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第六十九話 遺詔(三)

 何進かしん大将軍府だいしょうぐんふに戻って、やり場のない怒りに震えている頃、張譲ちょうじょうもまた怒りをぶち撒けていた。


「お前はなんと愚かな義息むすこなのか!」


 張譲ちょうじょうの怒りの矛先は、彼の義息・張奉ちょうほうであった。彼は太医令たいいれいとして亡くなる寸前の霊帝れいていの側近くにいた。だが、蹇碩けんせきの言われるがままに霊帝れいていの側を離れ、その結果、蹇碩けんせきに有利な言質を取らてしまった。


「お前が陛下れいていの御側を離れたばかりに、我らの史侯りゅうべんを即位させるという長年の計画が台無しだ!」


「申し訳ありません。義父上ちょうじょう


 まさか、蹇碩けんせきがあのような強攻策を取るとはわからず⋯⋯」


 張譲ちょうじょうの養子・張奉ちょうほうはひたすら頭を下げて謝り続けた。


「お前のような庸医やぶいしゃを何のために養子にしてやったと思っているんだ。


 今日この日に対応させるためなんだぞ!


 我が家がより栄えるはずであったのに、お前という奴は⋯⋯」


 宦官かんがんは男性機能を失っており、子を成すことが出来ない。そのため、その権勢は一代限りであった。だが、特に功績をあげた宦官かんがんは養子を取り、家を継がせることが認められていた。


 張譲ちょうじょうもまた養子を取ることを認められていた。彼は親戚にあたるこのほうを養子とした。


 絶大な権勢を誇る張譲ちょうじょうである。張譲ちょうじょうの力を使えば息子を好きな土地の長官にすることは造作もないことであった。だが、張譲ちょうじょうはそれをしなかった。彼を敢えて、地方長官より給料の安い太医令たいいれいに就けた。


「前にも話したが、私は一族を何人も地方長官に任命させ、豊かにさせてきた。


 野王県やおうけん(現代の河南省沁陽市かなんしょうしんようし)の県令にしてやった私の弟のさくもまた放埒ほうらつに治めておった」


 張譲ちょうじょうの弟・張朔ちょうさく野王県令やおうけんれいの時、貪欲で非道な政治を行い、欲望に任せて妊婦を殺すなどの残虐な行いをしたと伝わる。


「それを当時の司隷校尉しれいこうい李膺りように睨まれ、恐れたさくは私の邸宅まで逃げ込んだ。


 だが、李膺りようは許さず、さくを捕らえて連れて行ってしまった。


 私はこの事態を楽観視していた。陛下かんてい(この時の皇帝は霊帝れいていの先代の桓帝かんてい)に直訴すればすぐに釈放される。そう考えていた。


 しかし、私が陛下かんていに直訴する間に、李膺りようはさっさとさくを処刑していた。いくら私が権力を握ろうとも、死んでしまった後ではどうしようもない」


 李膺りようは当時を代表する名士であった。彼の厳格な態度は宦官かんがんたちを震え上がらせた。

 しかし、張朔ちょうさくの一件からまもなく、宦官かんがんたちは復讐をする。党錮の禁とうこのきんを起こし、李膺りようら邪魔な名士たちを役職から追放した。李膺りようへの追求はこれだけに留まらず、後に二度目の党錮の禁とうこのきんに連座して、拷問の末に死去した。


「だから、お前を敢えて太医令たいいれいに据えたのだ。


 今の時代、三公さんこう(大臣最高位)に就いても実入りは良くない。


 外に出て太守たいしゅ県令けんれいになり、横領や収賄に励んだ方がよほど儲かる。


 だが、お前は酒好きな上に、迂闊なところがある。お前を地方に出しても、名士の追求を受けるだけだ。場合によっては私の足を引っ張りかねない。


 それならば太医令たいいれいにして、人目のつかない奥にやってしまった方が良い。医者をやっていたお前には医術の心得もあったのもちょうど良かった」


 そう言われ、張奉ちょうほうは恐縮する。


「だが、それで満足しては我が家の繁栄はない。


 史侯りゅうべんさえ、史侯りゅうべんさえ即位すれば、我らは名士の追求も恐れずに好きにできたのだ!


 そのためにお前の嫁として、中宮かこうごうの妹を娶らせたのだ」


 そう言い、張譲ちょうじょう張奉ちょうほうをキッと睨みつける。


「そうすればお前は好きな土地の長官になれたのだ!


