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第64話信長、アイヌの民と話す

「断る。儂にそんな厄介事を持ち込むな」


 しばらく伊藤の顔を黙って見ていた信長はにべもなく拒絶した。伊藤は蒼白となり「どうしてですか!?」と喚いた。今までの冷静さが嘘のようだった。


「木戸先生はあなたなら解決してくれると――」

「買いかぶり過ぎだ。儂ができることなど限られておるわい。それに利益がないではないか」


 伊藤は「せっかくまとまった日本が割れるんですよ!」とほとんど悲鳴のような声を上げた。


「長い目で見れば織田先生にとっても不利益になります!」

「長い目で見ればな。しかしこの北海道が戦場になることはないだろう。薩州か長州のいずれかになる」


 そう考えれば確かに信長には利益にならない。同時に不利益にもならないだろう。

 だが伊藤の立場からすれば信長に頼る以外の選択肢は残されていない。それほどまでに政府は追い詰められているのだ。


「今の政府は織田先生が作り上げたものです。それを見捨てるんですか?」

「ふん。情に訴える気か? 生憎だがそんなもん通用するほど、儂は優しくはないわ」


 信長は「儂に得がない限り受けんよ」と断言した。その頑な態度に伊藤は言葉を失う。


「話は以上だ。さっさと京に帰れよ」

「……帰りません」

「はあ? おぬしは何を言ってんだ?」


 伊藤は決意を込めた目で信長を睨む。

 それで怯む信長ではないが……ほんの少しだけ感心した。その目に信念が宿っていたからだ。


「織田先生が了承してくれるまで帰りません。この北海道に居続けます」

「何を馬鹿なことを。政府の務めはどうするんじゃい」

「私の務めは言った通りです。他の業務が滞ろうとも知りません」


 信長はなんじゃこやつ面白いなと思った。

 そして少しずつではあるが、伊藤のことを気に入り始めていた。ひたむきな姿勢はかつて小者として働いていた秀吉を思い出すようだった。


「勝手にしろ……と言いたいが、おぬし住むところのあてがあるのか?」

「……あなたが今すぐに頷いてくれれば、あてなど要りません」

「つまり無いってことだな。よし、ならばここに住め」


 思わぬ提案に伊藤は面食らって「……ここに住むんですか!?」と大声を上げた。


「そのほうが儂を説得させやすいだろ」

「織田先生は説得されたいんですか?」

「さあな。ただし、住まわせる代わりに条件がある」


 にやにやと笑う信長に嫌な予感を感じる伊藤だが時すでに遅かった。


「ここの畑仕事を手伝え。住まわせる家賃の代わりだ。武士とはいえ、教えればできるだろう」

「そ、それは……」

「分かったらその動きにくそうな洋装から着替えろ。おい、永倉! こやつに仕事を教えろ」


 信長の命令にするりとふすまを開けた永倉は「よし、来てくれ」と伊藤の腕を引っ張る。


「ちょっと、待って――」

「まずは着替えだな。ゆっくりじっくりと教えてやる」


 そのまま部屋の外へ連れていく永倉に抵抗するが、力では敵わない伊藤。


「織田先生、私は諦めませんからね!」


 喚く伊藤に何も返さない信長。

 二人が出て行くと笑みを消してその場にうずくまる。


「あいたたた……」

「局長……また痛みますか」


 山野が近寄って背中をさする。

 信長は「日に日に酷く痛むわい」と腹を押さえて苦笑した。


「医者に診てもらいましょう」

「山野よ、その医者が匙を投げたのだ。無駄なことはせぬ」

「しかし、痛みを紛らわせることはできます」


 端正な顔を悲しみに歪ませる山野に、無理をして立ち上がった信長は「それも無用だ」と返した。


「儂は今まで好き勝手生きてきた。そして好き勝手殺してきた。この痛みはその報いだと思う」

「局長……美しい私でも、それは……」

「良いのだ。だからそんな顔をするな、うつけが」



◆◇◆◇



「断る。シサムの命令など聞けるか」


 翌日、信長は一人でアイヌの集落、族長の家に訪れていた。

 互いの村の境目を定めることと今後の協力の申し出についての交渉だった。

 しかし族長はその全てを拒否した。


「理由を教えてくれぬか?」

「我らは我らの力で暮らせる。協力など必要ない」


 これでは交渉の余地がない。

