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第六十八話 遺詔(二)

 袁紹えんしょうの「まだ手がある」という言葉に何進かしん曹操そうそうも彼に視線を送る。


 袁紹えんしょうは自信満々に語り出した。


「書式の不備を理由に、そんな遺詔いしょうは無効にしてしまいましょう」


 そう堂々と言ってのける袁紹えんしょうの勢いに、何進かしんは気圧されながら答えた。


「な、なるほど⋯⋯」


 つい返事をしてしまったが、考えてみると確かに名案だなと何進かしんも思った。あの遺詔いしょうを無効にできるならそれほど助かることはない。


 だが、すぐさま曹操そうそうが割って入った。


「待っていただきたい。


 大将軍かしんは御遺言を直に聞かれていたのではありませんか」


 それを言われて、何進かしんはすぐに思い返した。曹操そうそうの言う通りだ。例え遺詔いしょうを無効に出来ても、自分はしっかりと霊帝れいていの遺言を聞いている。彼の遺志に逆らうわけにはいかない。


「お、おう、そうだ。


 私は陛下れいていの御遺言を聞いた。陛下れいていは確かに跡継ぎは董侯りゅうきょうにすると仰られた。


 それを無視することは出来ない」


 また頭を抱えてしまった何進かしんを見て、袁紹えんしょうはもう一つ彼に尋ねた。


「その御遺言を聞かれたのは誰々ですかな?」


 何進かしんは顎に手を当ててあの時の状況を思い返す。


「えーと、私と蹇碩けんせきだ。


 それに張譲ちょうじょう趙忠ちょうちゅう段珪だんけいら数人の宦官かんがんたちがいた」


 それを聞くや、袁紹えんしょうは再びニヤリと笑った。


「それはそれは⋯好都合ではございますな」


 袁紹えんしょうの言葉に、何進かしん曹操そうそうの二人はまたも驚いて、彼の次の言葉を待った。


張譲ちょうじょうは長らく大将軍かしんとともに史侯りゅうべんを皇帝とすべく協力してきた間柄。


 趙忠ちょうちゅう段珪だんけいらも同じです。彼らを味方につければ、他の宦官かんがんも従わざるを得ないでしょう」


 そこまで聞いて、彼の言わんとすることを察した曹操そうそうはすぐさま口を挟んだ。


「お待ちを!


 本初えんしょう殿、御自身が何を言われようとしているのかおわかりか?


 あなたは陛下れいていの御遺言に背こうとされているのですぞ!」


 だが、曹操そうそうの誠意からくる言葉を、袁紹えんしょうは一喝した。


うるさいぞ、孟徳そうそう


 よくわかっておるわ!」


 しかし、一喝されたからといって、曹操そうそうも口をつぐんだりしない。彼はすぐに反論した。


「しかし、それで蹇上軍けんせきは従わぬでしょう」


 何進かしんも今度は曹操そうそうに同調した。


「そ、そうだ。蹇碩けんせき董侯りゅうきょうの即位を望んでいる。


 張譲ちょうじょうらは従っても、奴は応じまい!」


 蹇碩けんせきという障害がある限り、袁紹えんしょうの策は実行できない。だが、それは袁紹えんしょうにとって些細な問題であった。いや、むしろ好都合であった。


「そうです。蹇碩けんせき一人が従わぬのです。


 ならば、奴を狂人に仕立て上げるのです。


 大将軍かしん張譲ちょうじょうらと口裏を合わせ、陛下れいていの御遺言は確かに後継者を史侯りゅうべんに定めたと言うのです。


 そして、蹇碩けんせき一人が嘘の御遺言をでっち上げ、さらにはおそれ多くも遺詔いしょうまで偽造したとして、捕らえて処刑してしまいましょう」


 袁紹えんしょうから飛び出した「処刑」という単語に、思わず何進かしんはギョッとした。


「しょ、処刑だと!


 い、いくらなんでもそれは⋯⋯」


 何進かしんの言葉も思わず震える。


 だが、袁紹えんしょうはさらに強気な姿勢で彼に詰め寄った。


「では、このまま史侯りゅうべんの即位は諦めるのですかな」


「それは⋯⋯」


 袁紹えんしょうの言葉に、何進かしんも思わず答えを詰まらせてしまう。確かに劉弁りゅうべんの即位こそ何進かしんの悲願であった。それに比べれば蹇碩けんせきの処刑なぞ些末なことに彼には思えてきた。


 心が揺らぐ何進かしんに対して、すかさず曹操そうそうが入ってきて忠告する。


「いや、それでは陛下れいていの御遺言に背かれることになりますぞ!」


 その言葉で何進かしんもハッと目を覚ます。やはり、直接、霊帝れいていからの遺言を聞いたという事実が、彼に大きく、重くのしかかった。


「そ、そうだ。私たちはその場で御遺言を聞いたのだぞ。それに背くわけには⋯⋯」


 それを聞くや、袁紹えんしょうは今までの真剣な表情からガラリと変わって、優しげな口調で反論を初めた。


陛下れいていの御懸念は改革が止められてしまうことでしょう。


 ならば、史侯りゅうべん新皇帝のもと、改革を続行すればそれで良いではないですか」


「それは詭弁です!


