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第七十一話 大喪(一)

 蹇碩けんせきは怒りながらも、余裕な態度で何進かしんらに食って掛かる。


「だが、あなた方がいくら口裏を合わせようとも、こちらには遺詔いしょうがあるのをお忘れか!」


 そう言うと、蹇碩けんせきは懐より遺詔いしょうを取り出し、その場で開いて彼らに披露した。この遺詔いしょうこそ彼のもう一つの切り札だ。二人が遺言に背こうとも、この遺詔いしょうは消えて無くならない。蹇碩けんせきはそう思っていた。


「ほら、この通り!


 陛下れいてい遺詔いしょうにはしっかと董侯りゅうきょうを後継にすると書かれておりますぞ!」


 蹇碩けんせきは興奮気味に、遺詔いしょうの中の『協』の字を指差した。


 だが、何進かしんは鼻息荒く、目をいからせて答えた。


「それのどこが遺詔いしょうか!


 貴様はその蚯蚓みみずったような線がおそれ多くも御名ぎょめいとでも言うのか!


 この不敬者!」


 何進かしんは自らの腰の剣を引き抜いた。そして、蹇碩けんせきが反応するよりも早く側に駆け寄って、彼の掲げる遺詔いしょうを真っ二つに切り裂いた。


 その一撃で遺詔いしょうを繋げていた紐は切れ、結びつけられていた竹簡が床にバラバラと散らばっていった。


「な、何をなされるのか!」


 蹇碩けんせき董重とうじゅうは血相を変えて、床に散らばった竹簡をかき集めていく。


 その様子を、何進かしん張譲ちょうじょうらはせせら笑った。


「いいか、蹇碩けんせきよ!


 そのような偽詔ぎしょうを我らは一切認めない!


 これ以上、陛下れいていの名を騙り、御遺言をねじ曲げようというのなら、貴様を処刑する!


 わかったか!」


 何進かしん蹇碩けんせきを怒鳴りつけると、そのまま一行を引き連れてその場を立ち去り、宮殿の奥へと進んでいった。


 何進かしんたち一行は霊帝れいていの遺体が横たわる寝所へとやってきた。


 何進かしん張譲ちょうじょうらはここに来るだけで、あの霊帝れいていの激烈な最期を思い起こす。そして、彼の荒馬のような積極果断な霊帝れいていにはもう会えないのかと思い、感傷に浸った。


 寝所の前には既に二人の男性が待機していた。三公さんこう(大臣最高位)のうちの司徒しと丁宮ていきゅう司空しくう劉弘りゅうこうの二人だ。彼らは何進かしんたちの到着を待っていた。


 なお、本来であればこの二人に加えて、太尉たいいが同席するところである。だが、現在、太尉たいいを務めている劉虞りゅうぐは遠く離れた幽州ゆうしゅうに赴任している最中であった。そのため、今回の葬儀には間に合わないということで、特例として太尉たいいは欠席することとなった。


 何進かしんら一行の中より、一人の女性が劉弁りゅうべん青年と共に前に進み出た。彼女は丁宮ていきゅう劉弘りゅうこうに挨拶をすると、そのまま劉弁りゅうべんと二人で寝所の中へと入っていった。


 彼女の身長は七尺一寸(約百六十四センチ)と当時の女性の中では随分長身であった。腰は細く、手足は長い。髪は黒々と輝き、肌は透き通るように白い。眉は湾曲したように長く描かれ、睫毛まつげは長い。顔立ちは整い美しいが、その目つきは鋭い。


 長い髪を後ろで束ねた椎髻ついけいという髪型にし、黄金に輝く歩揺ほよう(黄金の台座に珠玉を付けた頭飾り)を付けている。

 着ている真綿の曲裾きょくきょ(地に届くほど長い裾が広がるスカート状になっているワンピースタイプの服)は黄褐色の羅地に唐草模様のようにくるりと渦巻いた形状の長寿刺繍が施されている。

 耳や首元、爪先には豪奢な装飾をまとい、腰には香嚢においぶくろが垂れ下がっている。


 彼女が霊帝れいてい皇后こうごう何皇后かこうごうである。皇后こうごうは皇帝の夫人の中でも最上位の地位。霊帝れいていが亡くなった今、彼女の地位は唯一無二であった。


 また、彼女は大将軍だいしょうぐん何進かしんの妹であり、連れている皇子・劉弁りゅうべんの実の母でもある。


 何皇后かこうごうはゆっくりと霊帝れいていの遺体に近付いた。彼女は霊帝れいていに呼びかけ、呼吸を確認した。


 既に息のないことを確認した何皇后かこうごうはニヤリと笑い、外に聞こえるようにワーッと声を上げて泣き出した。


「おおお、陛下れいてい、なんとおいたわしい姿になって⋯⋯!


