「総員に告ぐ。即刻剣を捨てろ」
王に剣を突き付けた男は、広場にその声を響き渡らせた。
怒号が飛び交う広場、その男の声が届くかどうかは賭けだったかもしれない。近くにいた兵士が息を飲んだ。捕縛されているわけでもない王の喉元に、鋭く光る剣の切っ先がぴったりと当てられているのが目に入った。その兵士も叫ぶ。
「お前たち! 武器を捨てろ!!」
王の一大事だ。王の命を奪おうとしているその男は、近衛隊の副隊長だった。
どういうことだ、とアロガンツィア兵は狼狽える。
魔王の入国を手引きし、広場にて発言の機会を設けるという暴挙に及んだのは、近衛隊長たるグラナードの独断と思っていたが、ここにきて副隊長が不可解な行動に出ている。操られているのか、どうしたというのか。どういう理由にせよ、言うことに従わないと王の首が刎ねられてしまう。舞台上の王の身に何が起きようとしているのかは、波のように伝達していって、兵士たちの動きを止めた。あちらこちらで、カラン、と得物を手放す音が響く。と、同時に扉が開け放たれた。何度目かのナルの突進で、向こう側で止めた閂が金具ごと吹っ飛んだようだ。雪崩れるように、怯え切った人々は外へ出ていった。
「副隊長! 何を……」
一番近くにいた兵士が叫ぶ。マルタンは、何故副隊長がそのような行動に出たのかわからなくて目を白黒させていた。――革命。よぎったのはその言葉。ここで王の血が流れたとしても、国はきっと変わらない。この副隊長の男が国の頂点に立ったとして、いい方向に向かうとは言い切れない。何より他者の命を奪うことで何かを解決しようとする者が上に立てば、また同じ悲劇が繰り返されることだって……。猛スピードで、ぐるぐると考えが頭の中をめぐっていく。
「マルタン」
小さな声で、副隊長の姿をした男はマルタンへ呼びかける。
「は、はい……?」
「よく耐えた。介入が遅くなって、すまない」
「え……」
男は、剣を持っていない方、左手で自分の顔を覆った。額から首へその手を滑らせると、その顔には――。
「ヒューゴ先生!」
猛禽類の顔に、二本の角。鋭い瞳はサファイア。在りし日の魔族防衛専門学校において、教務主任を担っていたガーゴイルとは、彼、ヒューゴであった。ヒューゴは背中に大きな蝙蝠の翼を顕現させると、魔王に目礼する。魔王は静かに一つ頷いた。彼も、ヒューゴが副隊長に変化しているということに気づいていたのだろう。顔色を変えずにいる。魔王以外の誰もが、この男を副隊長と信じ込んでいた。グラナードさえも、驚いている。
「どこかで気取られるのではないかと思っておりましたが、私の変化の技術も捨てたものではありませんね」
「貴様、一体いつから……」
王が悔し気に呻く。ヒューゴは開いている方の手の指を折った。
「……わが校が崩壊してから割とすぐなので、100日以上はおそばに仕えさせていただいておりましたね。まったくお気づきでありませんでしたか?」
「……」
ヒューゴは剣を持つ手の緊張を緩めることはしない。どちらかが少しでも動けば、王の首の皮は切り裂かれる。王の皺が刻まれた目元、たるんだ瞼のその下で、褐色の瞳がヒューゴを睨みつけていた。
「指示を取り下げなさい。自身に都合の悪いことを明るみに出されたからと、民の命を奪って口封じをするなど言語道断です。統治者という立場をはき違えているとしか思えない」
王は、ぐう、と唸る。それから、この騒ぎの中でも足を萎えさせて微動だにしないユウタに呼びかけた。
「この状況を覆せるのは異世界から来た異能を持つ者だけだ、ユウタ、立ち上がらぬか!」
「……」
「この、木偶が!!」
びくん、とユウタの肩が跳ねた。
「う、うあ……」
勇はユウタを見遣る。震えている。何かぶつぶつ言いながら、頭を抱えて。
「ユウ、タ……?」
――何やってんだよ愚図! 邪魔なんだよどけろよ!
――なんにも出来ねーくせにイキりやがってよ、キメーんだよこの木偶がよ、引っ込んでろや無能!!
