この沐浴の間、臣下一同は霊帝の死を悼み泣き叫ぶ哭礼を欠かさずに行っている。守宮令の青年も作業の間、哭礼をうるさく感じてはいた。だが、葬儀のための儀式とあらば我慢する他なかった。
霊帝の寝台の東側には劉弁が座って静かに啼く。西側には何皇后が座って騒がしく哭いていた。そして、殿の下には続々と揃いつつある官吏たちが哭礼に参加していた。
青年はふと、劉弁の姿を見た。彼は今でこそ嗚咽を漏らすように静かに啼いている。だが、初めに霊帝の側で激しく号泣していたところは、この青年も外より聞いていた。
(いつもは感情をあまりお出しにならない方だと聞いていたが⋯⋯。
まさか、あそこまで感情を表に出されるとは思わなかった。
なんと感情の起伏の激しい方か。果たしてこの方の下でこの漢はまとまるのであろうか)
青年は劉弁に対して胸の内でそのように考えていた。彼が即位した先の未来に暗澹たる気持ちを抱いていた。
青年は来たるべき将来に不安を感じながら退出した。そこにはもう一人の皇子・劉協。そして彼を囲むように董太后や驃騎将軍・董重らが屯していた。
(何故、こんな端に董侯がおられるんだ?
皇族は皇太子の後ろに立って哭礼をするのが決まりのはず⋯⋯)
思わず青年は聞き耳を立て、彼らの言葉を盗み聞きした。
「例え史侯に皇太子の座を奪われようとも、やはり董侯には皇族の席で哭礼に参加すべきではありませんか?
そうでなければ、ますます董侯の臣下への印象が薄まってしまいます」
「なりませぬ。
奴らの渦中に入って、協皇子に万一のことがあったらいかが致しますか」
どうやら、董重と董太后が劉協の扱いについて口論しているようであった。
劉弁の派閥と劉協の派閥が対立していることは青年も知っていた。だが、このような場で生死が危ぶまれるほど危機が差し迫っているとまでは考えていなかった。これほどまでの危機的状況に青年は寒気を覚えた。
だが、二人の口論を、幼い劉協少年が鎮めた。
「余はここで構いません。
陛下の弔いであればここで十分行えます」
そう言うと、少年はわんわんと泣いて哭礼を初めた。
(なんと大人びた少年であろうか。まだ、齢九歳と聞いていたが⋯⋯。
だが、既に次の皇帝が史侯に決まった今、あの聡明さは却って危うい。新たな政争の種にならねば良いが⋯⋯)
青年はそう思いながらも、嘉徳殿を後にした。
「不羈奔放な第一皇子に、隠忍自重な第二皇子か。
災いに繋がらねばよいのだが⋯⋯」
この新人の青年は、名門の荀氏の子弟・荀彧。字を文若という。この時、二十七歳。
この青年は後に歴史に大きく関わることになるのだが、それはもう少し先の未来の話である。
荀彧青年は彼方にある人物を見つけた。
「おや、あれは盧尚書ではないか⋯⋯。
挨拶したいところですが、器具を捨てる途中ですし、どうしたものか⋯⋯。
あの隣の方は使用人でしょうか? 不思議な雰囲気のある方ですね」
〜〜〜
霊帝の崩御の報は洛陽中の官吏に下されていた。
「劉星、急いでくれ。
陛下の葬儀にこれ以上遅れるわけにはいかない」
盧植の号令が周囲に響く。それを受け、劉星は馬を急かした。
「はい、盧先生!」
僕、劉星は車馬を走らせ、宮城へと急いだ。盧植の下で世話になってから、僕は車馬の運転をみっちりと習った。車馬を運転したことは無かったが、宮城までぐらいの距離なら十分走らせられるほどになっていた。
「しかし、まさかこんなに早く亡くなられてしまうとは⋯⋯」
道中、僕は独り言のように呟いた。霊帝の死はもう少し先の話だと予想していた。僕の未来の記憶通りであれば、霊帝の死をきっかけに激動の時代を迎えるはずだ。できることなら長く洛陽にいたくない。
だが、劉備らがまだ帰ってこない。今はあの男が洛陽を支配するより先に劉備らが帰ってくることを願うばかりだ。
僕は洛陽の外の情景に目を移す。
「それにしても洛陽市中はまだそんなに騒然としていませんね」
皇帝が亡くなったというのに、洛陽の住民はいつも通りの暮らしをしているように見える。
「急なことだからまだ情報が行き届いていないのであろう。
しかし、こんなに白衣が行き来しているのだから、すぐに知れ渡るだろう」
僕が運転する車馬は宮城へと到着した。
