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53話:股間からナマコ事件

 目を覚ますと両隣に誰の気配もない。


「ベルトルドさん一人で起きられたのかな…?」


 ぽつりと呟いてキュッリッキは小さくあくびをすると、ゴロリと寝返りをうって、また小さくあくびをする。

 フェンリルの寝ているソファのそばにあるテーブルに置かれた時計を見ると、ちょうど針は午前6時を示していた。

 目をこすりながら起き上がってベッドから這い出ると、窓に駆け寄ってカーテンを丁寧に開けていく。

 空はやや曇天で、薄い灰色の雲と陽光を照り返したような、白い雲が折り重なるように空を覆っていた。

 雨は降りそうにもなかったが「朝くらいは眩しい陽光ひかりを拝みたいなあ」と、キュッリッキは残念そうに唇を尖らせた。

 部屋に隣接した衣裳部屋へ駆け込むと、膨大な衣服の中から、一人でも着用が可能なシンプルなワンピースをハンガーからはずす。


「これは室内用、これは外出用、これはパーティ用、これは……」


 以前リトヴァに説明してもらったが、キュッリッキには覚えられない。

 自分のために用意されたものなのだが、どう見ても他人の持ち物にしか見えないのである。ここに用意されたのは全て夏物。どう考えても夏のあいだに着れる量じゃない。それこそ一日10回は着替えないと、全部に袖を通すのは無理だった。

 ベルトルドの趣味、とアルカネットに念押しされた寝間着にしているベビードールを脱ぎ、キュッリッキは下着の棚をゴソゴソと漁る。

 今までサイズがなく着用経験がなかったが、誕生日祝いにアルカネットから大量のブラジャーなどの、ランジェリーセットをプレゼントされている。

 実はキュッリッキはブラジャーにとっても憧れていた。ずっとずっと欲しくて欲しくてたまらなかった。それをアルカネットに言ったことがあったので、覚えていてくれたのだろう。

 自他ともに認めるまな板胸、多少膨らみはあるものの、ブラジャーをつけるほどでもなくサイズもない。しかしプレゼントしてもらったブラジャーは、完璧にキュッリッキの胸にフィットし、カップは余らず綺麗なラインを作り出していた。

 キュッリッキのために作らせた特注品だということだが、何故サイズが正確に判ったんだろう、と疑問に思うことは時々ある。まさか寝ているあいだに身体中を触られていたなどと思いもよらないだけに、「アルカネットさんってすごいな~」とキュッリッキは心底感心していた。

 水色のレースのランジェリーの上下とキャミソールタイプのワンピースを持って、部屋に備え付けの浴室に入る。

 頭と髪と身体を丁寧に洗いシャワーで流すと、湯船には浸からずに出て、身体を拭いて歯を磨き、ドライヤーで髪をよく乾かして服を着た。

 ベルトルド邸にきて初めて使ったドライヤー。熱風が吹き出して髪の毛を素早く乾かしてくれる。電力を利用した便利な機械品だ。

 電力というものは、庶民たちの生活の中にあまり多くは普及していない。ハワドウレ皇国の中でも、ハーメンリンナ以外では軍や行政機関、公立病院、公共機関などに集中する。何故なのかはキュッリッキも知らなかったが、電力や機械製品がなくても人々は普通に生活できるのでとくに困ることはなかった。「こういうのがあると便利だね」程度のものである。

 今では怪我の影響もなく自分で出来るようになったので、メイド総出の身支度劇はなくなった。リトヴァやアリサなどは、支度を手伝うのは当然だと言う。しかし庶民出身のキュッリッキは、動けるようになったから自分でやりたいと断っていた。

