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第七十話 遺詔(四)

 董太后とうたいごうに促された少年はしっかりと蹇碩けんせきを見据えた。そして、彼の年齢からは似つかわしくないほど、はっきりとした口調で話し始めた。


蹇碩けんせき、その方の働きには感謝する。


 余が即位した暁には然るべき爵位しゃくいを進呈しよう」


 その少年ながらも威厳ある態度に、蹇碩けんせきは改めて深く感謝の言葉を述べた。


 そして、


(やはり、この方こそ真の帝王の器。


 肉屋のせがれとは格が違う)


 と胸の内で強く感じた。


 その少年の歳はまだ数えにして九つという幼さであった。だが、幼いながらもその瞳は生気にあふれ、どこか霊帝れいていを彷彿とさせた。いや、細く長い眉と、鼻筋の通ったその顔立ちは霊帝れいてい以上に威厳を備えていた。


 この少年こそ渦中の子。霊帝れいていの第二子・劉協りゅうきょうであった。


 その少年・劉協りゅうきょうは、今度は祖母である董太后とうたいごうに向かって尋ねた。


「しかし、祖母上おばうえ。余には兄上りゅうべんがおられます。


 兄上りゅうべんを差し置いて余が皇位を継ぐのは長幼の序に背く行いではないですか?」


 劉協りゅうきょうの言葉に、董太后とうたいごうは思わず手で口元を覆った。だが、すぐに取り繕って落ち着いた口調で話し始めた。


「ま、まあ、陛下は聡明であられる。


 ですが、陛下がそのようなことを心配しなくて良いのですよ」


「何故ですか?」


 祖母である董太后とうたいごうの言葉に、劉協りゅうきょうは曇りのない眼でそう問い返す。 


「え、えーと⋯⋯」


 劉協りゅうきょう少年の言葉に、董太后とうたいごうは思わず言い淀んだ。


 劉協りゅうきょう董太后とうたいごうのやり取りを見ていた蹇碩けんせき。彼はすかさず間に割って入った。そして、董太后とうたいごうに代わって答えた。


「確かに長子を尊ぶのは世の習いでございます。


 ですが、先帝陛下れいていは、新帝陛下りゅうきょうを後継者にと指名されました。先帝陛下れいてい新帝陛下りゅうきょうにとって、君主であり、父でございます。


 孔孟じゅきょうの教えにおいて君臣の義、父子の親ほど尊いものはございません。


 ここは先帝陛下れいていの御遺言に従い、即位することこそが忠孝の道とお心得ください」


 蹇碩けんせきの堂々とした言葉に、劉協りゅうきょうは深く深呼吸をして答えた。


「なるほど、よくわかった。


 では、先帝陛下ちちうえの御遺言に従い、余が即位しよう」


 この劉協りゅうきょう少年は、後におくりなされて後世では献帝けんていの名で知られる。


 この献帝けんていこそ、後に数奇な運命を辿ることになる後漢最後の皇帝であった。


 この少年は既に皇帝の片鱗を見せていた。その凛とした態度に思わず董太后とうたいごうは笑みをこぼした。


「おお、さすがは新帝陛下りゅうきょうでございます。


 そろそろ、三公さんこうも到着した頃でしょう。私たちも先帝陛下れいていの御葬儀と、新帝陛下りゅうきょうの即位の準備にかかりましょう」


 董太后とうたいごうの号令の下、皆は立ち上がり、宮殿に向かった。


 先頭には蹇碩けんせきが進み、続いて驃騎将軍ひょうきしょうぐん董重とうじゅう、その次に同席していたもう一人の男。次に董太后とうたいごう劉協りゅうきょうの手を引いて進んだ。彼らの後ろには何人もの女官・宦官かんがんたちが付き従い、周囲を警護の兵が取り囲んで進行した。


 董重とうじゅうは得意の絶頂であった。彼は意気揚々とすぐ後ろを歩く同席していた男に向って話し出した。


新帝陛下りゅうきょうが即位されれば、何進かしんもいつまでも大将軍だいしょうぐんの地位におられまい。弟の何苗かびょうにしてもそうだ。奴も車騎将軍しゃきしょうぐんではおれん。


 そうなれば、俺が次の大将軍だいしょうぐんだ。


 その時はとうしょうよ、お前も高い位について共に董氏とうしを支えていかねばならんぞ」


 それを聞いて、後ろに続く男も満面の笑みで答えた。


「はい、重兄上とうじゅう、お任せを!」


 この男は先ほども董太后とうたいごうの側近くに控えていた男である。


 歳は董重とうじゅうより若く、三十代半ばほど。顔は董重とうじゅうに似た彫りの深い顔立ちに、豊かな髭を蓄えている。体つきは董重とうじゅうより引き締まっていた。服装は武冠に紅色の衣の武官衣裳。その腰には董重とうじゅうより一つ下の青のじゅが垂れ下がっていた。


