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161話:辛い記憶

 一同は食堂へ通されると、酒や食事を振舞われ、みんなひとまず息をついた。

 疲れたり何かあると食欲が減退するキュッリッキには、食べやすいよう好きなムース菓子が用意された。案の定食欲はなかったが、キュッリッキも少しだけムースを口に入れた。


「前にハーメンリンナのやしきに押しかけに行ったとき、やしきが丸ごとなくなってて驚いたんですが、もしかして…」

「そっ。ベルがやしきや庭を丸ごとここに移築したの」


 本来解体して運び出すものだが、空間転移が操れたベルトルドならではの荒業である。


「でも一体、なんのために?」

「小娘とあーたのためよ、メルヴィン」

「オレ?」

「そうよ。小娘の未来の旦那様のため」

「えっ…」


 思わず顔を赤らめるメルヴィンに、リュリュはくすくすと笑う。


「口ではなんだかんだ言ってても、ちゃーんと認めちゃってくれてたのよ、あーたのこと。このやしきはベルのものだけど、小娘所有の家でもあるの。正式に結婚してはいないけど、小娘とあーたの共同名義に書き換えられているわ」

「逆玉…」


 隣でタルコットが、羨まし気にぽつりと言う。


「ハーメンリンナの中に残しておいても良かったけど、ベルがね「どーせライオンの連中は、お堅い所は嫌だなんだ言って近寄らないだろ。そしたらリッキーがつまんながるからな」て言ってね、ハーメンリンナの外に出しちゃったってわけ」