 身支度が整うと、まだ寝ているフェンリルをそのままにして部屋を出る。

 まっすぐ食堂へ向かうと、眠たげな顔をしたライオン傭兵団のみんなと、きっちり身支度を整えたアルカネットがテーブルについて朝食をとっていた。


「みんなおはよ~」


 元気に食堂に挨拶を投げかけると、食堂のあちこちから挨拶が返ってきた。


「おはようございます、リッキーさん」


 アルカネットはキュッリッキを抱き寄せると、愛おしげに頬にキスをする。毎朝のことだが、これにはザカリーの不満そうな視線がちくちくと投げかけられるが無視された。


「ベルトルドさんは?」


 アルカネットの向かい側にある自分の席に座ると、ベルトルドの空の席を見ながらぽつりと呟く。


「真夜中に帰られたので、ご自分の部屋でおやすみになっていますよ」


 紅茶のカップを手にしながらアルカネットが答えると、キュッリッキは「だから居なかったんだあ。忙しいんだね~」と頷いた。


「もう少し寝かせてあげたいところですが、今日も朝から会議が詰まっていますから、そろそろ起こしてこないと」

「じゃあ、アタシが起こしてきてあげる!」


 意気揚々とキュッリッキが身を乗り出すと、アルカネットは暫し考え込み、


「ではお願いできますか? リッキーさんが起こせば、未練たらしく枕にしがみつかないでしょうし」

「任せてっ」


 キュッリッキは元気よく立ち上がると、軽やかな足取りで食堂を出て行った。




 ベルトルドの部屋は東棟の2階にある。

 やしきの主の部屋はどの部屋よりも広く、扉も一回り大きい。白で塗装され控えめな金細工を施された重厚な扉を、キュッリッキは小さな拳でノックする。


「ベルトルドさん、入るよぉ」


 鍵のかかっていない扉を開けると中は薄暗く、ベルトルドが起きて動いている気配はなかった。

 閉められたカーテンの僅かな隙間からもれる薄明かりを頼りに窓辺に駆け寄り、キュッリッキは重厚なカーテンを左右に開けてタッセルでまとめる。

 カーテンを全て開けて鈍い明かりを部屋に取り込みながら、何度もキュッリッキはベルトルドを呼ぶ。

 このところ仕事が忙しさを極め、帰宅する時間も夜中になることが多い。夜中になるときはキュッリッキの部屋へは行かず、自室で寝るようにしているベルトルドとアルカネットだった。

 仕事を持ち帰ることもあれば、酒を飲みたい時もある。騒がしくしてキュッリッキを起こさないようにとの配慮だ。

 天蓋付きのキングサイズのベッドに、ベルトルドは大の字になって寝ており、しかもまっすぐ寝ないで斜めになって寝ている。風呂上がりにでも寝たのか、あるいは着替え途中にでも寝てしまったのか、シーツからはみ出した上半身は裸だった。


「風邪ひいちゃうんだから……」


 ベッドの上に這い上がると、心配そうに寝相の悪いベルトルドを覗き込む。ぐっすり寝ているベルトルドを、どう起こそうか思案を巡らせた。


「ベルトルドさん、朝だから起きて~」


 耳元で少し大きな声で呼ぶが、ぴくりともしない。

 次にほっぺたをペチペチと叩いてみるが反応しない。ちょっとつねってみても唸り声もあげない。

 キュッリッキの部屋で寝ているときは、アルカネットと2人がかりで起こすのですぐに目を覚ましてくれる。しかし今日のベルトルドは眠りが深いのか、中々起きそうもなかった。


「てごわい……」


 腕を組んでベルトルドを見おろしていると、シーツの一部が小さな山を作っているのを見つけて、キュッリッキは首をかしげた。


「なんだろう?」


 妙にその小さな山が気になって気になって、キュッリッキは「そだ!」と掌を打ち付けた。


「ベルトルドさん、早く起きなきゃダメなのーーー!!」


 両手でシーツを掴み、ガバッと勢いよくシーツを持ち上げめくった。




 たいして会話もなく、食器のカチャカチャという音が鳴り響く食堂に、けたたましいキュッリッキの悲鳴が轟いた。

 みんな口の中のものを吹き出しそうになって、ガタガタと椅子から立ち上がった。

 尋常じゃない悲鳴に、血相を変えたアルカネットはすぐ食堂を飛び出してキュッリッキの元へと走る。ライオン傭兵団も慌ててあとを追った。

 途中の廊下で、駆けてくるキュッリッキをアルカネットは柔らかく抱きとめた。


「一体どうしたのですか、今の悲鳴は?」

「た、た、たいへんなのー!」


 キュッリッキは半泣き状態でアルカネットの軍服を掴む。

 追いついてきたライオン傭兵団のみなも、2人を取り囲んで何事かとキュッリッキを見る。


「どうしようどうしよう」

「落ち着いてくださいリッキーさん、一体どうしたのですか?」


 優しくなだめると、キュッリッキは何度もしゃくり上げる。


「あのね、あのね、ベルトルドさんの股間に、でっかなナマコが張り付いててね、それでそのナマコがにょきっと立ってたの」


 しゃくり上げながらそう言うと、キュッリッキはワーワーと泣き出してしまった。

 しかしキュッリッキとは反対に、その場にいた全員が口を引きつらせて、握り拳を作ったのは言うまでもなく。


 ――あのオヤジっ!!!