 信長は自分たちの作物を労力の代わりに差し出すことを提案するが、アイヌの族長はそれすら要らないと突っぱねてしまう。 


「埒が明かぬな……」

「それはこっちの言葉だ」


 族長は和人の言葉を話せるが、他のアイヌの民は喋れない。

 信長の周りを囲む彼らはひそひそとアイヌの言葉で会話している。

 せめて言葉が分かれば……信長はどうしたものかと頭を悩ませた。


 はっきり言ってしまえば、元新選組の力を使えばアイヌの民を従わせることは可能だ。しかしそれは双方の血を流す結果となりえる。それは避けたかった。

 もう信長は血を見るのに飽きていたのだ。


「無用な衝突はしたくないのだ」

「同じだ。しかしそれならばお前たちが大人しくすればいい」

「少し傲慢ではないか?」


 信長はわざと強い言葉で挑発した。

 そのほうが本音を引き出せると長年の経験から分かっていた。


「後からやってきたお前たちが言えるのか? 好き勝手に土地を奪ってきたではないか」

「…………」


 その反論に信長は何も言えなかった。

 戦国乱世では当たり前のことだった。むしろ推奨されることだった。

 けれども明治の世では許されない。


「もはや時代の流れは異なるか……であるならば、今度来るときは良い提案ができるようにしておく」


 信長は杖を使って立ち上がった。

 アイヌの民が警戒して同じく立ち上がった。


「何もせぬわい。安心しろ」

「……スイ、ウヌカラン、ロー」


 族長の言葉で場の緊張感が薄れていく。

 信長は何を言ったのだろうかと疑問に思ったが、そのまま家を出た。


 集落ではアイヌの民が忙しくなく働いていた。

 男は狩りをして、女は家事をしている。

 働き者だのうと思いつつ、ゆっくりと後にしようとした――


「エカシ、何者なんだ?」

「ううん? おぬし誰ぞ?」


 信長を呼び止めたのはアイヌの少年だった。

 イラクサなどの草を使った服、草皮衣を纏っている。歳は十二か十三。好奇心旺盛な顔をしていて、肌の色も白い。眉が太く意志の強さを感じられた。


「俺から聞いたんだ。答えろよ」

「あん? 和人の言葉、話せるのか?」

「ああ……族長から習った」


 信長は嘘だなと分かったが、追及せずに「ふうむ。賢いな」とあごを撫でた。


「儂は織田信長という。札幌で村を作っとる」

「おだのぶなが……あんたら来てからみんな迷惑してんだ。別のところに行ってくれねえかな?」


 なんじゃい、族長よりも率直にものを言うじゃないかと信長は目の前の少年を気に入った。

 肩をすくめつつ「それは無理な相談だ」と笑った。


「この地に根付きつつあるのだ。それに実りつつある作物が――」

「それは全部、エカシの都合だろう?」

「そのエカシってどういう意味なんだ?」


 信長の問いに少年は「じいさん、って意味だよ」と険しい顔で答えた。

 じいさんか、あまり嬉しくないのうと信長は思った。


「よぼよぼのじいさん一人で来る度胸は認めるけどさ」

「まだよぼよぼではないわい。そうか、言葉が分かるのか」


 信長は改めて「おぬしの名は?」と訊ねる。

 少年はしっかりと信長の目を見据えた。


「エムシ。俺の名前はエムシだ」

「その名前にも意味がありそうだな」

「そうに決まっているだろ」

「エムシよ。儂にアイヌの言葉を教えてくれぬか?」

「嫌だよ。それになんで言葉を知りたいんだ? 族長は和人の言葉を知っているじゃないか」


 信長は「言葉を知れば近づけるだろう」と当然のように言った。


「近づいてどうするつもりだよ」

「交渉のためだ」

「だから、交渉してどうするんだよ」

「アイヌの民と協力して開拓を進めるためだ」


 エムシは「結局、自分たちのためか」と軽蔑した。

 信長は「おぬしたちのためでもある」と考えを明かした。


「俺たちのため? 意味が分からない」

「いいからアイヌの言葉を教えろよ。美味しい飯、食わせてやるから」


 別にいいと言いかけたエムシの腹が鳴った。

 信長は決まりだな、と笑った。


「さあ行くぞ……その前に親に言っておけ」

「……親はいない」

「であるか。ならばすぐに行けるな」


 どうでも良さそうに言って、信長は杖を突きながら歩く。

 エムシは変わったじいさんだなと思いつつ、後をついて行く。

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