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第七十二話 大喪(二)

 何進かしんは屋根の最も高いところ、棟木の上に立ち上がると、北に向かって衣服を掲げた。


 そして、「こうよ、帰れ!」と霊帝れいていの実名を大声で、三度空に向かって呼びかけた。


 この儀式を「ふく」と呼ぶ。天に向かって昇天する魂に呼びかけ、体に戻り、蘇生することを願う儀式である。


 何進かしんは呼びかけが終わると、南に向かって、衣服を投げ捨てた。この投げ捨てた衣服は下にいる官吏が受け止める。そして、その衣服を霊帝れいていの体にかけ、魂が体に戻ることを祈るのである。


「しかし、私は蹇碩けんせきとの争いのために、半日ほど放置してしまった⋯⋯。


 もはや、陛下れいていの魂は残っておらんだろうな。無駄なことだ⋯⋯」


 何進かしんは棟上で独り言をぼやいた。すぐにこの儀式をやっていれば霊帝れいていは生き返ったのだろうか。そんな答えの出ないことを考えながら、彼は屋根より降りた。


 何皇后かこうごうは「ふく」を儀式を見届け、霊帝れいていの死を確認した。彼女は司徒しと丁宮ていきゅう司空しくう劉弘りゅうこうの二人に声かけた。


「どうやら、「ふく」の儀式は失敗に終わったようです。


 陛下れいていはお隠れ遊ばされました」


 その言葉を聞き、二人は改めて悲痛な声を上げる。既に覚悟を決めていたこととは言え、皇帝の早すぎる死の衝撃は大きかった。


「なんと! おいたわしや!」


「あまりの突然のことに、我らは宗廟そうびょうで祈ることさえ叶いませなんだ。


 せめて、御葬儀はしっかりと勤めさせていだだきます」


 二人はそう言って、何皇后かこうごうに頭を下げた。


 何皇后かこうごうはその姿に満足し、二人に命令を出した。


「では、これより皇后こうごう権限でしょうを下します。


 速やかに陛下れいてい大喪たいそうに取りかかりなさい」


 皇帝が崩御すると、皇后こうごう三公さんこう詔書しょうしょを出し、葬儀を取り仕切らせるのが決まりであった。


 丁宮ていきゅう劉弘りゅうこうはははーっと言ってこれに応じた。


 何皇后かこうごう嘉徳殿かくとくでんの西隣にある崇徳殿すうとくでんの奥へと引っ込む。そこで彼女は着ていた曲裾きょくきょを脱いだ。そして、女官に用意させた白装束と白いさく(帽子)へと着替えた。


 この白い服装が当時の喪服である。


 何皇后かこうごう崇徳殿すうとくでんより出て嘉徳殿かとくでんに戻ると、既に皇子・劉弁りゅうべんを除く何進かしん以下、全ての者が同じように白い喪服へと着替えていた。

 さらに太常たいじょう以下、葬儀に関わる官吏が皇后こうごうからの詔書しょうしょを受け取ると、続々と寝所へとやってきていた。


 さらに洛陽らくようの城門や宮門は全て閉じられ、中黄門ちゅうこうもん虎賁郎こほんろう羽林郎うりんろう郎中ろうちゅうは武器を携え、各持ち場について警戒に入る。


 そして、北軍の五校尉(長水ちょうすい歩兵ほへい射声しゃせい屯騎とんき越騎えっき)は宮殿の守衛を行う。

 その仕事を黄門令こうもんれい尚書しょうしょ御史ぎょし謁者えっしゃはその仕事がちゃんと行われているか、昼夜を問わず監視する。


 皇后こうごうの葬儀のしょうが下されると、宮殿全体が厳戒体制に入るのである。


 話を嘉徳殿かとくでんの寝所前に戻す。


「それでは失礼致します」


 そう言うと、司徒しと丁宮ていきゅう司空しくう劉弘りゅうこう霊帝れいていが眠る寝所へと入っていった。


 二人を霊帝れいていの服を脱がし、その遺体に傷が無いことを確認する。


 二人は遺体の確認を終えると、若い宦官かんがんたちを呼び寄せた。彼ら宦官かんがんたちは二人の指揮の下、霊帝れいていの眠る寝台の四方を囲んだ。


「ほら、尹逸いんいつ、お前は一番若いんだからしっかり持て!」


「は、はい!」


 彼ら宦官かんがんたちは霊帝れいていの遺体ごと寝台を持ち上げると、寝台を南側に移動させ、霊帝れいていの頭が南へと向くようにした。


移動が終わると、「それでは失礼させていただきます」と言って一人の男が前に進み出てきた。


 次に現れたのは、身長八尺(約百八十四センチ)にガッシリとした体格。立派な顎髭あごひげを生やした男性であった。


 彼は先の太尉たいいを務めていた馬日磾ばじつていである。太尉たいい罷免後の現在は太常たいじょうを務めていた。


 太常たいじょう九卿きゅうけい(九つの大臣)の一つ。礼儀と祭司を司る役職で、葬儀では中心的な役割を果たす。


 まず、太常たいじょうがやる仕事。それは霊帝れいていの遺体に死に化粧を施すことである。


 太常たいじょうには専門知識を持った部下が多くついている。だが、馬日磾ばじつてい自身も学者である。彼は自身の豊富な知識を生かし、的確に支持を出していく。


 この時、死に化粧の他、遺体が死後硬直で固定される前に器具を取り付ける。口が閉じないように匙を咥えさせ、後にくつを履かせるために足が曲がらないよう几(脇息)を添えて縛り付ける。


