主が変わるということで、ベルトルドの私物などは整理され、きれいに掃除されてはいた。しかしまだベルトルドの残り香のする部屋で、メルヴィンは入浴を済ませてホッと息をついていた。
入浴中にセヴェリが置いていってくれただろうウィスキーをグラスに注ぎ、一口含んでため息をつく。
椅子に座ってベッドの方を見ると、キュッリッキがいきなりベルトルドにキスをして、大騒ぎになったことを思い出して苦笑する。
あれからまだ半年も経っていない。
短い間に、なんと色々なことが起こったのだろう。そのことに思いを馳せ、メルヴィンはベルトルドやアルカネットを失った痛みを、改めて噛み締めた。
今回の件がなければ、彼らは恐ろしくても、頼りになる後ろ盾だった。厳しい言動や態度が多かったが、特にベルトルドの場合は、その中に愛情のようなものも感じられた。
好かれていたのかと思うと気持ちは複雑だが、キュッリッキとのことを認めてもらえていたのだと判ると、亡くしたことが悔やまれてならない。
歳は11離れていて、自分とキュッリッキと同じだ。
おっかないアニキといった感じであり、キュッリッキのためにもまだ生きていてほしかったと、今はそう思えた。
グラスの中のウィスキーを飲み干して立ち上がると、バスローブ姿のまま部屋を出た。
キュッリッキの部屋を出て、かれこれ1時間は経っている。
「待ちくたびれてるかな…」
少し急ぎ足でキュッリッキの部屋へ向かい、ノックもそこそこに部屋へ入ると、まだバスルームからは出ていないようだ。
ソファにある青い天鵞絨張りのクッションの上には、仔犬姿のフェンリルとフローズヴィトニルが、仲良く並んで丸くなっている。
数時間前、巨大化した狼姿の2匹を見ているだけに、なんとなく引き気味になってしまう。
「キュッリッキはまだ出てきていない」
突っ慳貪な口調でフェンリルに言われて、メルヴィンは焦って苦笑った。
「判りました。ありがとうフェンリル」
今回の件があるまでは、言葉も交わしたことがなかった。でも今こうして話しかけてくれるのは、少しはキュッリッキの恋人として認めてもらえたのだろうか。
ベッドに腰を下ろし、キュッリッキが出てくるのを待っていたが、刻々と時間は過ぎ、あっという間に30分が経った。
「おかしいな…」
いくらなんでも長風呂過ぎる。もしかしたら貧血でも起こしたのではと、急に不安を覚え、メルヴィンはバスルームへ向かった。
ドレッシングルームの扉を開けると、シャワーの音が聞こえてくる。
奥の磨ガラスの向こうには、キュッリッキの姿がぼんやりと見えた。それに安堵して、ドア越しに呼びかける。
「リッキー、あまり長湯をすると身体に悪いですよ。そろそろ出てきませんか?」
しかし返事はなく、シャワーは一定の水音を出したままだ。
「リッキー?」
メルヴィンは眉をひそめると、ドアノブに手をかけた。
「ごめん、開けるよリッキー」
ドアを開けてメルヴィンはギョッとした。
床にぺたりと座り込み、頭からシャワーをかぶったまま、ノロノロと手を動かし身体を洗っている。しかし、その白い肌を伝って、赤い筋がいくつも流れ、湯に溶けて床を流れていく。
「なんてことっ」
メルヴィンは慌ててハンドルを上げてシャワーを止めると、ドレッシングルームにある大きなバスタオルを取って、キュッリッキの身体を包み込んだ。
「リッキー」
キュッリッキは顔を上げると、涙ぐんだ目でメルヴィンを見る。
「アタシは、メルヴィンだけのものなの……ベルトルドさんのものじゃないの」
「リッキー…」
「ベルトルドさんのつけた痣、全部洗うの」
「とにかく出ましょう、身体に障ります」
メルヴィンはキュッリッキを抱き上げると、急ぎ足でバスルームを出た。
メルヴィンとキュッリッキのためにソファを明け渡したフェンリルとフローズヴィトニルは、足元で不安そうにキュッリッキを見上げていた。
真っ白なバスタオルに包まれ、キュッリッキはメルヴィンの膝の上に抱きかかえられて泣いていた。顔を伏せて、小さな声で。
バスタオルには、所々赤い染みが点々とついている。
キュッリッキの血だった。そして、バスタオルの隙間から覗く胸元は、無惨なほど赤く擦り切れている。
止血と痛みを和らげるために、フェンリルに頼んでシビルを呼んできてもらった。