 彼は同じく董太后とうたいごうの甥にして、董重とうじゅう従弟いとこであった。

 名は董承とうしょうあざな伯先はくせん。彼はこの時、皇帝の乗輿車じょうよしゃの管理を司る奉車都尉ほうしゃといを務めていた。


 心強く返事をする董承とうしょうに対して、董重とうじゅうは自慢の髭を撫でながら彼の今後を思案した。


「お前もいつまでも奉車都尉ほうしゃといというわけにはいかんな。


 私が大将軍だいしょうぐんになった暁には、驃騎将軍ひょうきしょうぐんを引き継ぐというのはどうだ?」


 両手を後ろで組み、そう話す董重とうじゅうに対して、董承とうしょうかしこまって両手を前に合わせて答えた。


重兄上とうじゅうの後任とは畏れ多いことでございます。


 それならば、何苗かびょうの後任として、車騎将軍しゃきしょうぐんに就くというのはいかがでしょうか」


 その答えに董重とうじゅうは思わず笑い出した。


「ハハハ、それは良い。


 我ら二人揃って何兄弟かしん、かびょうの後釜に座るわけか」


 有頂天になって笑う董重とうじゅう


 だが、彼の笑顔はすぐに消え失せることとなる。


 彼ら一行が霊帝れいていの遺体眠る南宮・嘉徳殿かとくでんにはいると、その真正面に、何進かしん張譲ちょうじょうらが進行を妨げるように歩いてきていた。


 そして、その一行の中に一人年若い青年がいる。


 背は何進らに隠れぬほどの長身。だが、その手足は春の若枝のように体は華奢で、肩幅も狭い。色白で目は窪んでいる。その容姿は一見霊帝れいていを彷彿とされるようではあるが、彼のような生気を放ってはいない。頬は幼児のように紅潮し、睫毛まつげは長い。彼の実年齢から考えれば、少々幼い印象を受ける青年であった。


(相変わらず背ばかりデカい凡庸な男だ。


 肉屋のせがれが何故ここにいる)


 董重とうじゅうは胸の内で、この青年を侮蔑し、彼がいることを怪しんだ。


 この華奢な青年は、霊帝れいていのもう一人の皇子・劉弁りゅうべん。この時、十七歳。


 この劉弁りゅうべん青年は、後世では少帝しょうていの名で知られている。


 一瞬にして董氏とうし一行に不穏な空気が流れる。


 董重とうじゅう董承とうしょうの方を振り返って、声をくぐもらせてこっそりと話しかけてきた。


何進かしんたちの相手は私と蹇碩けんせきがやる。


 とうしょう、お前は新帝陛下りゅうきょうの側近くに行き、決して離れるな」


 その言葉に、董承とうしょうは不安を感じながらも了承した。


 蹇碩けんせき董重とうじゅうの二人は前に進み、何進かしんらの一行の目の前まで迫る。両者の間は一気に緊張感を増した。


 まず口を開いたのは董重とうじゅうであった。


「これはこれは大将軍かしん、よくお越しくださいました。


 史侯りゅうべんもよくお越しくださいました」


 董重とうじゅうは重苦しい口調で何進かしんたちに話しかけた。内心では後継者争いに負けた何進かしんたちが何を企んでいるのか気が気ではなかった。だが、今は霊帝れいていが亡くなられたばかり。事を荒立てたくはない。


 それに対して何進かしんは何食わぬ顔で答えた。


「おお、これは董驃騎とうじゅう


 皇太子である史侯りゅうべんがいなければ何も始まらぬであろう。当然のことだ」


 何進かしんの発した『皇太子』という単語に、蹇碩けんせきはピクリと反応する。今度は蹇碩けんせきが前に進み出て、不敵な笑みを浮かべながら何進かしんに話しかけた。


史侯りゅうべんが『皇太子』とはおかしなことを言われますな。


 次の皇帝は董侯りゅうきょう


 皆様もそう陛下れいていの御遺言を聞かれたはずではございませんか」


 蹇碩けんせき何進かしんの真意を探るように尋ねた。だが、彼には霊帝れいていの遺言と遺詔いしょうという切り札がある。何進かしんがどのような暴挙に出ようともねじ伏せる自信が、彼にはあった。


 だが、何進かしんの返答は、蹇碩けんせきの自信をさらにねじ伏せようとするものであった。


「ああ、ちゃんと御遺言は聞きましたぞ。


 陛下れいていは御遺言で、皇位を“史侯りゅうべん”に譲ると確かにおっしゃられた。


 そうであろう、張常侍ちょうじょう


 堂々とそう答える何進かしん。さらに彼はすぐ後ろに続く宦官かんがん張譲ちょうじょうにも話を振った。


 張譲ちょうじょうもまた顎を突き出し、ニヤリと笑って答えた。


「ええ、確かに陛下れいてい今際いまわの際に、“史侯りゅうべん”に皇位を譲るとおっしゃられていました」


 何進かしん張譲ちょうじょうの二人は強気に顎を上げ、まるで董重とうじゅう蹇碩けんせきを見下ろすかのような態度で答えた。


 彼らの話を聞き、蹇碩けんせきはワナワナと震える。蹇碩けんせきは怒り心頭で二人を怒鳴った。


「あなた方はここにきて陛下れいていの遺命に背くおつもりか!」


 蹇碩けんせきの怒りの声が周囲に響き渡る。


《続く》

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