「うむ、ずいぶん体が硬くなっているな。


 陛下れいていは本当に先程お隠れになられたのか?」


 馬日磾ばじつていは思わず疑問が口から溢れた。


馬太常ばじつてい、速やかに仕事を行いなさい」


 馬日磾ばじつていは、何皇后かこうごうに注意され、強引に器具を取り付けた。幸いにも口が開き、足が伸びた状態であったので、取り付けることができた。


 さらに馬日磾ばじつていは、霊帝れいていの右側にほしにくにくのしおから、酒を供えた。


 そして彼は霊帝れいていの身体を清めるため、沐浴の準備を始める。


「子が親の裸を見るのは礼に反します。皇子らのお目に触れないようにしなければなりません。


 まずは陛下れいていの周囲をとばりで囲いなさい」


 霊帝れいていの寝台の周りがとばりで覆われていく。沐浴のために霊帝れいていの服を脱がさねばならない。いくら遺体とはいえ、皇帝の裸を周囲に晒すのもよろしくない。


 さらにそのとばりの中に、盆に満たされた大粱おおあわのとぎ汁とお湯が運び込まていく。


「崩御されたからといって、その沐浴まで特別なことをする必要はない。


 生前と同じようにとぎ汁で髪を洗い、布を湯に浸して御身体を拭くのです」


 馬日磾ばじつていの指揮の下、女官たちによって霊帝れいていの身体は清められていく。清め終わると、髪を束ね、顔に布をかぶせる。


「さて、私たちの役目は一段落しました。


 後は守宮令しゅきゅうれい、頼みましたよ」


「は、はい!


 守宮令しゅきゅうれいに就任早々、このような大役を務めることになるとは⋯⋯。


 全力で取り組ませていただきます」


 ここで仕事は太常たいじょうから守宮令しゅきゅうれいに引き継がれる。


 守宮令しゅきゅうれいは本来は皇帝の使用する紙、筆、墨。さらに尚書しょうしょの使用する物品を用意するのが役目である。

 しかし、皇帝が崩御すると葬儀に使われる棺や器具の製作・管理を担当する東園匠とうえんしょうの役目も兼任し、女官を指揮して遺体の服飾を担当する。


 この仕事を受け持つ守宮令しゅきゅうれいは、この春に着任したばかりの新人であった。


 新人の年齢は二十七歳。背はスラリと高い。気品が漂い、名家の子弟であることを窺わせる。整った顔立ちには、まだ世の荒々しさを知らぬ幼さが残り、肌の白さは書物と向き合う日々を映し出すかのようであった。細い眉の下、目は穏やかながら強い光を秘め、彼の奥底に眠る鋭い智性を覗かせていた。


 青年は着任早々の思わぬ大役に、緊張を隠せないでいる。だが、彼の知識もまた豊富で、女官たちへの指揮は的確であった。その仕事ぶりは熟練の馬日磾ばじつていにも引けを取らないもので、彼の姿は既に高雅な風采をたたえていた。


陛下れいていのお召しになられる衣裳は生前と同じように着させてください。


 ただし、上衣は左前に着せてください」


 女官たちの手によって霊帝れいていには赤い衣裳が着せられた。耳には黄色い綿が詰められ、頭には冠の代わりに白絹が巻かれ、足には先程つけられた几が外され、くつが履かされた。


「死者には空腹で困らないように、口の中に穀物を含ませるのが習わしです。


 ですが、皇帝の場合は、口にぎょく(ヒスイ)を含ませます。


 そして、緹繒ていかいをかぶせてください」


 霊帝れいていの口の中から、先ほど馬日磾ばじつていが入れた匙が抜き取られ、代わりに蝉の形に象られたぎょく(ヒスイ)が入れられた。そして、緹繒ていかいと呼ばれる赤い布で全身を覆われた。


 さらに、その赤い布の上から金縷玉衣きんるぎょくいが着せられた。これは無数のぎょく(ヒスイ)のプレートを金の糸で縫い合わせた鎧のような服である。


「これで大凡おおよそは終わりました。


 最後に氷の準備をお願いします」


 人一人が十分入るような大きくて四角いおおざらの上に盛られた氷が運ばれてきた。これは寝台の下に入れられる。この氷を入れるのは遺体の腐敗防止のためである。冬の寒い時期でもない限りはこの氷が入れられる。


 これにて葬儀初日に行われる儀式はほぼ終わりである。


「これで私の役目は終わりました。ひとまず失礼させていただきます」


 青年は使い終わった器具をまとめ、捨てに行くためにとばりより外に出た。


《続く》

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