事情を察してシビルは何も言わず、止血したあと手早く薬を塗って、癒しの魔法をかけてメルヴィンを励ますと、すぐに部屋を出て行った。
ベルトルドの死後、その死を受け入れられずに目を背けたキュッリッキは、不安に感じるほどの明るさを見せていた。でも一人にすれば、こうして信じられない行動に出てしまっている。
精神が追い詰められていて、もう限界なのだ。
フリングホルニの戦いで、キュッリッキはずっと気を張っていた。だから思い出さずにいたが、戦いから解放され、ベルトルドの愛撫の痕を見ると、陵辱されたことを思い出した。
このままにしておいたら、自傷行為がエスカレートしてしまうだろう。それに、ヴィヒトリに診せたところで、状況は変わらないように思う。
なんとかして、救ってやりたかった。
(今のオレに、できること…)
腕の中の少女を見つめながら、色々と考える。
やがてメルヴィンは意を決したように一度目を伏せ、そして開くと、キュッリッキを抱いたまま立ち上がった。
ゆっくりとベッドまで歩いていくと、そっとキュッリッキを寝かせて、その隣に腰を下ろした。
(逆効果になるかもしれない…拒まれるかもしれない。でも…)
暫しキュッリッキを見つめ、耳元に顔を寄せる。
「抱いてもいいですか? リッキー」
そう言って、キュッリッキの横顔を見つめる。
耳元で囁くように言われて、泣いていたキュッリッキは一瞬きょとんとした顔をメルヴィンに向けた。
「前に言いましたね、リッキーが汚れたと感じたところは、オレが消毒するって」
レディトゥス・システムから助けられた時に、メルヴィンからそう言われたことを思い出す。
「消毒したいと思いますが、いいですか?」
「消毒…」
消毒とは、一体どうするんだろう? そう不安そうにメルヴィンを見つめていると、メルヴィンが覆いかぶさってきた。その瞬間、メルヴィンの姿にベルトルドの姿が重なって、キュッリッキは喉を引きつらせて、顔を強ばらせて震えだした。
固く目を閉じて、必死に悲鳴をこらえる。
(怖い…怖いの…)
すると、身体がふわっと浮いて、キュッリッキはびっくりして目を開く。抱き起こされて、キュッリッキはメルヴィンと同じ目線の高さにいた。
「すみません、余計に思い出させてしまいましたね」
心底申し訳なさそうに落ち込んだ表情をするメルヴィンを見て、キュッリッキは身体の力を抜いた。
「オレは男だから、どれだけ怖かったか正直判らないです。単純に、オレがリッキーを抱けば、それでちょっとは気が楽になるのかな、なんて考えちゃったんですが」
「メルヴィン……」
万策尽きたようにため息をつくメルヴィンを見つめ、キュッリッキは口元をほころばせた。
自分の気持ちばかり考えていた。メルヴィンの気持ちを考えようともしなかった。
無理やりとはいえ、メルヴィンを裏切ってしまったことにショックを受け、同時に、メルヴィンは許してくれないと考えてしまった。信じると決めた心の中で、言わないだけで本当は許していないのではと疑ってもいた。でも、こうして自分を癒そう、慰めようとしてくれている。全てを判った上で、メルヴィンなりに自分のことを考えてくれているのだ。
許してくれているのだ。
そのことに、ようやく確信を得た。
「メルヴィンさんは大人の男でしょ! あんたがいつまでもそんなオコチャマじゃ、可哀想じゃないのっ!」
ファニーにそう言われたことを思い出し、キュッリッキは心の中でため息をつく。本当にその通りだ。
メルヴィンを愛しているから、触れられても怖くない。それなのに、抱かれるのは怖いと思ってしまう。でもこのままでは、いつまでもメルヴィンを怖がったままになってしまう。一歩も先に進めなくなる。
(メルヴィンが消毒してくれれば、アタシきっともう大丈夫)
メルヴィンの優しさと愛があれば、乗り越えることができる。
キュッリッキはそっと両手を伸ばし、メルヴィンの頬に触れた。
「リッキー?」
「アタシはメルヴィンだけのものだもん。メルヴィンに抱いて欲しい……。アタシをメルヴィンでいっぱいにしてくれる?」
強がって無理をしながら言っているわけではない。本当にそう思って言っているのだと判って、メルヴィンは優しく微笑んだ。
「今夜は寝かせません」
そう言ってキュッリッキをそっと抱き寄せると、柔らかな唇に優しくキスをした。