目次
ブックマーク
応援する
2
コメント
シェア
通報

第8話

「なに、これ……」

 黒い渦と一緒に、ユウタの嘆きが勇の中へ流れ込んでくる。

 今までに吸収したどの魔法より、どんな悪意、どんな穢れより、それは重く勇の魂にのしかかってきた。思わず、ユウタの肩に手を置いたまま勇も膝を着く。

「イサミさん!?」

 マルタンは自分を抱きとめていた勇の腕から抜け出して、勇が顔面から倒れこまないようにその胸を両手でぎゅっと押して支えた。

「あ、ありがと……マルタン」

 息が上がっている。こんなわずかな時間で、一気に汚染された。そう気づいてマルタンは足を踏ん張った。ここで自分が倒れたらいけない。マルタンは、次は背中で勇を支えて、バッグの中からルナカモミラの蜜と生命の大樹の樹液で作った浄化用の治療薬を取り出した。まずは一粒、勇の唇に押し当てた。力なく唇を薄く開くと、ころん、と飴玉のような丸薬が勇の口内へ転がり込んでいくのが見えた。

「魔力酔い、と複合的な症状が出てるみたいだね」

 マルタンは次の丸薬を取り出しながら、言った。勇は静かに頷く。

 傍らで小さく呻きながら、なおも黒い渦を放出し続けるユウタを横目で見て、続けた。

「これ、ユウタの魔力が暴走してるんだと思う。その原動力は、多分」

 嘆きだ。と言って、それから勇は小さく首を傾げた。

「その大元になるものは」

 孤独、孤立かもしれない。

 王はいとも簡単にユウタを見捨てた。本人が忘れたがっているであろう前世の汚点まで民衆に晒し、国王しか救ってやれるものはいないと逃げ道を奪い、周囲を敵で固めるようなことをした。自分の思い通りになる傀儡を作るためには手段を選ばないような男に召喚され、目をつけられたのが運のつきだったか。

 しかし、その過去を露呈されたおかげで勇たちは気づくことができた。ユウタの抱えるコンプレックス、孤独の一部を垣間見ることができた。つまりは誰にも受け入れられず、己を開示せずに前世を生きた者が、この世界で得た偽りのカリスマ性を振りかざすことで、他者から褒めそやされて生きることに快感を得てしまったということだ。

 けれど、それだってもう瓦解してしまった。人々を魅了する洗脳能力を解除されてしまえば、また元の“木偶”に逆戻りだ。己の努力で手に入れた力など、一つもなかった。誤ったコミュニケーションの方法を正そうとしてこなかったユウタ本人に問題があると言えばそれまでだ。誰も理解してくれない、誰も守ってくれない、誰も愛してくれない。そんな風に叫んだって、今更誰も同情なんかしてはくれないだろう。

 自業自得だ。

 そう言って、突き放されて、次こそ死ぬのだ。

「もう、やめてください!」

 三つ目の丸薬を勇に渡すと、マルタンはユウタの手にがぶりと噛みついた。

「いってぇええ!!」

 強めに噛みついたユウタの手の甲からは、血がだらだら流れている。こんな悪意の魔法を垂れ流しにしているものに噛みついたらマルタンまで汚染されてしまう。勇は心配そうにマルタンの顔を見遣り――そして、言葉を失った。

 あくびの時以外で滅多に口を大きく開けることなんかないマルタンが、牙を剥いて威嚇の姿勢をとっている。吊り上がった眦に怒りと叱咤の意を滲ませ、その足はわずかに震えていた。

 怖い、と初めて思った。

 今まで旅を共にしてきた友人の、恐ろしい顔。獣の顔だった。

「いい加減にしてください! 自分の苦しみを周りに押し付けちゃいけないです!」

「……っ、は? ……え?」

 やっと目に光が戻ったユウタに、勇はゆっくりと問いかける。

「自分は強いって思いたかったんでしょう? 引っ込みがつかなくなって、完全無欠の勇者を演じるしかなかったけれど、ずっと心の底では“素の自分”を愛してくれる人を求めていたんだよ」

「ぼ、僕は弱くなんか」

「弱いよ。認めなよ。みんな弱いんだよ。弱いから支え合ってるんだよ」

 瞬間、ユウタから漏れ出るようにして広がっていた黒い渦が収束していった。憎悪や不安に塗れて歪んでいた顔は、きょとん、とした子供のような表情に変わる。以前までのどこかすかした顔でもなく、どこか幼さを感じるような無防備な表情だった。