 図星だ、という雰囲気が食堂に漂った。


「暫くはイララクスの復興、アジトの再建であーたたちも仮の家が必要でしょ。落ち着くまでは、ここに居候させてもらいなさい」

「そうです、再建しないと」


 ハッとしてカーティスが呟く。


「開店休業状態になるだろうけど、後ろ盾についてたベルから、色々なものを預かってるの。あとで説明したり渡したりがあるから、顔貸しなさいカーティス」

「はい」

「メルヴィンはあとで、セヴェリから説明してもらいなさい」

「判りました」

「とにかく今夜は、酒でも飲んで身体をゆっくり休ませないさい。もうちょっとしたらヴィヒトリも診察に来てくれるから」




 皆が食事を終えた頃、ヴィヒトリが大急ぎで駆けつけてくれた。急患が立て込んで、中々病院を抜け出せなかったらしい。

 ハーメンリンナの大病院の医師たちも、イララクスに緊急出動で、てんてこ舞い状態だという。

 ヴィヒトリは連れてきた女医と一緒に真っ先にキュッリッキの診察をしてから、順番にライオン傭兵団の診察に取り掛かった。


「ドーピング飲んだやつには、中和剤をちゃんと飲ませてくれたんだね。ありがとランドン」

「動けないままだとヤバかったしね」


 ヴィヒトリ特製ドーピング薬は、身体に相当キツイ負荷を与えるものでもあった。効果が切れたあとすぐ中和剤を含ませないと、命の危険があったのだ。


「キューリは大丈夫なのか? その…」


 言いづらそうに言葉を濁すザカリーに、ヴィヒトリは小さく笑った。事情はリュリュからすでに聞かされていた。


「女医を一人連れてきてるから、彼女に任せてあるよ」

「そ、そっか」

「デリケートな問題だからね」

「だな…」

「そいえば、メルヴィンは?」

「ああ、セヴェリさんと書斎にいるよ」

「ふーん?」

「一国一城の主になっちまったからな」


 ギャリーがにやりと言う。


「じゃあちょっと書斎行ってくる。あんまりゆっくりしてられないんだボク。患者が24時間押しかけ状態だからさ」


 軽症から重症まで、医者の救いを求めている人々が、被災地にはたくさんいるのだ。


「にいちゃんは、全然疲れてなさそうだね」

「あったぼーよ! 俺様の鍛え方は、ナンジャクなそいつらとはチガウんだぜ」

「……だってさ」


 ヴィヒトリがくるっと首を後ろに向けると、タルコットとギャリーとガエルが、噛み付きそうな顔をヴァルトに向けていた。




 書斎へ向かって歩いていると、ちょうどメルヴィンが反対側から歩いてきた。


「よー、メルヴィン」

「ヴィヒトリ先生」


 書類を見ながら歩いていたようで、顔を上げてメルヴィンは苦笑した。


「診察にきたよ。そこの椅子に座ってよ」

「はい」


 廊下の端々には、椅子が1脚ずつ置かれている。何のためなのか2人は知らなかったが、以前怪我が治ったばかりのキュッリッキが、やしきの中を歩いていて、あまりの広さに疲れてしまった。


「途中で座りたくなるかも」


 そうベルトルドにぼやいたら、翌日からこうして椅子が置かれたという経緯がある。

 メルヴィンの身体を触診しながら、時々問診する。


「そういえば、一国一城の主になったんだって?」

「……はい、そうなんです…」

「あんまり嬉しそうじゃないんだね」

「いえ、そんなことはないんですが、その…」


 首をかしげたヴィヒトリに、メルヴィンはため息をつく。


「あまりにも大きすぎて、しかもリッキーの相続した財産やらなにやら、もう天文学的数値で、頭が追いついてきません」


 メルヴィンが手にしている書類を覗き込むと、ヴィヒトリもその桁に絶句した。

 本来キュッリッキに支払われるべきだった年金やら、ベルトルドとアルカネットから贈与された財産やら、10代先の子孫まで豪遊して暮らしても使い切れない額である。

 ベルトルドとアルカネットは、若い頃から投資をしていて、それで築いた財産は天文学的数値である。

 実家にもかなりの額を送ったらしいが、それでも手元に残された額がこれである。

 何から何まで、桁違い、想像を絶するレベルな彼らだった。


「それにこのやしきも、使用人が56名もいるそうです。管理はセヴェリさんとリトヴァさんがしますが、それでもなんて数でしょうね」

「まあ、ハーメンリンナの貴族たちに比べたら、半分位少ないけど」

「えー…」


 メルヴィンはガックリと肩を落とした。これで少ないのかと。


「住んでればそのうち慣れる慣れる。キュッリッキちゃんも、すっかりここの暮らしに慣れちゃってるし。使用人たちがあんまり堅苦しくないしね」


 本来キュッリッキは、傭兵などしていい身分ではなかったのだ。それが、異例の異例づくしで今に至る。


「そうですね。これはリッキーのためのものであって、オレはオマケですから」

「身も蓋もない言い方をするとそうなるけど。キミ以外の誰も、キュッリッキちゃんのオマケにはなれないんだよ」

「はい」


 メルヴィンは照れくさそうに笑った。


「ちょっと背中の打ち身が気になるから、あとで薬を出しておくよ。骨には異常はナイのと、痛み出す前に薬を飲んでおいて」

「判りました」

「じゃあボクは街に戻るよ。患者が大勢待ってるから。何かあったらすぐ呼んで、駆けつけるから」

「はい、ありがとうございました」


 帰っていくヴィヒトリを見送って、メルヴィンは南棟へ向かう。

 そこにはキュッリッキの部屋があり、以前使っていたメルヴィンの部屋もあった。しかし今度は、東棟にあるやしきの主のための部屋が、メルヴィンの新しい部屋として指定されていた。かつてベルトルドの部屋でもあった。

 寝るときはキュッリッキの部屋になるだろうし、あまり使わなさそうだ。そう思うと、今日何度目かの溜息を吐きだした。寝られれば正直どこでもいいとメルヴィンは思っている。