 陛下れいていの大業は必ずやわたし弁皇子りゅうべんで引き継ぎます。


 どうぞ、安らかに⋯⋯!」


 そして、彼女は後ろに突っ立っている劉弁りゅうべん皇子の方へと振り返った。


「さあ、弁皇子りゅうべん、あなたもしっかりくのです」


 母がそう声を掛けるのとほぼ同時に、劉弁りゅうべん霊帝れいていの遺体に駆け寄った。先程までのぼんやりとした彼からは考えられない速度で何皇后かこうごうは少々面食らった。彼女が「弁皇子りゅうべん」と声をかけようとした。だが、それより先に彼の嗚咽おえつが漏れた。


 次の瞬間、劉弁りゅうべんの瞳から大粒の涙が溢れ、止めどなく頬を滑り落ちた。


「うっ、うわぁ⋯⋯っ!」


 彼はまるで堰を切った河のように一気に感情を爆発させた。劉弁りゅうべんは縋り付くように、霊帝れいていの手を取り、肩を震わせた。


父上れいてい父上れいていっ!


 なぜ、こんなに早く亡くなられたのですかっ!」


 何皇后かこうごうはその姿に驚きを隠せないでいた。普段はぼんやりとした息子が、ここまで感情豊かであることを母は知らなかった。そして、父親としての役割をほぼ果たさなかった霊帝れいていを、劉弁りゅうべんがここまで慕っているとも思ってはいなかった。


 だが、この泣き方は彼女の望む泣き方ではない。何皇后かこうごう劉弁りゅうべんに泣くのをやめるよう叱った。


弁皇子りゅうべん、やめなさい!


 その泣き方はいけません!」


 劉弁りゅうべんは目を赤く腫らし、鼻水を垂らしながら、母・何皇后かこうごうの方へと振り向いた。


「ヒッ、グスッ……何故ですか。


 先程の母上かこうごうと同じではありませんか」


 劉弁りゅうべんは当然の疑問を母である何皇后かこうごうにぶつける。先程、何皇后かこうごうもまた声を上げて泣いていた。


 だが、何皇后かこうごうは首を横に振った。


「声を上げるのは臣下のき方です。


 あなたは皇太子。言うなればこれから行われる葬儀の主人なのです。


 葬儀の主人は声を出さずに嗚咽おえつするようにかなればなりません。これは昔からの習わしなのです」


 当時の葬儀の儀式には「てい」と「こく」の二つの泣き方があった。

 「てい」は声を出さずに嗚咽する泣き方。

 「こく」は声を上げる泣き方。

 皇帝の葬儀では喪主である皇太子は「てい」を行い、それ以外の者は「こく」を行うのが決まりであった。

 言うなれば、「てい」を行うことは、彼が皇太子であり、時期皇帝であることを周囲にアピールすることでもあるのだ。


 霊帝れいていの葬儀は三日かけて行われる。その間にこの大げさに泣いて悲しみを表す「哭礼こくれい」は何度も行われる。劉弁りゅうべんはその度に「てい」を行い、周囲に自身が次の皇帝であることを印象付けなければいけない。それが彼の役目であった。


「わかったならきなさい!


 外では丁司徒ていきゅう劉司空りゅうこうらが聞いているのですよ!」


「は、はい⋯⋯」


 母に言われ、劉弁りゅうべんは声を殺して「うっ、うっ!」と静かに泣き出した。


 何皇后かこうごう劉弁りゅうべんの泣き方に満足し、泣き止まぬ彼を促して外に出した。


「さあ、弁皇子りゅうべん、いつまでも泣いていてはいけません。


 早く「ふく」を行いましょう」


 何皇后かこうごう劉弁りゅうべんを連れ、さらに寝所の外にいる何進かしんらとも合流して、宮殿の外に出た。宮殿の外では既に宦官かんがんたちによって、屋根に梯子が立てかけられていた。


「さあ、弁皇子りゅうべん、ここに陛下れいていの衣服があります。


 これを持って屋根に登るのです」


 しかし、劉弁りゅうべんは「うう⋯⋯ひぐっ⋯⋯」と泣き続け、なかなか衣服を受け取ろうとはしなかった。


 それを見て、何進かしんは前に進み出た。


「今の史侯りゅうべんにやらせるのは酷というものだ。何より危ない。


 私が代わりにやろう」


 そう言って衣服を受け取ろうとする何進かしんの手を、何皇后かこうごうははね退けた。


「ダメよ!


 次の皇帝を印象付けるためにも、弁皇子りゅうべんがやらなければ意味がないわ」


「私が史侯りゅうべんの伯父であることは宮中に広く知られている。


 私がやっても十分印象付けることは出来るだろう」


 そう言って何進かしんは強引に妹の何皇后かこうごうから衣服を奪い取り、梯子を登っていった。


《続く》

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