御香宮神社の前線に土方はいた。
再び伏見奉行所に本陣を敷いた薩摩藩は、新選組の本陣を潰そうと迫ってきている。
しかしそれは叶わないだろうと土方は感じていた。
先ほど、こちらの大砲が伏見奉行所に設置された砲台を撃破した。
残る方法は散兵による接近なのだが、それも難しい。
はっきり言えば御香宮神社と伏見奉行所は近い。坂道を一本駆け上がれば到着する距離である。
だが薩摩藩にしてみれば、その坂を駆け上がるのは相当の努力を要した。
まず高所からの発砲によってほとんど身を隠すところがない。
さらに防壁を組んでいるため、たとえミニエー銃をもってしても、容易には近づけない。
加えて坂本が最新式の武器弾薬を補給しているので、その優位もなかった。
今や御香宮神社への坂道は、地獄の入り口につながっていた。
何度か薩摩藩のほうで決死隊を募り、突撃を行なってきた。
けれども、それらは皆失敗に終わった。
坂の幅が狭く狙いが定められやすいからだ。
「なあ、源さん」
何度目かの攻撃を防いでいる最中、土方が砲兵を指揮していた井上に言う。
「もう、刀や槍の時代は終わったなあ」
「……そうですね」
井上が短く応じたのは、おそらく土方は自分にしか零せなかったのだろうと思ったからだ。
決して沖田や永倉には言えやしない。剣の道を生きる者に対しては。
だけど現状を見る限り、そう思うしかない。
一方的に攻撃ができて簡単に殺すことができるのだから。
「これからはいかに効率的に人を殺すか……それだけが求められる時代になる。棒切れを振り回して稽古するのは時代遅れなのかもな」
「土方さん……」
寂しそうにしているのは、土方も剣士だからだ。
刀に愛着があるからこそ出た発言だった。
また彼は合理的な思考を持つ男でもあった。
だからこそ、簡単に刀を捨てられる覚悟を決められた。
「土方副長、井上副長。何か薩摩藩の動きが変です」
報告してきたのは現場の指揮をしていた斉藤一だった。
彼の報告に「変ってなんだ?」と土方は問う。
「どうやら退却していくようですが……その様子がおかしくて」
「だから、どんな風に変でおかしいんだ?」
焦れたように土方が問うと、斉藤は思ったままに言う。
「何かに怯えているような退却だった」
「……なんだと?」
土方の疑問に答えるように「土方さん! あれを見てください!」と井上が喚いた。
「味方の軍勢です! 徳川家と新選組の旗と――
これには声も無く土方は驚いた。
まさか帝と徳川家の旗と共に、新選組の旗が一緒に並べられたのだから。
「あの、信長の野郎! ……とんでもないことしやがって!」
そのとき、斉藤だけは見た。
土方の目尻に涙が浮かび、表情が笑顔になっていたのを――
◆◇◆◇
「よう土方。元気でやっとるか?」
「相変わらず、でたらめな野郎だ――信長!」
馬に乗った信長が御香宮神社までやってきて土方と話している。
その傍には新選組の旗がたなびいている。
「ふひひひ。格を高めてやったぞ」
「あんたが出張ってきたってことは、いよいよ決着か?」
「ああ。大村藩が余計なことをしたからな。兵糧が向こうには十分ある」
「それに関しては新選組の失態だ」
信長は鷹揚に「気にせんでもいい」と笑った。
「そのおかげで帝を説得することができた。錦の御旗を使うことをな」
「はっ。御旗をすぐに用意したわけじゃねえだろ? 初めっから用意させたんだろうが」
「ご名答だな。さてと、土方おぬしまだまだ元気か?」
「御香宮神社を占拠したおかげで楽な戦が続いているからな」
土方は「どうせまた、ろくでもないことを企んでいるんだろう?」とどこか嬉しそうに問う。
信長は「おぬしも楽しめるようになったか」と感心している。
「このまま御所まで進軍する。錦の御旗を掲げて。土方、おぬしら新選組は先陣だ。名誉ある先陣の誉れだぞ」
「そりゃあわくわくするな。由緒も伝統もねえ新選組が、帝と徳川家の先頭切って歩けるなんてすげえよ」
「沖田と永倉も合流するぞ。久しぶりに勢揃いするな」
信長はにやにや笑いつつ「装備の点検を済ませて、見栄えをよくしろ」と告げる。
「京の都を練り歩くのだ。楽しいぞ。京の者共が後世まで語り継ぐような、馬揃えに匹敵するような豪華さで行こうぞ」
土方は苦笑しつつ「派手好きな野郎だ」と零した。
そして隊士たちに大声で知らせる。
「全員、土埃を払い落とした後、整列! これより御所へ進軍する!」