僕らは車馬から降り、南の平城門へと向かう。警護の兵だろうか、門の周囲を武装した者たちが忙しく往来している。その中に一人、明らかに指揮官と思わしき男が門の正面で警護兵に何やら指示を飛ばしている。
指揮官らしき男は、身長は僕とそう変わらなそうなので百六十五センチほどであろうか。歳は三十代半ば。細く長い眉に、整った鼻筋。色白の肌と貴族的な気品を備えた容姿をしている。ただ、髭は薄く、頬はこけ、全体的に痩せている。あまり武官のようには見えない。
服装は白い単衣と白い幘というこの時代の喪服を着用している。だが、その白衣の上からは金銀宝玉で随所を彩った光り輝く鎧を身に着けている。そして、腰には同じく金銀宝玉が柄や鞘に散りばめられた大太刀を佩いている。その服装だけでかなりの貴族の出だと思わせる。
その貴族のような指揮官は、こちらに気づくとすぐ側まで歩み寄ってきた。
「これは盧尚書ではございませんか。今、お着きですか?」
その指揮官は盧植に挨拶をした。盧植は今の立場こそ低いが、朝廷内でも結構な有名人だ。彼も無視は出来なかったのだろう。
「ああ、洗沐にかぶってしまってな。報告を受けて急いで来たところだ」
この時代の官吏には五日に一度、洗髪を行う日として休暇が貰えた。この日を「洗沐」または「休沐」と呼ぶ。
「それは御苦労様でした」
指揮官の男は笑って応対する。男は気さくな感じだが、盧植は至って真面目な面持ちで返す。
「国の大事だ。苦労なぞない。
ところで袁虎賁よ。
大喪の場でその鎧は少々華美ではないかな」
盧植は険しい目つきで、一瞬、両者の間に緊張が走ったかのように思えた。だが、指揮官の男は気にする様子もなく、朗らかに対応した。
「これは失礼致しました。
早速、着替えさせていただきます」
指揮官の男は「失礼します」と言って、腰の太刀を外しながら何処かへと消えていった。どうもあの様子なら本当に着替えそうだ。
しかし、僕にはそんなことよりも、盧植が彼を「袁虎賁」と呼んだのが気になった。「袁」という姓には覚えがある。僕はもしやと思って盧植に尋ねた。
「すみません、盧先生。
今の方は?」
そう聞くと盧植は顎下の髭を撫でながら答えた。
「今のは虎賁中郎将の袁術、字は公路という。
前に話に出た袁校尉の従弟に当たる人物だ」
その名前に僕は驚愕する。やはり袁術だったのか。
袁術といえば、この先の未来において群雄の一人として大きな勢力を築く人物だ。こんな未来の有名人がポンと現れるあたり、さすが洛陽といったところだ。本当に至る所に有名人がいる。
だが、袁術といえば、この先の未来において大きな問題を起こす人物でもある。僕は念の為、彼のことをより詳しく盧植に聞いてみた。
「ちなみにその袁虎賁とはどのようなお方ですか?」
盧植は少し頭を悩まして答えた。
「うむ、そうだな。
先程のやりとりを見ていただろうが、注意すればそれを受け入れるだけの素直さはある。
このまま経験を積み、良き部下に恵まれれば、優れた政治家にもなれるのではないかな」
思ったよりの高評価に僕は驚く。袁術の評価だからもっと酷く言われているのかと思っていた。
だが、よく考えたらこの後の袁術って、あまり経験を積まないまま群雄になり、良き部下を遠ざけてしまったんじゃないか。その結果、よくない最期を迎えてしまった。
盧植の高評価は、この先の袁術の成長も加味したものだ。そう考えると納得できる評価だ。
その時、遠くから盧植に向けて会釈する青年がいた。背が高く、やたら顔の整った青年だ。名家の雰囲気があるし、彼も有名な人だろうか。
「盧先生、あちらのイケメ⋯⋯青年はどなたですか?」
僕は再び盧植に尋ねた。だが、盧植は首をひねった。
「いや、名前までは知らぬ。
新任の官吏であろう。あの様子から守宮令あたりであろうか?」
盧植は官吏の中でもよく名が知られている。おそらく、向こうが一方的に知っていたのだろう。
「しかし、この時期の洛陽の新人官吏か。
僕が洛陽を去ったら、もう会う機会もなさそうだな」
僕は能天気にそう考え、大喪に参列する盧植を見送った。
その夜、霊帝の崩御を知らせる竹使符(竹の割符)が下され、全国の郡太守と国相及び諸侯王へ向けて届けられた。これが到着すると、皆伏して泣き声をあげ、悲しみを尽くすのが決まりとなっていた。
中華全土は悲しみに包まれることとなった。そして、新たな時代の到来を予見させた。
《続く》