「……」

 どれほど彼が幼稚でかわいそうな勇者だったとしても、今までの行いが無罪放免とされるはずもない。

「う、え……うぁ、あ、あああああっ」

 意味をなさない音が漏れるたび、嗚咽が激しくなっていく。

 彼のその顔に人々は同情の目を向け、それから気まずそうに顔を見合わせた。良い年の大人が、声をあげて惨めったらしく泣き出した。ボロボロの、捨てられた子供。先刻までの吼えるような叫びではなく、子供のように顔を涙でぐしゃぐしゃにしながら泣いているのだ。この情けない勇者を生み出したのは、アロガンツィア王だけの責任ではない。“彼”を見ようとしなかった自分たちにも、ひとかけらの責任があると、感じ始めていた。


「ぐ、うう、ぅ……」

 泣き崩れているユウタから視線をアロガンツィア王に移す。

 老王は、黒い渦の直撃を受けてその場に蹲っていた。もはやヒューゴが剣を突き付けるまでもない。彼は一歩も動けず、兵に指示を出すこともかなわない状態に追い込まれていた。

「わ、わしを……助けろ」

 王はネージュへと視線を向ける。

 今まで何が起きてもそこを動かずに、ただ静観してきたネージュは王を冷たい瞳で見下ろすばかりだった。

「誰が? 誰を助けろと?」

 白いヒールの音が広場に響く。そっとしゃがみ込んで、ネージュは王と視線を合わせた。

「……ネージュ、王国一の癒し手であるお前ならばわしの……」

「……」

「はやく治癒魔法をかけんか!!」

「……それが人にものを頼む態度か?」

 しん、と広場が静まり返った。

 王はネージュの正体を知ったときのユウタと同じ表情でネージュを見つめている。口を半開きにしたまま、震えて。

 今までのネージュならば即座に回復魔法をかけて手厚く処置してくれたはずだ。それが、ざらついた男の声で拒否したのだ。

「な、なに、を」

「だから、それが人にものを頼む態度かって聞いてんだよ。治癒魔法だって無尽蔵に使えるわけじゃない。こっちだって疲弊するんだ。民衆を見殺しにするようなクソジジイにホイホイ打てるかっての」

 ふん、と鼻で笑い、『ネージュ』は王の目の前でベールを脱ぎ捨て、セルジュとしての顔を露わにした。穏やかな笑みを湛える優し気な女性から、剣呑な目つきの青年へと変貌する。表情一つで同一人物がここまで変わるか、と相変わらず勇は驚かされるばかりだった。初めてその姿を見た人々については言わずもがなだ。

「ネージュ……さん? だよね?」

「ちょっと待って、さっき勇者が言ってた“男”って……」

 ざわつく民衆に、セルジュはにっこり笑って振り向いた。

「そう。騙していたことは謝るよ。あのバカが言う通り、オレはネージュじゃない。本名はセルジュ。ヒーラーなのは本当だが、修道女っていうのは嘘だ。女じゃないからな」

 けれど、いままで各地で様々な人たちを癒してきた実績は本物だ。ユウタが魔物を討伐する際に負傷した仲間の回復を担ったのも、本当の事だ。ユウタに比べれば、性別と身分を偽っていたことは民衆にとっては悪質な嘘ではなかった。ただ、どうしてそんなことをしたのか、知りたがる人々の視線にセルジュは答える。

「わざわざ聖女様を演じていた理由は一つ。こいつを金づるにして世話になった人に報いるため」

 それから、セルジュはスカートをたくし上げた。

「そして、オレの一族に謂われない罪をおっ被せて転落へ追いやったこいつに復讐するためだ」

 太ももに隠し持っていたナイフを抜いたセルジュが狙うのは、王の喉元だった。間に合わない。疲弊しきったマルタンでは、バリアが届かなかった。

「セルジュさん!!」

 下段に構えて滑るように王に肉薄するセルジュを止めたのは、グラナードだった。ナイフを剣で抑える。金属のかち合う高い音が響いた。あの勢いで止められれば、握りこみが甘ければナイフの方は飛んで行っていただろう。そうならなかったのは、セルジュの明確な殺意の表れだった。

「あれ? 近衛隊長殿はどうしてオレを止めるのかな?」

「……君が手を汚す必要はないだろう? それに、もっと詳しく君のことを聞かせておやりよ」

 そう言ったグラナードの鈍く光る柘榴色の瞳を見て、セルジュはわざとらしくナイフを握っていた手をぱっと開いて見せた。キン、と澄んだ音を立て、ナイフは石畳の舞台の上に打ち付けられる。

「近衛隊長殿が許してくださるのなら……お話ししましょう?」

 セルジュは、修道服のケープの下に隠していたネックレスを首元から引っ張り出すと、その裏にある紋章を掲げて薄く微笑んだ。



この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?