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第100話 チェイナのターニングポイント

マゴスの瘴気が立ち込める王都の片隅でチェイナは生きている。

暗闇に染まる空ばかりが広がり、鮮やかな青色を見た頃の方が遠い昔に感じる。

母も父も大勢いた兄弟達もマゴスの瘴気に侵され死に絶えた。

中には魔物に変貌して冒険者に討伐された者もいる。


そうして、生き残っているのは自分だけ…。


それでも何とか生きているのはこの辺りを仕切っている”銀の月”のおかげなんだろう。


サイ様はじめ、その声に従う男達が見回ってくれているおかげで横行していた無礼を働く者達は格段に少なくなった。若い女のこの身でも一人で歩けるぐらいには治安がいい。

だから自分は幸せなのだと思っている。

しかし、それでもくじけそうになっていた。

まだ辛うじて開店していたバーの店主が倒れたからだ。


私の命綱。

やっと、見つけた働き先だったのに…。

これからどうするべきか。

お金がなければ、値上がりを幾度も繰り返すアパートの家賃も払えない。


この身を売るしかないのかしら?

娼館は今も昔も変わらずに人の出入りが激しい。

いや…。それすら危うくなってきている。

だから、夜の町に立つ女性や男達の数は日に日に増えているのだ。

取り仕切る者達の力が弱まり、誰も彼もが好き勝手に客を取り始めているという事だから。

その中に私も加わる日がきたのかもしれない。

そんな思いがよぎる中、近所を根城にしているおばあさんが唐突につぶやいた。


「いつ、聖女様は助けてくださるのかね?」

「えっ!」

「王太子様の婚約者様だよ」

「聖女様だっていうなら、マゴスの瘴気にあてられた人間達の保護じゃなくて、私達を助けて欲しいよ。さっさとその高貴なお力で闇の脅威を払いのけてくれればいい!!こんなもの、くそくらえだ」


そう、怒りをぶつけるおばあさんの足元にチラシが転がっていた。


王太子の婚約者様がお作りになった診療所の求人だった。

お給金も破格で、さらに住み込み。

今の私には夢のような話だ。


「全く、マゴスの瘴気なんぞに魅せられた人間を助ける連中がこの街のどこにいるって言うんだ!」


未だに悪態をつくおばあさんは酒瓶を持ったまま消えていく。


マゴスの瘴気…。


成すすべなく死んでいった家族の顔がよぎった。

誰も手を差し伸べてはくれなかった。

あのおばあさんのように吐き捨てるだけ。

あちら側にはなりたくない。

いえ、そう言い聞かせているだけで、本当はお金の方に関心がある。

誰もが飢えている。

私もそうだ。

何よりも安全にお金を貰える場所が欲しい。


瘴気?


バカにしないでよ。私に失う物なんてないんだから。

しかし、問題はある。ただ、訪ねれば受け入れてくれるというわけでもないらしい。

チラシには面談ありと書かれているのだから。

ならば、この方々に選ばれなければならない。

どんな手を使っても…。


覚悟を決めて、チェイナは足を進めた。


「初めまして」


診療所と呼ぶにはあまりにも立派な建物がチェイナを待っていた。

そして、ここの主と思われる女性とおそらくは聖女候補筆頭にいるとされるクラヴェウスのご令嬢。

二人を前にして、身が引き締まった。

とても緊張する。


「求人を見て来てくださったのよね。楽にして」

「はい…」


用意されていた椅子に腰かけた。

友好的に思ってもらわなければならない。

私には行く当てがないのだから。


「私はソフィア。こちらはオリビア。貴女のお名前は?」

「チェイナです。ファミリーネームはありません」


ファミリーネームを持つのは主に貴族や金のある豪商たちのみだ。

彼女達も名乗らなかったのはもしかしたら、私に配慮したからかもしれない。


「早速だけれど、貴女は患者たちと向き合う覚悟はあるの?求人を出した身として言うのもどうかと思うけれど、ここに出入りしていると言う理由だけで非難されるかもしれない」


そう言い放ったのはオリビアという女性。

鋭い視線が背中を通り抜けていく。

彼女もおそらく貴族だろう。直感が告げている。

私とは住む世界の違う人間。

けれど、多くの物を潜り抜けてきたような…例えるなら戦士に似た雰囲気をまとっている。

偽りを述べるのは逆効果かもしれない。


「家族も瘴気に呑まれ、命を落としました。今更、何を怖がる必要がありますでしょうか?私は何もできずにただ死にゆくのを見ていました。だから、あんな惨めな思いはしたくない。それが一つ目の理由です。でも本当はお金が欲しいのです。そして、住む場所も…。飢えたない!最低限でも構わない。人として扱ってほしい。ここに来たのは破格の給金が約束されているからです」


言い切ってしまった。でも、ウソはつけない。ここに来るまでに聞こえのいい言葉をいくつも考えてきたけれど、教養のない自分ではあまり、良い文は考えられなかった。


「いいわ。利己的な人間は嫌いじゃない。チェイナ。貴女は純粋にお金が欲しいと言った。ならば、それに見合う働きをしてくれると期待するわ。私の助手として迎え入れる。ソフィア様…。それで構いませんね」

「すべてはオリビアが決める事よ。私は異論は述べない」

「では、チェイナ。貴女をここに迎え入れるわ。言っておくけれど、こき使う。良いわね」

「はい。ありがとうございます。オリビア様」


手を差し出された彼女の手を握り返す。

貴族とは思えないほど、その肌は荒れていた。

職業人の手だ。


そうして、新しい日々が始まった。

患者として、過ごしている人間のほとんどが私と同じ匂いがした。

何より、最初にあった時よりもオリビア様は優しい笑みを称えている。

そして、一番驚いたのは聖女に最も近いとされるソフィア様も同じように彼らと向き合っていた事だ。ここに来る前におばあさんが言った言葉がよぎった。


「聖女様は助けてくださるのかね!」


そう憤慨している声だ。


けれど、目の前の聖女は誰よりも献身的に彼らと向き合っている。


マゴスの脅威がなんだ!!


確かにここには聖女と呼ぶにふさわしい方がいる。

この人しか”聖女”にはなりえないと思うほどに…。

いえ、それを言うなら、オリビア様も含まれる。

自ら行動して、誰かを助けているのだから。


長年過ごしてあの場所で医師とは名ばかりの治療を行う者達とも違うのだ。。

私も彼女達のようになりたいと思った。


その足元にも及ばないと分かっていても…。


生まれて初めて誰かに憧れる感覚にチェイナは少し嬉しさを感じていた。

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