 アルカネットだけはすぐに冷静な表情を取り戻すと、キュッリッキに爽やかに微笑みかけた。


「それは大変汚らわしいものを見てしまいましたね。大丈夫ですよ、わたしがエルプティオ・ヘリオスで焼き尽くして差し上げます」


「いや、それはマズイだろっ!?」と皆ツッコミたかったが、アルカネットの口ぶりが『本気と書いてマジと読む』状態なので誰も口を挟めなかった。怒りのオーラが全身にみなぎっている。


「近くに海もないのに、どっから来たんだろうナマコ」


 キュッリッキはぐすっぐすっと泣きながら呟く。


「皆はリッキーさんを食堂へ。――くれぐれも、余計なことは言わなくていいですからね?」

「は、はい」


 アルカネットの不気味極まる深い笑顔に、カーティスが引き攣りながら代表して請け負う。


「ああ、それと、リッキーさんの朝食には、ソーセージは一切出さないように使用人たちに言っておいてください」


 今朝の朝食の皿の中身を思い出し、アルカネットは釘を刺すとベルトルドの部屋へ向かった。


(怒ってる……間違いなくマジで怒ってる)


 去りゆくアルカネットの背を見て、ルーファスは心の中でベルトルドのために合掌した。




 開けっ放しの扉を更に開けて中に入ると、ベッドの上に半身を起こしたベルトルドが、あくびをしながら眠そうに頭を掻いていた。


「アルカネットか……。なんか、リッキーのものすごいデカイ悲鳴が聞こえたような気がしたんだが、何かあったのか?」


 腕を組んだまま、ベルトルドの姿をたっぷりと見やって、アルカネットは大仰に溜息を吐きだした。


「パンツくらいはきなさい。いつまでその粗末なものをさらけ出しているんです」


 ベルトルドは寝ぼけ眼をアルカネットに向け、次に己の股間に向けた。


「粗末とは失礼な。立派なモンだぞ、これ」


 眠たげな顔をしながらも、偉そうにふんぞり返っている。


「星の数の女どもを悦ばせてきたんだぞ、これで」

「そうですか。ではもう使い飽きたでしょう。ナマコは退治しますと、リッキーさんと約束しましたから」


 アルカネットはにっこりと微笑みながら、両掌にメロン大くらいの火の玉を作り出した。


「一瞬で消し炭にして差し上げます」

「ちょ、何をしている? ナマコってなんのことだっ!」


 慌てて跳ね起きると、飛んできた火の玉を空間転移でかわす。


「さっさとパンツ履けコラ」


 目つきと口調がガラリと変わり、ブラック・アルカネット――キュッリッキが命名――が顔を出しベルトルドは慌てた。


「判ったからエルプティオ・ヘリオスは止めろっ!!」



* * *



 朝食の皿の中はアルカネットの指示で差し替えられ、キュッリッキの前に出されたのは、スクランブルエッグと2種類のハムだった。これに生野菜が苦手なキュッリッキのために、特別に温野菜にかえられたサラダとクロワッサンが用意された。

 何度かしゃくり上げながらキュッリッキがもそもそと朝食を食べ始めたところへ、身支度が整ったベルトルドと、後ろに付き従ったアルカネットが食堂に姿を現した。


「おはようございます」


 カーティスが声をかけると、思いっきり不機嫌を露骨に表情に浮かべたベルトルドが「おう」と短く応じる。

 キュッリッキは不安そうにベルトルドの股間に視線を貼り付けたまま、ベルトルドが椅子に座ってもまだ見ていた。


「おはよう、リッキー」


 ベルトルドが精一杯の笑顔でキュッリッキを見るが、誰が見てもその表情は引き攣りまくって苦しそうである。

 上目遣いでベルトルドを見ながら、キュッリッキはこくりと頷くだけだった。


(ナマコに噛まれてないかな……取れたのかなあ…大丈夫かな…)


 キュッリッキが何を想像していつまでも自分の股間に視線を注いでいるか、心を読まなくてもベルトルドにはお見通しだ。

 実はキュッリッキは初めて、成人男性の裸を目の当たりにしたのである。

 修道院にいたころは、いつもほかの子供達と隔絶されていたため、男子の裸を見たことがない。なので女性と男性の身体の違いは、胸の有無と体格差だけだと思い込んでいたのだ。