ユウタの脳裏に、前世で聞いた罵詈雑言が蘇る。
――えっ、なんかあいつこっち見てんですけど。キモ。マジで根暗が伝染るからやめてほしい。
女子の嘲り笑う声、男子の罵倒、教室に居場所はなかった。その場にいた教師だって、我関せずだ。
何がきっかけだったろう。クラスの別のやつがいじめられていて、それで、自分に矛先が向くのが怖くて一緒になって加害者側に回った。けれど、子供のいじめなんて気まぐれで残酷だ。今度のターゲットはユウタになった。それだけだった。それに耐える力がなかった。助けてくれと頼んだら、直近にターゲットになっていた男子に冷たく手を振り払われたのを覚えている。
――お前は助けてくれなかったどころか、一緒になってノートを破ったり鉛筆を折ったり、給食にごみを入れてきただろ。そんなやつを誰が助けるかよ。苦しめよお前も。
けれど、幼く――精神性も幼いユウタには自業自得であったことを理解できなかった。どんな失敗をしても、親には可愛いユウタとして愛されてきた。嫌われるようなことをすれば、人に対して不義理をはたらけばそれが返ってくるのが当然なことだと、理解できないほどに幼稚だった。それは、育ち方のせいかもしれない。けれど、その後に学ぼうとしなかった、出来なかったのは、当人がそういう風に生きてきてしまったせいだ。それから居場所を失ったユウタは、上手な努力を重ねることなんてできなかった。学校にも次第に行けなくなったし、家での勉強もろくにしなかったので受験も失敗した。進学、就職、全てで躓いた。なんとか入ることができた専門学校も、誰とも馴染むことができなくて次第に行かなくなった。そのままの自分を許し、甘やかしてくれる“家”から、出ることができなくなった。
ろくに外にも出ずにモニターに向かう日々。健康状態が良いわけがなかった。そのまま悪化していく病態にも気づかないまま、ジャンクフードやカフェインを取り続けた結果、彼は早死にする羽目になった。
何かになりたかった。
どこかでやり直したかった。
できるなら、愛されたかった。
どう、軌道修正すればいいのか。愚かで哀れな少年のまま大人になったユウタには、わからなかった。幸か不幸か、そんなユウタの手を取ったのは、野心に塗れた王国の老王であった。場合によってはそれがチャンスになり得たかもしれないが、何度も差し伸べられた手、更生の機会を彼は悉く蹴ってきた。自分は正しいと、そう信じたくて。その本質は転生前となんら変わらなかった。今更どう引き返せばいい。この世界に来てから行ってきたこと、王に従って魔物を討伐するというあの活動、それらをすべて否定した場合、自分の存在価値はどこへ行ってしまうのか。謝ることに慣れていない――否、今までの人生で謝罪することなど一度もなかったような男には、そんなことはわからなかった。自分そのものが消えてしまうような恐怖に苛まれるくらいならば、アロガンツィア王と自分を絶対的な正義に据えて生きるのが正しいと、そう思いこまざるを得なかった。
その結果がこれだ。
「お前の力はそんなものではない、今一度奮い立て、余と共に天下を掴むのだ!」
もはや広場に残った民衆は王の発言に引いている。
魔王でさえ、醜悪なものを見る視線でアロガンツィア王を見つめ、そして小さくため息をついた。それから、ゆっくりとユウタへ視線を移す。
震えているユウタは、「ちがう」だの、「いやだ」だの、小さく呟き続けている。
マルタンは、何かあってはまずいと勇を見上げる。勇も、マルタンの顔を見て心配そうに眉を寄せた。
「このままお前は役立たずで終わるのか!!」
王の怒号。いきり立った老王は己の首に傷がつくのも厭わなかった。ヒューゴはこれ以上暴れられては本当に大けがをさせてしまう、と、薄皮一枚斬れたのを見て剣をやや引く。
「ぼく、は……僕は! 僕は!!」
突然、ユウタが顔を上げて叫んだ。広場に残っていた民衆が振り向く。避難の手助けをしていた面々も、その声に驚いて壇上を注視した。
「僕は役立たずじゃない! 馬鹿じゃない! 木偶じゃない! 無能じゃない!!」
ず、とユウタの足元から黒い影が渦巻く。人々の表情は恐怖に引きつった。見たこともない、おぞましい色の何かがユウタからあふれ出ている。
「マルタン!!」
勇は咄嗟にマルタンの手を引いた。ひんやりとした肉球を握りこんで、そのまま片腕で抱きしめる。それからユウタの肩に触れた。その黒い渦が何なのか、どうすれば止めることができるのか、皆目見当もつかない。それでも、なにか良くないものなのだということはわかった。良くない力を吸う事ならばできる。周囲が汚染されるのであれば、その汚染を浄化することができる。一か八かでも、やらないよりはと祈りを込めてユウタの肩を掴む。
「何、してるんですか!? これ以上力を使っちゃいけない! 世界もあなたも壊れてしまう!」
「あ、ああ! あああああああああ!!」
叫びと共に、黒い渦は広がっていく。
「イサミさん!」
黒い渦はぬるりと生ぬるく、湿度をもって勇たちの足元を揺蕩う。熱くもなく、冷たくもない。人肌の、しかし、心地よくはないその温度。広場の人々や、この世界にこの負の感情を凝縮したようなものが与えるのはどう考えたって悪影響としか思えない。舞台から黒い渦が流れていかないよう、必死に勇は手のひらを渦へ向けた。吸い込まれる渦を見て、ほんの少し安心する。同じだ。悪意のある魔法を吸収できる。ユウタの暴走が止まるまで、自分にこの黒い渦を流れ込ませればいい。
これは悪意の魔法。そう思っていたが、勇はあることに気づいた。
違う。流れ込んでくる黒い渦は、泣いている。この温度は、涙と同じだ。
叫んでいる。
助けて、と。
存在を許して、と。