 そうは思っても、今日からこのやしきの男主人である。女主人はキュッリッキで、まだ正式に結婚も手続きもしていないが、2人の家になったのだ。

 クラクラする頭を抱えながら、メルヴィンはキュッリッキの部屋のドアをノックした。


「どうぞー」


 中からキュッリッキの声が答えて、メルヴィンはドアを開いた。


「メルヴィン」


 ベッドに腰掛けていたキュッリッキは、嬉しそうにメルヴィンに駆け寄って飛びついた。


「セヴェリさんとお話終わったの?」

「ええ。一応終わりました」


 疲れたように薄く笑うメルヴィンを、キュッリッキは不思議そうに見上げた。


「疲れてる」

「そうですね…世界が一瞬で変わってしまって、頭がまだついていっていないんです」

「そうなんだ」


 あんまりよく判っていない様子で、キュッリッキはメルヴィンから離れた。


「もう寝る?」

「そうしましょうか。自分の部屋で風呂に入ってきます」

「じゃあアタシもお風呂入ってくる。今日はアタシの部屋で一緒に寝ようね、メルヴィン」

「はい」


 メルヴィンがにっこり笑うと、キュッリッキも嬉しそうに微笑んで、部屋に備え付けのバスルームへと駆けていった。




 キュッリッキはバスルームに隣接したドレッシングルームでドレスと下着を脱ぎ捨てると、温かい湯気の立つバスルームに飛び込んだ。キュッリッキがいつでも使えるように、すでに湯がはられている。

 ふと、湯気でくもった大きな鏡に映った自分に気づいて、キュッリッキは握り拳を作ると、鏡のくもりをゴシゴシと拭う。

 じっと見つめていると、鎖骨や肩、よく見ると腕や胸にも、赤い痣のようなものがある。なんだろうと胸にある痣に触れた瞬間、キュッリッキはゾワッと顔を強ばらせ、その場にしゃがみこんだ。


「こ……れ……ベルトルドさん…の……」


 あの時、ベルトルドの唇が触れて、激しく吸いたてられた場所。己の所有物と言わんばかりに顕示した証。


「い、いや…」


 細っそりした身体がカタカタと震えだし、キュッリッキは両手でかいなをぎゅっと握り締めた。

 つい今しがたまで忘れていた。それをはっきりと思い出し、涙があとからあとから溢れてくる。

 思い出した瞬間、ベルトルドの唇や舌が身体をイヤらしく這っていった感触も、そして、身体の中へと入ってきた感触も、全部思い出してキュッリッキはその場に吐いた。

 怖くて、怖くて、そして気持ちが悪い。

 胃が締め付けられるほど苦しくても、とにかく吐くだけ吐く。そうして涙と吐き気が落ち着いてくると、身体の震えも少しずつおさまってきた。

 萎えた足でゆっくり立ち上がると、シャワーのハンドルを倒して湯を出す。吐瀉物を洗い流し、嫌な味のする口内をすすいで、キュッリッキは身体を洗うスポンジを取った。

 薔薇の香りのするソープをスポンジに沢山出して、泡をたてると身体を擦り始める。

 シャワーを出しっ放しにしているので、泡はすぐに流れてしまう。それでもまたソープをスポンジに出して、身体を擦った。

 繰り返し繰り返し、何度も同じことを続けた。もうボトルからソープは出てこない。


「なくなっちゃった……」


 ぽつりと呟いたあと、水気を吸ったスポンジで、痣のところを擦りだした。手に力を込めて、ゴシゴシと強く擦る。


「メルヴィンに見られないようにしなくちゃなの」


 一生懸命擦った。


「痣を見たら、メルヴィンはきっと嫌な思いをするの」


 たとえメルヴィンが許してくれても、これはメルヴィンを裏切った証なのだ。

 ベルトルドに身体を与えてしまった証。


「消しちゃうんだから」


 必死に擦り続けた。すると、次第に皮膚が赤みを増し、ついには擦り切れて血が滲みだした。それでもキュッリッキは手を止めず、痣のある部分を徹底的に擦り続けた。痛みなど感じなかった。

 心の中が、もっともっと、痛かったから。


「アタシはメルヴィンのものなの……メルヴィンだけのものなんだもん」

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