 港町ハーツイーズに住んでいた時に、時折漁船から下ろされた荷の中にナマコを見かけたことがある。たまたま覚えていたナマコと色や形が似ていたように思えて、ベルトルドの股間にナマコが張り付いていたと勘違いしている。

 一方のベルトルドは、自分のモノをナマコに例えられて酷く傷ついていた。「間違えるならせめてキノコかフランクフルトじゃ!?」と思うと涙が出そうだ。しかも大きな悲鳴を上げて泣き出されたことが、よけい心の傷を深くした。有難がられても、泣き出されたことなど一度もない。更にキュッリッキに泣かれたことが一番堪えた。

 完全に食欲の失せた顔で、目の前に出された皿の中にフォークを突き刺して溜息をもらす。そんなベルトルドの様子を見て、キュッリッキが不安そうにベルトルドの顔を見上げた。


「やっぱりナマコに噛まれたの? 痛いの?」


 この問いに、ライオン傭兵団一同は吹き出したいのを必死で堪えて、俯き身体を震わせる。ヴァルトなど、自分の膝を拳でドスドス叩いて笑いを堪えていた。


「さっさと支度して出勤しろ貴様ら!」


 テーブルを掌で叩いてベルトルドが怒鳴る。それにびっくりしたキュッリッキが、ぽろぽろと涙をこぼして泣き出してしまった。

 アルカネットが慌ててキュッリッキの傍らに行って、優しく抱きしめる。


「あなたが裸で寝ているのが悪いんですよ」


 じろりとアルカネットに睨まれて、ベルトルドは頬をひきつらせた。


「シャワーを浴びて出てきたら、眠気限界で寝てしまったんだ」


 口をへの字に曲げて、ベルトルドはむっすりと黙り込んだ。


「さあリッキーさん、部屋へ戻りましょうね」


 アルカネットに優しく促され、キュッリッキは頷くと席を立った。

 食堂を出て行くアルカネットとキュッリッキの後ろ姿を見送って、ベルトルドはガックリと肩を落として額をテーブルにつけて落ち込んだ。



* * *



 総帥本部へ出仕したベルトルドは、デスクに突っ伏してメソメソとため息を漏らしていた。


「ナマコ……ナマコ……」


 呟くたびに涙がこぼれる。


「いずれリッキーを悦ばせることになるだろう暴れん棒を……ナマコなんぞと勘違いするとは…何故にナマコ…」


 ベルトルドの心も股間も、シクシク悲しみに暮れた。

 そこへリュリュが執務室に入ってきた。


「おはようベル。なぁによ、激しく落ち込んじゃって」


 顔をのろりと上げると、なよっと特徴的な立ち方をするリュリュと視線がぶつかった。


「なんだ、リューか」

「なにその素っ気ない反応は。あーたの代わりに宰相府での仕事を、ぜーんぶ終わらせてきたのよっ!」

「ご苦労…」

「ンもぉ、元気ないじゃなぁ~い。アルカネットにでもいじめられたの?」

「そんなのしょっちゅうだ…」

「だったらなんなのよっ、今日も激しく忙しいのよ」


 今朝の出来事を涙ながらに語ると、リュリュは垂れ目をめいっぱい開き、そしてケタケタと笑いだした。


「ばっかねぇ、男も知らないような小娘の言うことに、何ホンキで傷ついてるのよ。そうねえ、良い機会だから一緒に風呂にでも入って、男のカラダをすみずみまで教えてあげたら?」

「それは名案だな!」


 ガバッと身を起こし、鼻の穴を膨らませた。一瞬で桃色妄想が脳内に広がる。


「もっともぉ、アルカネットが黙っていないでしょうけれど」

「殺される…」


 再びベルトルドはデスクに撃沈する。妄想も霞んで消えた。


「19歳にもなって男の裸も見たことないなんて、随分珍しいわね。傭兵たちと一緒に居れば、イヤでも目にする機会はあったでしょうに」


 リュリュは書類を整理しながら不思議そう肩をすくめる。それについてベルトルドは何も言わなかった。おそらくフェンリルが、そのあたりはしっかりとガードしていたのだろうと想像していた。

 幼い頃から冷たい大人社会に放り込まれていた割に、知っていて当たり前のことが判らなかったり、珍しいことには詳しかったりするところがあるのだ。


「でも、あーたの暴れん棒をナマコって表現するナンて、面白い小娘ねえ」


 リュリュはニヤニヤとベルトルドを見ると、ベルトルドは憮然と鼻息を吐きだした。


「この戦争が終わったら、次はナマコの駆逐に励むかな、俺は…」

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