 そして、その土地で財産を築く。それで三公さんこうの地位を買う。三公さんこうは実入りは悪いが、なれば箔がつく。


 そうすれば我が家は三公さんこうを輩出した名家として長く残るはずであった。それをお前は⋯⋯」


 張譲ちょうじょうは自身の家を自分一代で終わらせたくはなかった。自分の家を後漢の名家として未来永劫残したいと思っていた。


 そして、それは決して夢物語ではなかった。


「故大長秋だいちょうしゅう曹騰そうとう(宦官かんがん張譲ちょうじょうらの先輩)の養子・曹嵩そうすうは先年、売官により太尉たいい(三公さんこうの一つ)となった。


 その長子・曹操そうそうは今は典軍校尉てんぐんこういを務めている。その他多くの子弟も高官に就いている。


 今や曹氏そうしは名門のように振る舞っているが、その始まりはそもそも宦官かんがんなのだ!


 我が家も曹氏そうしに倣うのだ!


 そのためにも史侯りゅうべんの即位は欠かせぬというのに⋯⋯」


 烈火の如く怒る張譲ちょうじょうの元に、彼の監奴かんど(奴隷頭)の詹子応せんしおうがおずおずと声を掛ける。


張常侍ちょうじょう、すみません。


 大将軍かしんがお話しがしたいと今訪ねてきております」


 それを聞いて張譲ちょうじょうは息を整えた。


「ふむ。大将軍かしんが来たとあれば対応せねばなるまい。どうせ、葬儀のことであろう」


 張譲ちょうじょう何進かしんを迎え入れた。先程までご立腹であった張譲ちょうじょうも、何進かしんの話を聞き、笑顔を取り戻すことになる。


 〜〜〜


 張譲ちょうじょうたちが霊帝れいていの遺言で意気消沈していた頃、永楽宮えいらくきゅう(太后の住む宮殿)では我が世の春を謳歌していた。


「よくやりました蹇碩けんせき


 これであの肉屋のせがれが皇位を穢すことはなくなりました」


 椅子に優雅に腰をかける妙齢の女性。歳は六十ほどだろうか。長い髪は既に白く変わり、顔の皺は深く刻まれていたが、若い頃の美しさをまだ残していた。服も装飾も上質なものを身につけ、よりきらびやかさを際立たせていた。


 彼女が霊帝れいていの母・董太后とうたいごうである。彼女の立ち振る舞いは上品な老婆といった様子だ。だが、世間的には、霊帝れいていに売官を勧め、自身も蓄財に励んだとして評判の悪い人物であった。


 一方で彼女は、霊帝れいていの第二子・劉協りゅうきょうが母を失うと、幼い彼を養育し、その後ろ盾となった。度々、霊帝れいてい劉協りゅうきょうを皇太子にするよう勧めた。そのために、息子の嫁であり、第一子・劉弁りゅうべんの母である何皇后かこうごうと対立した。


陛下れいていには、何度、協皇子りゅうきょうの立太子を進言しても聞き入れられず、叶わぬことかと覚悟していました。


 しかし、あなたの活躍のおかげで、協皇子りゅうきょうを皇帝にすることができました。


 あなたの働きに感謝します」


 その言葉に、彼女の前でひざまずく一人の宦官かんがんがお礼を述べた。


「はっ、永楽太后とうたいごうのお役に立てて光栄でございます」


 平伏する宦官かんがんの名は蹇碩けんせき。死の間際の霊帝れいていに、後継者は劉協りゅうきょうだと言わせ、遺詔いしょうまで用意した今回の件の立役者である。


蹇上軍けんせき、あなたの働きに感謝しよう。


 次の世になれば望みのままに褒美を取らせよう」


 董太后とうたいごうの隣には一人の少年がおり、さらに左右に二人の男性が立っていた。先ほどの言葉は、左側に侍る男性から発せられた。


 歳は蹇碩けんせきより一回りくらい上の四十過ぎほど。長い眉と豊かな髭を生やしている。服装こそ武冠に紅色の衣と、武官の出で立ちであった。だが、身体はあまり鍛えているようではなく、腹も少し出ていた。服装さえ変われば、武官と思われないような背格好の男であった。彼の腰には何進かしんと同じ紫のじゅが下げられていた。


 彼は董太后とうたいごうの甥・董重とうじゅうあざな子累しるい

 現在は何進かしん大将軍だいしょうぐんに次ぐ将軍位・驃騎将軍ひょうきしょうぐんに就任している。言うなれば董氏とうしの中心的な人物であった。


「ははー、ありがとうございます」


 蹇碩けんせきは、董重とうじゅうの言葉に頭を下げて礼を述べた。


 董太后とうたいごうはその様子を満足気に窺い、隣に座る一人のまだ幼い少年の方へと振り向いた。


「さあ、新帝陛下からも、かの功労者に何かお声がけをお願いします」


 そう話を振られ、まだ幼いその少年は蹇碩けんせきの方へと振り向いた。歴史に大きく翻弄されることとなるこの少年の将来を、ここにいる皆は安泰と信じて疑っていなかった。


《続く》

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