目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第65話信長、重い腰を上げる

 北海道の夏は本土と比べて涼しいが、それでも日差しが強いのは変わらない。

 それを伊藤博文は実感していた。


「ほらどうした! もっと腰を入れて耕せ!」

「ひいひい……!」


 永倉の熱心な指導の元、伊藤は慣れない農作業に勤しんでいた。

 耕しているのは開墾途中の土地で、本来ならば収穫の時期が近いときにはやらないのだが、農業においてずぶの素人である伊藤にやらせるのはこれくらいしかない。


「おう。元気にやっとるのう」

「お、織田先生……」


 麦わら帽子を被った信長に泣きつくように、伊藤は口を開きかけた。

 しかしそれを制するように右手を挙げた。


「なんじゃ。この程度でへばるなど情けない。おい、永倉よ。もっと働かせてやれ」

「承知しました、織田さん」

「そんな……」


 信長の容赦のない言葉に真っ青になる伊藤。

 政府の内部闘争を止めてもらおうと頼みに来たのに、こき使われてばかりだった。

 説得を試みようとしても、一日中農作業をしているので機会が無かった。

 しかも夜は夜で疲れ果てて喋る気力もない。


「私は、何をやっているのだろうか……」

「北海道の開拓だろうが。ま、半人前だけどな」

「私がここに来たのは! あなたに助力を求めるためです!」


 永倉の険しい目つきを半ば無視して、伊藤は鍬を投げ捨て「一刻も早く私は京に帰らねばなりません!」と怒鳴った。


「ならとっとと帰れよ」

「あなたを連れて帰るんです!」

「おぬしも頑固だのう……」


 呆れている口調だが、信長は笑みを大きくした。

 骨のある人物に好感を持つのは彼の常だ。

 信長が再び口を開きかけたときに「ノブナガ。これ美味いな」と話しかける者がいた。

 アイヌの少年、エムシだった。ぼりぼりととうもろこしを生でかじっている。

 彼は信長にアイヌ語を教える名目で集落に入り浸っていた。


「エムシ。それは生よりも焼いたほうが美味いぞ」

「なに? ならすぐに焼いてくれ」


 エムシは食べかけのとうもろこしを信長に差し出す。

 素直だが横柄だなと信長が思っていると「また獲ったのか」とそばにいた永倉が困った顔になる。


「まだ収穫前だ。もう少し待てばもっと美味しくなるのに」

「……あんたらおかしいだろ。勝手に取ったことを怒らないのか?」

「食わせるために作っているからな」


 しれっと永倉が言うものだから、エムシは何も言えなくなる。

 信長は鷹揚に「ふひひひ、永倉も丸くなったのう」と笑った。


「京にいた頃ならば斬っていただろう」

「俺は子供を斬ったりしませんよ」

「そうかもな……おい、さっさと鍬を拾って作業続けろよ」


 容赦のない信長に「いい加減にしてください!」と伊藤は喚く。


「こんなことをして、何になるんですか!」

「永倉も言っているだろう。食わせるために作っているのだ」

「ふざけたことを――」

「それこそが国の在り方ではないのか?」


 突如、真剣な顔になる信長に伊藤は息を飲んだ。

 エムシと永倉も雰囲気が変わったと感じた。


「民に物を食わせるのが国の主――君主たる務めではないのか? ならば儂のやっていることは決してふざけたことではない」

「そ、それは……」

「政府のやるべきことはまさにそれよ……そこに座れ」


 信長は突いていた杖で畑の近くにある岩を指した。

 開墾途中なのでまだ退かされていなかった。

 伊藤はふーっとため息をついて岩へ向かう。信長も杖を突きながらゆっくりと歩く。

 永倉とエムシは自然と後をついて行った。


「この北海道は肥沃な土地である。欧州の気候に似ているゆえ、かの地の作物を育てやすい。また牛などの畜産も広がるだろう。日の本の食料を賄えるほどの可能性を秘めているのだ」


