董太后に促された少年はしっかりと蹇碩を見据えた。そして、彼の年齢からは似つかわしくないほど、はっきりとした口調で話し始めた。
「蹇碩、その方の働きには感謝する。
余が即位した暁には然るべき爵位を進呈しよう」
その少年ながらも威厳ある態度に、蹇碩は改めて深く感謝の言葉を述べた。
そして、
(やはり、この方こそ真の帝王の器。
肉屋の倅とは格が違う)
と胸の内で強く感じた。
その少年の歳はまだ数えにして九つという幼さであった。だが、幼いながらもその瞳は生気に溢れ、どこか霊帝を彷彿とさせた。いや、細く長い眉と、鼻筋の通ったその顔立ちは霊帝以上に威厳を備えていた。
この少年こそ渦中の子。霊帝の第二子・劉協であった。
その少年・劉協は、今度は祖母である董太后に向かって尋ねた。
「しかし、祖母上。余には兄上がおられます。
兄上を差し置いて余が皇位を継ぐのは長幼の序に背く行いではないですか?」
劉協の言葉に、董太后は思わず手で口元を覆った。だが、すぐに取り繕って落ち着いた口調で話し始めた。
「ま、まあ、陛下は聡明であられる。
ですが、陛下がそのようなことを心配しなくて良いのですよ」
「何故ですか?」
祖母である董太后の言葉に、劉協は曇りのない眼でそう問い返す。
「え、えーと⋯⋯」
劉協少年の言葉に、董太后は思わず言い淀んだ。
劉協と董太后のやり取りを見ていた蹇碩。彼はすかさず間に割って入った。そして、董太后に代わって答えた。
「確かに長子を尊ぶのは世の習いでございます。
ですが、先帝陛下は、新帝陛下を後継者にと指名されました。先帝陛下は新帝陛下にとって、君主であり、父でございます。
孔孟の教えにおいて君臣の義、父子の親ほど尊いものはございません。
ここは先帝陛下の御遺言に従い、即位することこそが忠孝の道とお心得ください」
蹇碩の堂々とした言葉に、劉協は深く深呼吸をして答えた。
「なるほど、よくわかった。
では、先帝陛下の御遺言に従い、余が即位しよう」
この劉協少年は、後に諡されて後世では献帝の名で知られる。
この献帝こそ、後に数奇な運命を辿ることになる後漢最後の皇帝であった。
この少年は既に皇帝の片鱗を見せていた。その凛とした態度に思わず董太后は笑みをこぼした。
「おお、さすがは新帝陛下でございます。
そろそろ、三公も到着した頃でしょう。私たちも先帝陛下の御葬儀と、新帝陛下の即位の準備にかかりましょう」
董太后の号令の下、皆は立ち上がり、宮殿に向かった。
先頭には蹇碩が進み、続いて驃騎将軍・董重、その次に同席していたもう一人の男。次に董太后が劉協の手を引いて進んだ。彼らの後ろには何人もの女官・宦官たちが付き従い、周囲を警護の兵が取り囲んで進行した。
董重は得意の絶頂であった。彼は意気揚々とすぐ後ろを歩く同席していた男に向って話し出した。
「新帝陛下が即位されれば、何進もいつまでも大将軍の地位におられまい。弟の何苗にしてもそうだ。奴も車騎将軍ではおれん。
そうなれば、俺が次の大将軍だ。
その時は承よ、お前も高い位について共に董氏を支えていかねばならんぞ」
それを聞いて、後ろに続く男も満面の笑みで答えた。
「はい、重兄上、お任せを!」
この男は先ほども董太后の側近くに控えていた男である。
歳は董重より若く、三十代半ばほど。顔は董重に似た彫りの深い顔立ちに、豊かな髭を蓄えている。体つきは董重より引き締まっていた。服装は武冠に紅色の衣の武官衣裳。その腰には董重より一つ下の青の綬が垂れ下がっていた。
彼は同じく董太后の甥にして、董重の従弟であった。
名は董承、字は伯先。彼はこの時、皇帝の乗輿車の管理を司る奉車都尉を務めていた。