 陛下れいていの御遺言に背いたことに変わりはない!」


 曹操そうそうはすぐに反論するが、袁紹えんしょうは再び険しい顔つきに変わり、彼を一喝した。


「黙らぬか、孟徳そうそう


 先ほど、大将軍かしんも、陛下れいてい蹇碩けんせきそそのかされたと仰られたではないですか。


 陛下れいていが改革を精力的に行われているのは皆知っております。


 しかし、後継を董侯りゅうきょうにしたいとは聞いたことがございません!


 これは蹇碩けんせきの謀略により、陛下れいていの御意志がねじ曲げられたに違いありません」


本初えんしょう殿、あなたは御遺言を曲げるおつもりか!」


 曹操そうそうはすぐに袁紹えんしょうに噛みつくが、それを制したのは何進かしん自身であった。


「待て、曹操そうそう


 もう良い。私の心は決まった。


 私は陛下れいていに対して忠義であろうと務めてきた。しかし、それはただ陛下れいていの言いなりになるということではない。時には耳の痛い御忠言を奉ることもある。


 だが、今となっては直接の御忠言を差し上げることは叶わなくなった。この上は我が身をもって御政道を正すことこそが、忠義であろうと心得る。


 今こそ我が忠義を発露する時!


 この上は張譲ちょうじょうらと協力し、逆臣・蹇碩けんせきの非道を取り除く!」


大将軍かしん!」


 曹操そうそうは声を上げるが、既に彼の言葉は何進かしんに届きはしなかった。


 その様子に、袁紹えんしょうはニンマリと満足した顔になった。


「それでこそ真の忠臣でございます。


 このわたし大将軍かしんの忠義にどこまでも付き従いましょうぞ!」


 彼の言葉に、何進かしんも彼の肩を叩いて喜んだ。


「おお、袁紹えんしょうよ。よくぞ申した」


 袁紹えんしょうは今度は曹操そうそうをジロリと睨む。


「それで孟徳そうそう。お前はどうするのだ。


 大将軍かしんの忠義にその身を捧げるのか。それとも蹇碩けんせきの非道と心中するのか」


「それは問題のすり替えではないのか」


 曹操そうそうは憤慨する。先ほどまで霊帝れいていの遺言を守るかどうかの話だったのに、何故、何進かしん蹇碩けんせき、どちらにつくかの話になるのか。


 だが、何進かしん袁紹えんしょうと同じように曹操そうそうをジロリと睨んで尋ねた。


「どうなのだ、曹操そうそうよ!」


 何進かしんにまで詰め寄られては、曹操そうそうも身の置所がなくなってしまう。曹操そうそうの選択肢は最初から無いも同然であった。


「いや⋯⋯ああ⋯⋯。


 わかりました。この曹操そうそう大将軍かしんに忠義を尽くします」


 曹操そうそう何進かしんひざまずき、臣下の礼をとった。


 何進かしんは上機嫌になり、曹操そうそうの肩をポンポンと叩いた。


「よくぞ申した。


 袁紹えんしょう曹操そうそう、お前たち二人のことは信頼しておるぞ。


 では、私は張譲ちょうじょうのところへ行ってくる」


 彼はそういうと、来たときとは打って変わって、軽い足取りで張譲ちょうじょうの元へと向かった。


 後に残された曹操そうそうは、袁紹えんしょうをキッと睨んだ。


本初えんしょう殿、どういうつもりか!」


 だが、袁紹えんしょうはまるで気にしない素振りで、カラカラと笑って答えた。


宦官かんがん如きが一人死んだところでどうということもなかろう。


 それとも、君はやはり宦官かんがんの肩を持つのかね」


 袁紹えんしょうは意地の悪い声色で曹操そうそうに尋ねた。


宦官かんがんだからというわけではない!


 あんな事をすれば世が乱れるぞ!」


 曹操そうそうの言葉に、袁紹えんしょうはクスリと笑う。


「お前はまだ自分が取るべき道を理解してないようだな」


 そう言って、彼も大将軍府だいしょうぐんふを立ち去ろうとする。曹操そうそうは強い口調で彼に尋ねた。


「どこに行くつもりだ」


「なに、少し旧友に会ってくるだけだ。


 西園軍せいえんぐんの旧友には」


 そう振り返りながらニヤリと笑って答える袁紹えんしょうの顔を見て、曹操そうそうは言いようのない寒気を感じた。


「君は一体何を考えている」


 袁紹えんしょうは再び前に向き直り、あごを撫でながら答えた。


「何を考えているのか⋯⋯そうだな。


 陛下れいていは『改革の火を絶やしてはならん』と仰せになった。


 私は真の忠臣にならんとしているだけだ」


 そう言って、彼は曹操そうそうの返答も聞くことなく、大将軍府だいしょうぐんふを立ち去った。


 建物を出る時、袁紹えんしょうの顔は今まで見せたこともないほど邪悪に変質していた。


「我が改革の火でこの中華全土を燃やし尽くそうぞ」


 だが、袁紹えんしょうの邪悪な表情も、この呟きも、誰にも知られることはなかった。


《続く》


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