袁紹の「まだ手がある」という言葉に何進も曹操も彼に視線を送る。
袁紹は自信満々に語り出した。
「書式の不備を理由に、そんな遺詔は無効にしてしまいましょう」
そう堂々と言ってのける袁紹の勢いに、何進は気圧されながら答えた。
「な、なるほど⋯⋯」
つい返事をしてしまったが、考えてみると確かに名案だなと何進も思った。あの遺詔を無効にできるならそれほど助かることはない。
だが、すぐさま曹操が割って入った。
「待っていただきたい。
大将軍は御遺言を直に聞かれていたのではありませんか」
それを言われて、何進はすぐに思い返した。曹操の言う通りだ。例え遺詔を無効に出来ても、自分はしっかりと霊帝の遺言を聞いている。彼の遺志に逆らうわけにはいかない。
「お、おう、そうだ。
私は陛下の御遺言を聞いた。陛下は確かに跡継ぎは董侯にすると仰られた。
それを無視することは出来ない」
また頭を抱えてしまった何進を見て、袁紹はもう一つ彼に尋ねた。
「その御遺言を聞かれたのは誰々ですかな?」
何進は顎に手を当ててあの時の状況を思い返す。
「えーと、私と蹇碩だ。
それに張譲、趙忠、段珪ら数人の宦官たちがいた」
それを聞くや、袁紹は再びニヤリと笑った。
「それはそれは⋯好都合ではございますな」
袁紹の言葉に、何進と曹操の二人はまたも驚いて、彼の次の言葉を待った。
「張譲は長らく大将軍とともに史侯を皇帝とすべく協力してきた間柄。
趙忠や段珪らも同じです。彼らを味方につければ、他の宦官も従わざるを得ないでしょう」
そこまで聞いて、彼の言わんとすることを察した曹操はすぐさま口を挟んだ。
「お待ちを!
本初殿、御自身が何を言われようとしているのかおわかりか?
あなたは陛下の御遺言に背こうとされているのですぞ!」
だが、曹操の誠意からくる言葉を、袁紹は一喝した。
「煩いぞ、孟徳!
よくわかっておるわ!」
しかし、一喝されたからといって、曹操も口をつぐんだりしない。彼はすぐに反論した。
「しかし、それで蹇上軍は従わぬでしょう」
何進も今度は曹操に同調した。
「そ、そうだ。蹇碩は董侯の即位を望んでいる。
張譲らは従っても、奴は応じまい!」
蹇碩という障害がある限り、袁紹の策は実行できない。だが、それは袁紹にとって些細な問題であった。いや、むしろ好都合であった。
「そうです。蹇碩一人が従わぬのです。
ならば、奴を狂人に仕立て上げるのです。
大将軍は張譲らと口裏を合わせ、陛下の御遺言は確かに後継者を史侯に定めたと言うのです。
そして、蹇碩一人が嘘の御遺言をでっち上げ、さらには畏れ多くも遺詔まで偽造したとして、捕らえて処刑してしまいましょう」
袁紹から飛び出した「処刑」という単語に、思わず何進はギョッとした。
「しょ、処刑だと!
い、いくらなんでもそれは⋯⋯」
何進の言葉も思わず震える。
だが、袁紹はさらに強気な姿勢で彼に詰め寄った。
「では、このまま史侯の即位は諦めるのですかな」
「それは⋯⋯」
袁紹の言葉に、何進も思わず答えを詰まらせてしまう。確かに劉弁の即位こそ何進の悲願であった。それに比べれば蹇碩の処刑なぞ些末なことに彼には思えてきた。
心が揺らぐ何進に対して、すかさず曹操が入ってきて忠告する。
「いや、それでは陛下の御遺言に背かれることになりますぞ!」
その言葉で何進もハッと目を覚ます。やはり、直接、霊帝からの遺言を聞いたという事実が、彼に大きく、重くのしかかった。
「そ、そうだ。私たちはその場で御遺言を聞いたのだぞ。それに背くわけには⋯⋯」
それを聞くや、袁紹は今までの真剣な表情からガラリと変わって、優しげな口調で反論を初めた。
「陛下の御懸念は改革が止められてしまうことでしょう。
ならば、史侯新皇帝のもと、改革を続行すればそれで良いではないですか」
「それは詭弁です!
