セルジュが取り出したネックレスの紋章を見て、グラナードは息を飲んだ。
騎士としてこの国の中枢に潜り込むと決めてから、リベルテネスの地理的特徴、歴史、諸侯の力関係について調べて自分なりに勉強してきた彼には、その紋章に覚えがあった。
(……カルテリア王家……)
月に吠える銀狼の盾を、セージの葉が包むような意匠。今は無き王国のシンボルである狼は、リベルテネスの古代史を深く学んでいる者の間ではフェンリルではないかと囁かれている。カルテリア王家は、その血筋を遡っていくと魔族に繋がっているという説が有力だった。それを裏付けるのが、人間にしては高すぎる魔力と魔法の才能だ。
カルテリアについて知る者は、この広場には決して多くなかった。無理もない。かの国がアロガンツィアに攻め込まれて滅ぼされ、地図から消えたのはもう50年程前の話になる。その当時を“正確に”知っている者は、アロガンツィア国内には恐らく存在しない。小国カルテリア併合については、歪んだ歴史が伝わっているからだ。
年寄りは皆逃げおおせていたので、大きな騒動の後にこの広場に残っている者の中には、カルテリアの存在をしっかりと認識している者はいなかった。ネックレスのトップはちょうどセルジュの手のひらにすっぽり収まるサイズ。遠くから判別できるのは、よほど視力が良い者だけだろう。できたとて、いったいどこの家の紋章なのか、この場にいる民衆は知る由もない。
「アロガンツィアの爺さんよ、改めて名乗ってやる。セルジュ=デル=カルテリア。あんたに潰されたカルテリア王家の生き残りだ」
アロガンツィア王を鋭く睨みつけながらセルジュはそう言った。
カルテリア、という名を聞いて声をあげたのは、王よりも民衆の方が先だった。
「お、おい、カルテリアってアロガンツィアに戦争を仕掛けてきたっていうあのカルテリアか!?」
叫んだ男の声を聞いて、セルジュは目を丸くした。ほんの一瞬、息を詰まらせる。そして、こらえきれなくなって吹き出す。
「ぶ、あは、あはははは」
「な……」
「へえ、お前らの間ではそう伝わってるんだ? やあ、随分汚ねぇ化かし方してるじゃねえか、タヌキジジイ」
王を罵るセルジュを、アロガンツィアは睨み返す。
「貴様には言われたくないな」
「ハ、返す言葉もねえや。ただ、あんたみたいな雑でお粗末な化かし方をした覚えはねえがな」
そして、セルジュは青年に尋ねた。
「カルテリアがここに戦争しかけたってのはどこできいた話だ?」
「親父に聞かされたんだ、無謀なことをする国もあるもんだなって、ちっぽけな国なのにこの大国アロガンツィアに突然勝負を仕掛けるなんて、気でも触れたのかって」
「ずいぶんな言われようだな……」
「あとは、歴史書にそう書いてあって」
「……あー、あれね。あれ、やっぱり国民は妄信しちゃうんだ?」
セルジュは笑いながら続ける。
「恥ずかしくないわけ、そうやって与えられる情報を鵜呑みにして自分では探ろうともしない。お前らは素直って言えば聞こえはいいが、国に洗脳されて操作されてるボードゲームの駒みたいだな」
なにを、と反論しかけた男に、セルジュは柔らかく微笑みかける。
「……だって、わたくしのことも……聖女だと思っていらしたでしょう? 皆さん」
その見慣れた『どこか嘘くさい』微笑みに、フレイアは共に旅していた時のことを思い出した。そうだ、いつも引っかかっていた違和感はこれだ。あの頃“彼女”は、感情を吐露することがなかった。いつも柔和に微笑んで、他人を懐柔する不思議な声色を使って、ユウタを意のままに操っていたのだ。
人に対する距離感がバグってる。
フレイアはネージュについてそんな表現をしたこともあるけど、あれは『バグっている』のではなかった。敢えて、『バグらせていた』のだ。それによって相手が勘違いしてくれれば儲けものだし、誰にでも優しく、癒しを与える『聖女様』というブランディングのために意図的に距離を近くしていた、というのが実態だろう。
「オレは一度も自分を聖女とも修道“女”とも言っていないんだがな。それでもお前らは勝手にオレのイメージを作り上げて神格化した。騙されやすいってのは、こういう悪い奴に利用されるってことさ」