 岩に腰かけた信長は夢を語っていた。

 しかしそれは理想ではない。

 あくまでも自分の手で叶えられる現実だった。


「まあアイヌの民との確執はあるがな。だがそれも儂が言葉を覚えられれば解決する」

「凄い自信だな、エカシのくせに」

「ふひひひ。エムシよ、ジジイゆえにできることがあるんだ……できなくなったこともあるがな」


 何故か得意げに語る信長に「私も北海道に可能性を感じています」と伊藤は言う。


「広大さもそうですが、作物を育てる土壌は素晴らしいと思います」

「まさしくそうよ。冬は酷寒だが、懐が広いのは確かだ」

「織田先生がこの土地に根付こうと思ったのは納得できます」


 伊藤は一拍置いて「……しかし、戦争が起きたらどうなりますか?」と本題に入る。


「征韓論がきっかけで戦争が起これば、北海道に大打撃が来ますよ」

「前にも言ったが、戦地は長州か薩州――」

「北海道に取引に来る商人はグッと減るでしょうね」


 その指摘に信長はこやつ、そこに気づいたかと笑みを浮かべた。

 ようやく交渉ができると伊藤は畳みかける。


「戦争になれば肉や魚、野菜は戦地に卸されます。しかし長州や薩州はここから遠すぎる。取引や商売をする者は離れていくでしょう。なにせ、戦争は商売の風呂敷を広げる好機ですから」


 戦争は儲かるものだというのは信長も分かり切っていたことだった。

 戦国乱世がなかなか終わらなかったのは、戦が利益を生むものだから――新たに土地が増えて民からの税も取れる。もしも不経済な行動ならば誰も好き好んで国盗りなどしない。


「加えて――海外からの侵略もありえます。北方のロシアは虎視眈々と北海道を狙っていると噂もあります」


 それは信長も危惧していたことだった。

 たまに港にロシアの民が来ているのを見るが、野心を隠そうとしてない様子が窺えた。


「そうだな。お前の言うとおりだ。だからこそ、儂は北海道を開拓し、外敵から備える必要があるのだ」


 話を聞いていたエムシはだからノブナガは俺たちと交渉したいのだと分かった。

 はっきり言えば信長と伊藤の会話の半分も理解できていないが、それでも外の敵と戦うためにアイヌの民を味方につけたいのだと今更ながら気づいた。


「ふむ。おぬしに協力して戦争を回避するのは確かに理にかなっているかもしれん。征韓論をとん挫させることで、内政に力を注げるのも納得できる」

「でしたら、来てくれますよね!」

「だが――ちと弱い」


 信長は下卑た笑みを浮かべた。

 伊藤とエムシは不気味に思ったが、長い付き合いの永倉はあくどいことを考えているなと分かった。


「もう少し儂に利益のある話がないのか? 重い腰を上げられるくらい魅力ある提案が欲しい」

「あ、あなたは、どれだけ欲張りなんですか!?」

「強欲でなければ大名などやれんわ。ほれ、もっと出せるだろ」


 手をこまねく信長に対し、伊藤は「これは内々の話なんですが」と渋々切り出した。


「私は政府に戻ったら工部卿に就任することになっています」

「なんじゃい、その工部卿とやらは」

「殖産興業に携わる役職です。つまり、この国の内政を司る立場になります」


 信長の目がきらりと光ったのを見たのは永倉だけだった。


「私が工部卿に就任したら、北海道を優先的に開拓や融資をすることを誓います」

「……その誓いはどう証明する?」

「誓紙を書いても織田先生は私を信用しないでしょう」


 伊藤は岩から降りて開墾したての地面に頭を付けた。

 土下座である。


「この私を信じてください! 私という人間を信じて、戦争を止めてください!」

「工部卿となる者が、そのような情けない真似をして恥ずかしくないのか」

「情けなくとも恥ずかしくとも、私にできることをするまでです!」


 しばらく黙って見ていた信長はふいに永倉に言う。


「なあ。儂がいなくなっても大丈夫か?」


 それは信長がしばらく留守にするという意味だと永倉は分かっていたけど、何故か永遠の別れのように思えた。信長の病のことが頭によぎったのかもしれない。


「……今しばらくは。そして織田さんが必ず帰ってくると約束してくれれば平気でしょう」

「であるか……おい、エムシ。おぬしもついてくるか?」


 その言葉に伊藤とエムシは同時に驚いた。

 信長が京に行くこととエムシを同行させることと二人が思ったのは別だったが、それでも二人は驚愕した。


「なんで俺まで?」

「アイヌの言葉を教えてくれるんだろ」

「帰ってきてからでもいいじゃんか」

「おぬし、外の世界を見たくないのか?」


 信長の問いにエムシは胸中にあった憧れをかきたてられた。

 さらに「儂の面倒を看てくれる若者が要る」と言う。


「無論、行きたくなければ別にいいが」

「……仕方ないな。一緒に行くよ。とうもろこしとかいっぱい食べたもんな」

「なんだ。気にしていたのか」


 一連の話を聞いた伊藤は土下座のまま「ありがとうございます!」と感謝した。

 知らず知らずのうちに涙を流す。

 ああ、これで日本は救われる――

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?