陛下の御遺言に背いたことに変わりはない!」
曹操はすぐに反論するが、袁紹は再び険しい顔つきに変わり、彼を一喝した。
「黙らぬか、孟徳!
先ほど、大将軍も、陛下は蹇碩に唆されたと仰られたではないですか。
陛下が改革を精力的に行われているのは皆知っております。
しかし、後継を董侯にしたいとは聞いたことがございません!
これは蹇碩の謀略により、陛下の御意志がねじ曲げられたに違いありません」
「本初殿、あなたは御遺言を曲げるおつもりか!」
曹操はすぐに袁紹に噛みつくが、それを制したのは何進自身であった。
「待て、曹操。
もう良い。私の心は決まった。
私は陛下に対して忠義であろうと務めてきた。しかし、それはただ陛下の言いなりになるということではない。時には耳の痛い御忠言を奉ることもある。
だが、今となっては直接の御忠言を差し上げることは叶わなくなった。この上は我が身をもって御政道を正すことこそが、忠義であろうと心得る。
今こそ我が忠義を発露する時!
この上は張譲らと協力し、逆臣・蹇碩の非道を取り除く!」
「大将軍!」
曹操は声を上げるが、既に彼の言葉は何進に届きはしなかった。
その様子に、袁紹はニンマリと満足した顔になった。
「それでこそ真の忠臣でございます。
この紹も大将軍の忠義にどこまでも付き従いましょうぞ!」
彼の言葉に、何進も彼の肩を叩いて喜んだ。
「おお、袁紹よ。よくぞ申した」
袁紹は今度は曹操をジロリと睨む。
「それで孟徳。お前はどうするのだ。
大将軍の忠義にその身を捧げるのか。それとも蹇碩の非道と心中するのか」
「それは問題のすり替えではないのか」
曹操は憤慨する。先ほどまで霊帝の遺言を守るかどうかの話だったのに、何故、何進と蹇碩、どちらにつくかの話になるのか。
だが、何進も袁紹と同じように曹操をジロリと睨んで尋ねた。
「どうなのだ、曹操よ!」
何進にまで詰め寄られては、曹操も身の置所がなくなってしまう。曹操の選択肢は最初から無いも同然であった。
「いや⋯⋯ああ⋯⋯。
わかりました。この曹操、大将軍に忠義を尽くします」
曹操は何進に跪き、臣下の礼をとった。
何進は上機嫌になり、曹操の肩をポンポンと叩いた。
「よくぞ申した。
袁紹・曹操、お前たち二人のことは信頼しておるぞ。
では、私は張譲のところへ行ってくる」
彼はそういうと、来たときとは打って変わって、軽い足取りで張譲の元へと向かった。
後に残された曹操は、袁紹をキッと睨んだ。
「本初殿、どういうつもりか!」
だが、袁紹はまるで気にしない素振りで、カラカラと笑って答えた。
「宦官如きが一人死んだところでどうということもなかろう。
それとも、君はやはり宦官の肩を持つのかね」
袁紹は意地の悪い声色で曹操に尋ねた。
「宦官だからというわけではない!
あんな事をすれば世が乱れるぞ!」
曹操の言葉に、袁紹はクスリと笑う。
「お前はまだ自分が取るべき道を理解してないようだな」
そう言って、彼も大将軍府を立ち去ろうとする。曹操は強い口調で彼に尋ねた。
「どこに行くつもりだ」
「なに、少し旧友に会ってくるだけだ。
西園軍の旧友には」
そう振り返りながらニヤリと笑って答える袁紹の顔を見て、曹操は言いようのない寒気を感じた。
「君は一体何を考えている」
袁紹は再び前に向き直り、顎を撫でながら答えた。
「何を考えているのか⋯⋯そうだな。
陛下は『改革の火を絶やしてはならん』と仰せになった。
私は真の忠臣にならんとしているだけだ」
そう言って、彼は曹操の返答も聞くことなく、大将軍府を立ち去った。
建物を出る時、袁紹の顔は今まで見せたこともないほど邪悪に変質していた。
「我が改革の火でこの中華全土を燃やし尽くそうぞ」
だが、袁紹の邪悪な表情も、この呟きも、誰にも知られることはなかった。
《続く》