まあ、そのおかげで助かったがな、と意地悪く口角を吊り上げるセルジュに、ネージュの面影はもはや存在しない。男はネージュからセルジュ、セルジュからネージュへの変わり身の早さを目の当たりにし、騙されるという事を知った。また、セルジュの言葉で、自分たちは騙されやすい性質だということを初めて理解した。盲目に急に差し込む光に、狼狽える。
「……」
「気の毒だと思うよ、心底。そこにいるインチキタヌキジジイとその祖先にお前らはずーっと騙されてきたわけだもんな。それこそ、何代にもわたって」
そう言いながら、セルジュの表情には憐れみのひとかけらもない。彼がしようとしていることは、復讐だ。アロガンツィアへの恨みを、いつ、どんな風に晴らすか。そういう顔だった。マルタンはその意図をわかって、何も言わずにセルジュの顔を見つめる。またナイフを拾うようなことがあれば、彼に罪を犯させないために止めねばならない。けれど、セルジュの動きからして再度アロガンツィア王に斬りかかったり、直接危害を加えようとするような素振りは見られなかった。
ただ、その瞳には明確な殺意だけ残っている。
油断ならない状況だった。
セルジュはわざとらしく両手を広げ、そして民衆を煽る。
「悔しくないのか? お前らはこの王に騙されていた。殺されかけたんだぜ? ……いや、殺されているのも、いるよな?」
伏し目がちに舞台の下へと視線を送る。
そこには、切り伏せられて絶命した男が転がっていた。
呆けていた民衆のうちの一人が、震えながら声を絞り出す。
「……そ、そうだよ……俺たちは殺されかけたんだ……」
「そこにいるおじさんみたいに、あと少しで……」
傍らにいた娘も、その言葉につなげるようにして改めて自分の身に迫っていた命の危機を自覚した。
セルジュはこれを狙っていたのだ。
こうなってしまえば、集団の心理というのは簡単だ。
誰かが不安や不満を明確に口にすれば、そこからほころびは広がっていく。操られやすい状態のアロガンツィア民であれば尚更だ。扇動するのは容易い。
「……このままでいいわけあるか!!」
怒号が響く。
死には至らなかったものの、王国兵に斬りつけられて腕を負傷した男が叫んだ。
「そ、そうよ! あたしの兄さんもやられたわ! あの大きい熊の亜人さんが扉を開けてくれなかったら、そのまま殺されてたかもしれない!」
兄とみられる男の腕を自分の肩に回して支えているのは、宿屋で給仕をしていた娘だった。特徴的な緑色のエプロンに、赤い血のシミがついている。
「殺せ!!」
民衆のうちの一人が叫んだ。
「王を殺せ!!」
声は続く。
アロガンツィア王は、ユウタの黒い渦を受けてまともに立つことも、逃げることも出来ない。王を補佐するはずだった魔法兵はロベリアに呪文を封じられているし、腹心と思い込んでいた近衛隊の副隊長はずいぶん前から魔族であるヒューゴに成り代わられていた。もう一人、近くに仕えていた兵士については、おそらくアロガンツィアの気に入りだったのだろうが、今はグラナードによって足の腱を斬られていて動くことができない。――もう、王の周囲には彼を助けてくれる存在なんて無かった。それがわかっているからこそ、人々は声を上げることができた。
(安全なところからなら叫べるんだもんな、お前らは……)
そんな自分だって、ユウタに与することで安全を勝ち取ってきた。自分を養ってくれた孤児院へ送金し続けた。自分の安全の確保を最優先して動いているというのは、こいつらと何ら変わりはない。そう思って、セルジュは自嘲の笑みをこぼす。そして、本当の意味での勇気をもって危険を省みずに真実と向き合い続けてきたマルタンたちへ視線を移し、どこか眩しそうに目を細めた。
そうしている間にも、群集心理は暴走していく。
「殺せ!」
「そんなやつは王に相応しくない! 真実を知ろうとした国民を皆殺しにしようとした悪魔を殺せ!!」
「輸送隊にいた俺の弟もこいつに殺されたってことだ!!」
「お、俺だって家族を人質に取られていただけだ、こんな王に仕えるのは嫌だ……!」
先ほどまで民の口封じに加担しようとしていた兵士までもが、そう叫んで王を批難している。
おかしかった。
一瞬にして国が崩れ去っていこうとする様子を見て、セルジュは笑いをこらえるのに必死だった。至極真面目な顔をして、好き勝手叫んでいる民衆を見つめてから青ざめた顔をした王へ視線を移す。
「これが民意だよ、王様。あんたは恨みを買いすぎた」