隊士たちは一瞬、呆然した後――口々に喚き始める。
その熱狂ぶりは凄まじく、山野八十八は自らの身体を見せびらかし、吉村貫一郎は豪快に泣いた。
これでようやく――戦が終わる。
◆◇◆◇
御所に進軍する様子は、後に京の住民の間で噂されることとなる。
新選組が帝と徳川家の先陣を切るとなって、息を潜めていた者たちはこっそりと覗き見ていた。
先頭を歩くのは一番隊隊長の沖田総司だ。
美少年の噂違わぬその美形は京の女をうっとりとさせる。
二番隊隊長の永倉新八は豪快な剣の使い手だ。
凄まじい強さから彼に相対した者で助かった者はいない。
少しばかり照れている三番隊隊長の斉藤一。
寡黙な彼は確実に仕事を遂行させる。
六番隊隊長の吉村貫一郎は苦楽と共にした山野と肩を組んでいる。
無茶な要求ばかりする上司の下で仲良くなったのだろう。
そして中央には土方歳三と井上源三郎の二人の副長を従わせる、第六天の魔王がいた。
派手な装いで見る者に畏敬を与えるその男は不遜に笑っていた。
しんがりを務める十番隊隊長の原田左之助。
底抜けの明るさを持つ彼にしか、新選組の後ろを守ることはできない。
誠と葵の紋と錦の御旗を掲げるその姿は。
老若男女問わず、憧れを抱くほど格好良くて。
官軍の名に相応しい姿だった――
◆◇◆◇
降伏を申し出た薩摩藩と公家の主要人物はすぐさま拘束された。
そして近くの家屋で監禁されてしまった。
「やれやれ。これで私たちはおしまいかな?」
「そうだな。おいたちの負けでごわす」
大久保と西郷は同じ部屋にいた。
身体は拘束されていないものの、部屋の外には屈強な兵が見張りに立っていた。
「おいたちは斬首かのう」
「それはないよ。私たちは負けはしたもの、余力を残していたのだから。まだ戦えたのに、錦の御旗を見て戦いをやめたのだ」
「楽観的じゃの、大久保どんは」
「いちはやく自害した岩倉卿の責任にしてしまえばいい。全部の責任を背負ってもらおうか」
西郷は厳しい目つきで「汚いやり方じゃ」と罵った。
大久保は「それが政治と言うものだよ」と笑った。
「ま、私が死んでも君だけは守るつもりだけどね」
「なんでじゃ」
「なんでって……友達だからだろう?」
大久保の飾り気のない言葉に、西郷は「そういう意味ではなか」と反論した。
「おいもそん気持ちじゃ。なんで分からんとや」
「あははは。君はいいやつだなあ」
「そん言葉、自分もいいやつと言っているもんじゃ」
大久保はひとしきり笑った後、西郷に言う。
「ごめんな、西郷どん。薩摩藩で天下、取れんかった」
「…………」
「ここまで付き合わせてしもうて、ほんまにすまん」
西郷はふうっと深呼吸して――
「謝らんでええ。それなりに楽しかったわい」
大久保が何か言おうとしたとき、がらりと部屋の戸が開いた。
そこには新選組の羽織を着た織田信長が立っていた。
「よう西郷。久しぶりだな」
「織田殿……久しぶりでごわすな」
「そっちは大久保だな?」
「あなたが織田信長か。ふふふ、あなたのせいでめちゃくちゃになってしまったよ」
信長は「帝に注意を向けるべきだったな」と言う。
「それで、何用だ?」
「そう恐い顔するな……処分を言い渡しに来たのだ」
信長は書状を取り出した。
西郷と大久保は背筋を伸ばした。
「こたびの争乱、責は薩摩藩にあり。その罪は重く、天下安寧を崩すものなり。よって処分を下す――」
大久保は目を閉じた。
西郷は目を開き続けた。
「――のだが、薩摩藩だけの責とは言えず、朕の不徳と致すべきところあり。また尊皇の志のある者、あたら処断を下すのも心苦しくもある。そこで罪は争乱のみとし、謹慎を申しつける。今後は天下国家のため、その身を尽くすべし」
言い終えた信長に二人はどう反応していいのか分からない。
実質無罪放免を言い渡されたのだ。これには驚くしかない。
「そ、それは……」
「帝の仰せだ。素直に従え。自害もするなよ」
信長はそう言い残して部屋から立ち去ってしまった。
後に残された西郷と大久保は顔を見合わせる。
外に出た信長に「良かったんですか、ノブさん」と沖田は声をかけた。
「帝に言って処分を軽くしてくれって頼んだのノブさんでしょ」
「まあな」
「理由を聞かせてくださいよ」
信長はふうっと溜息をついて。
子供のように純粋な疑問を浮かべる沖田に言う。
「儂が軽い処分にしてくれと頼んだ理由は――」