心強く返事をする董承に対して、董重は自慢の髭を撫でながら彼の今後を思案した。
「お前もいつまでも奉車都尉というわけにはいかんな。
私が大将軍になった暁には、驃騎将軍を引き継ぐというのはどうだ?」
両手を後ろで組み、そう話す董重に対して、董承は畏まって両手を前に合わせて答えた。
「重兄上の後任とは畏れ多いことでございます。
それならば、何苗の後任として、車騎将軍に就くというのはいかがでしょうか」
その答えに董重は思わず笑い出した。
「ハハハ、それは良い。
我ら二人揃って何兄弟の後釜に座るわけか」
有頂天になって笑う董重。
だが、彼の笑顔はすぐに消え失せることとなる。
彼ら一行が霊帝の遺体眠る南宮・嘉徳殿にはいると、その真正面に、何進・張譲らが進行を妨げるように歩いてきていた。
そして、その一行の中に一人年若い青年がいる。
背は何進らに隠れぬほどの長身。だが、その手足は春の若枝のように体は華奢で、肩幅も狭い。色白で目は窪んでいる。その容姿は一見霊帝を彷彿とされるようではあるが、彼のような生気を放ってはいない。頬は幼児のように紅潮し、睫毛は長い。彼の実年齢から考えれば、少々幼い印象を受ける青年であった。
(相変わらず背ばかりデカい凡庸な男だ。
肉屋の倅が何故ここにいる)
董重は胸の内で、この青年を侮蔑し、彼がいることを怪しんだ。
この華奢な青年は、霊帝のもう一人の皇子・劉弁。この時、十七歳。
この劉弁青年は、後世では少帝の名で知られている。
一瞬にして董氏一行に不穏な空気が流れる。
董重は董承の方を振り返って、声をくぐもらせてこっそりと話しかけてきた。
「何進たちの相手は私と蹇碩がやる。
承、お前は新帝陛下の側近くに行き、決して離れるな」
その言葉に、董承は不安を感じながらも了承した。
蹇碩と董重の二人は前に進み、何進らの一行の目の前まで迫る。両者の間は一気に緊張感を増した。
まず口を開いたのは董重であった。
「これはこれは大将軍、よくお越しくださいました。
史侯もよくお越しくださいました」
董重は重苦しい口調で何進たちに話しかけた。内心では後継者争いに負けた何進たちが何を企んでいるのか気が気ではなかった。だが、今は霊帝が亡くなられたばかり。事を荒立てたくはない。
それに対して何進は何食わぬ顔で答えた。
「おお、これは董驃騎。
皇太子である史侯がいなければ何も始まらぬであろう。当然のことだ」
何進の発した『皇太子』という単語に、蹇碩はピクリと反応する。今度は蹇碩が前に進み出て、不敵な笑みを浮かべながら何進に話しかけた。
「史侯が『皇太子』とはおかしなことを言われますな。
次の皇帝は董侯。
皆様もそう陛下の御遺言を聞かれたはずではございませんか」
蹇碩は何進の真意を探るように尋ねた。だが、彼には霊帝の遺言と遺詔という切り札がある。何進がどのような暴挙に出ようともねじ伏せる自信が、彼にはあった。
だが、何進の返答は、蹇碩の自信をさらにねじ伏せようとするものであった。
「ああ、ちゃんと御遺言は聞きましたぞ。
陛下は御遺言で、皇位を“史侯”に譲ると確かに仰られた。
そうであろう、張常侍」
堂々とそう答える何進。さらに彼はすぐ後ろに続く宦官・張譲にも話を振った。
張譲もまた顎を突き出し、ニヤリと笑って答えた。
「ええ、確かに陛下は今際の際に、“史侯”に皇位を譲ると仰られていました」
何進と張譲の二人は強気に顎を上げ、まるで董重・蹇碩を見下ろすかのような態度で答えた。
彼らの話を聞き、蹇碩はワナワナと震える。蹇碩は怒り心頭で二人を怒鳴った。
「あなた方はここにきて陛下の遺命に背くおつもりか!」
蹇碩の怒りの声が周囲に響き渡る。
《続く》