたのでそれを止めてやったというわけだ。
(この民草どももさっさと逃げればいいものを……)
セリスィは眼下に集まっている民衆に視線を落とすと、やはり笑った。
(どいつもこいつも、自己満足でしかない)
蔑むように、そう心の中で呟く。けれど、彼女の表情にはどこか清々しさがあった。
「セリスィさん! 助けてくれてありがとう!」
壇上から叫ぶマルタンに、セリスィは苦笑する。
「……瓦礫からお前たちを守るために来たのではないがな。本題は……その愚王と自称勇者の馬鹿者についての告発だろう?」
ふわりとマルタンの隣に舞い降りると、セリスィは腕を組んで立った。
煽るような発言に、王が黙っているはずがない。
アロガンツィア王は、静かな怒りを込めた声で言った。
「羽虫が。……今、余を愚王と申したか」
「ああ、言ったよ。己の目の前の富と名声しか見えていない盲目の愚王であると」
張り詰めた空気。
これ以上を王を煽ればセリスィはきっと殺されてしまう。マルタンはハラハラするのを隠しきれず、セリスィと王の顔を交互に見た。
「貴殿の召し抱える勇者殿が我々の里にある木を枯らしかけてしまったわけだが、それについての補填や賠償についてどうお考えか?」
「何を言うておるのか、理解できぬな」
王の反応に、セリスィはため息をつく。
「……おい、アロガンツィアの民よ。貴殿らは見ていないのか、ユウタなる者が力を行使したのち、その周囲に起こる異常を」
その問いかけに、人々は顔を見合わせる。その中の一人の女が呟いた。エニレヨの件について、大雨と日照りに苦しめられた親戚を持つあの女だった。
「ねえ、エニレヨの『龍』を封印とかなんとかって、それも……?」
マルタンはゆるりと首を横に振った。
「それについては、ソレイユさんが呪符で一時的に風の神様を封印し、ユウタさんによる神殺しを未然に防いだので、ユウタさんが地の力を奪ったのが原因ではないです。直接関係したのは、祠の周りの環境汚染です」
「祠?」
「風の神様を祀る祠が、エニレヨの北にあるんです。わたしはそこを見てきました。祠を中心に、不自然に周辺が枯れていたんです。他にも、ユウタさんが力を使う際には、彼を中心とした周囲の地や水が枯れたり淀んだりするという例がたくさん見られました」
にわかには信じがたい報告に、人々はまた騒めく。そういえば、と噂を始める人がいた。ユウタが救世の旗を掲げて行脚していた頃、通りがかった村の近くで謎の井戸枯れが起きたという話を聞いたとか、海辺の町で水の濁りが見られただとか。
ユウタは、もう反論する力も失ってただ項垂れていた。代わりに王が口を開く。
「無尽蔵に強化魔法を打てるからくりの秘密はそれだったのか」
「……知らずに行使させていたのですか」
マルタンは無責任な王の発言に顔をしかめた。
「我が国の繁栄のため、多少の犠牲は致し方ないものだ」
さも当然のことのように言う王に、マルタンは理解が追い付かず、怒りも嘆きも出来なかった。犠牲の上に成り立つ繁栄? それは、優先すべきもの? 言いたい言葉を整理したところで、この老王には恐らく通じない。
「貴殿の言いたいことはよくわかった。生命の大樹を汚染したことも、過去に人間が我らの聖域に立ち入り、切り崩し、土地を奪っていったことも致し方ないこと、と?」
「生命の大樹など迷信にすぎぬであろう、人間はそれから恩恵を受けたことなどない。土地を奪う? 強き者が世界を統一し、治めることの何が悪い」
話は平行線をたどる。これ以上の対話は無意味と判断したセリスィは、この会話を見守っていた民衆へ視線を向けた。
「聞いたか? この愚王は、弱き者からは搾取して構わないという考えの持ち主だ。現在の定義では弱き者とは他種族を指すのだろうが、それが……貴殿らに変わるときどうなるだろうな」
民衆はセリスィの言葉に息を飲む。
「余への無礼な発言の数々、許されるものではない。なあ?」
王は兵へ命令を下す。弓兵が矢をつがえるのを見ると、セリスィはあきれたような顔で地を蹴った。
「そんなことをしている暇があるのならば、民へ防護魔法をかけてやってはどうだ? 無能が」
そこでようやく民衆は気づく。あれだけ大きな音をたてて搭が崩れ続けているのに、瓦礫が一つもこちらへ飛んできていない、ということに。上空でセリスィを呼ぶ別のカラスアゲハは、こう叫んでいた。
「セリスィ様! アレス殿が抑えてくださっていますが、そろそろ限界です、お力を……」
「わかった。今行く」
セリスィ目掛けて放たれた弓矢は、先刻の瓦礫と同じように凍り付いて爆ぜる。
「逃がしたか」
王が渋い顔をしたのを見て、グラナードは眉を顰めた。
「あそこで討つのは得策ではありませんでしたよ。彼女らを殺せば、こちらへ瓦礫が飛んできますから、あなたの命にもかかわります」
「……」
皮肉にも、忌み嫌ってきた魔族に、搭の崩落による被害を食い止めさせているということを、王も認めざるを得なかった。それで、考えを改める気があるかというとそれも別であったが。
民は怯えるように囁き合う。
「ねえ、さっきの妖精が言ってたこと……」
「俺たちが弱き者? 搾取される側? そんなまさか、王は俺たちを守るために統治して……」
「王都にいる限りはそうかもしれないが、田舎にいる私の親類は……」
――ざわめきに交じり、広場へは蹄の音が近づいていた。