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第七十三話 大喪(三)

 この沐浴の間、臣下一同は霊帝れいていの死を悼み泣き叫ぶ哭礼こくれいを欠かさずに行っている。守宮令しゅきゅうれいの青年も作業の間、哭礼こくれいをうるさく感じてはいた。だが、葬儀のための儀式とあらば我慢する他なかった。


 霊帝れいていの寝台の東側には劉弁りゅうべんが座って静かにく。西側には何皇后かこうごうが座って騒がしくいていた。そして、殿の下には続々と揃いつつある官吏たちが哭礼こくれいに参加していた。


 青年はふと、劉弁りゅうべんの姿を見た。彼は今でこそ嗚咽おえつを漏らすように静かにいている。だが、初めに霊帝れいていの側で激しく号泣していたところは、この青年も外より聞いていた。


(いつもは感情をあまりお出しにならない方だと聞いていたが⋯⋯。


 まさか、あそこまで感情を表に出されるとは思わなかった。


 なんと感情の起伏の激しい方か。果たしてこの方の下でこのくにはまとまるのであろうか)


 青年は劉弁りゅうべんに対して胸の内でそのように考えていた。彼が即位した先の未来に暗澹あんたんたる気持ちを抱いていた。


 青年は来たるべき将来に不安を感じながら退出した。そこにはもう一人の皇子・劉協りゅうきょう。そして彼を囲むように董太后とうたいごう驃騎将軍ひょうきしょうぐん董重とうじゅうらが屯していた。


(何故、こんな端に董侯りゅうきょうがおられるんだ?


 皇族は皇太子の後ろに立って哭礼こくれいをするのが決まりのはず⋯⋯)


 思わず青年は聞き耳を立て、彼らの言葉を盗み聞きした。


「例え史侯りゅうべんに皇太子の座を奪われようとも、やはり董侯りゅうきょうには皇族の席で哭礼こくれいに参加すべきではありませんか?


 そうでなければ、ますます董侯りゅうきょうの臣下への印象が薄まってしまいます」


「なりませぬ。


 奴らの渦中に入って、協皇子りゅうきょうに万一のことがあったらいかが致しますか」


 どうやら、董重とうじゅう董太后とうたいごう劉協りゅうきょうの扱いについて口論しているようであった。


 劉弁りゅうべんの派閥と劉協りゅうきょうの派閥が対立していることは青年も知っていた。だが、このような場で生死が危ぶまれるほど危機が差し迫っているとまでは考えていなかった。これほどまでの危機的状況に青年は寒気を覚えた。


 だが、二人の口論を、幼い劉協りゅうきょう少年が鎮めた。


「余はここで構いません。


 陛下れいていとむらいであればここで十分行えます」


 そう言うと、少年はわんわんと泣いて哭礼こくれいを初めた。


(なんと大人びた少年であろうか。まだ、齢九歳と聞いていたが⋯⋯。


 だが、既に次の皇帝が史侯りゅうべんに決まった今、あの聡明さは却って危うい。新たな政争の種にならねば良いが⋯⋯)


 青年はそう思いながらも、嘉徳殿かとくでんを後にした。


不羈奔放ふきほんぽう第一皇子りゅうべんに、隠忍自重いんにんじちょう第二皇子りゅうきょうか。


 災いに繋がらねばよいのだが⋯⋯」


 この新人の青年は、名門の荀氏の子弟・荀彧じゅんいくあざな文若ぶんじゃくという。この時、二十七歳。


 この青年は後に歴史に大きく関わることになるのだが、それはもう少し先の未来の話である。


 荀彧じゅんいく青年は彼方にある人物を見つけた。


「おや、あれは盧尚書ろしょくではないか⋯⋯。


 挨拶したいところですが、器具を捨てる途中ですし、どうしたものか⋯⋯。


 あの隣の方は使用人でしょうか? 不思議な雰囲気のある方ですね」


 〜〜〜


 霊帝れいていの崩御の報は洛陽らくよう中の官吏に下されていた。


劉星りゅうせい、急いでくれ。


 陛下れいていの葬儀にこれ以上遅れるわけにはいかない」


 盧植ろしょくの号令が周囲に響く。それを受け、劉星りゅうせいは馬を急かした。


「はい、盧先生ろしょく!」


 僕、劉星りゅうせいは車馬を走らせ、宮城へと急いだ。盧植ろしょくの下で世話になってから、僕は車馬の運転をみっちりと習った。車馬を運転したことは無かったが、宮城までぐらいの距離なら十分走らせられるほどになっていた。


「しかし、まさかこんなに早く亡くなられてしまうとは⋯⋯」


 道中、僕は独り言のように呟いた。霊帝れいていの死はもう少し先の話だと予想していた。僕の未来の記憶通りであれば、霊帝れいていの死をきっかけに激動の時代を迎えるはずだ。できることなら長く洛陽らくようにいたくない。


 だが、劉備りゅうびらがまだ帰ってこない。今はあの男が洛陽らくようを支配するより先に劉備りゅうびらが帰ってくることを願うばかりだ。


 僕は洛陽らくようの外の情景に目を移す。


「それにしても洛陽らくよう市中はまだそんなに騒然としていませんね」


 皇帝が亡くなったというのに、洛陽らくようの住民はいつも通りの暮らしをしているように見える。


「急なことだからまだ情報が行き届いていないのであろう。


 しかし、こんなに白衣もふくが行き来しているのだから、すぐに知れ渡るだろう」


 僕が運転する車馬は宮城へと到着した。


 僕らは車馬から降り、南の平城門へいじょうもんへと向かう。警護の兵だろうか、門の周囲を武装した者たちが忙しく往来している。その中に一人、明らかに指揮官と思わしき男が門の正面で警護兵に何やら指示を飛ばしている。


 指揮官らしき男は、身長は僕とそう変わらなそうなので百六十五センチほどであろうか。歳は三十代半ば。細く長い眉に、整った鼻筋。色白の肌と貴族的な気品を備えた容姿をしている。ただ、ひげは薄く、頬はこけ、全体的に痩せている。あまり武官のようには見えない。


 服装は白い単衣たんいと白いさくというこの時代の喪服を着用している。だが、その白衣の上からは金銀宝玉で随所を彩った光り輝く鎧を身に着けている。そして、腰には同じく金銀宝玉が柄やさやに散りばめられた大太刀をいている。その服装だけでかなりの貴族の出だと思わせる。


 その貴族のような指揮官は、こちらに気づくとすぐ側まで歩み寄ってきた。


「これは盧尚書ろしょくではございませんか。今、お着きですか?」


 その指揮官は盧植ろしょくに挨拶をした。盧植ろしょくは今の立場こそ低いが、朝廷内でも結構な有名人だ。彼も無視は出来なかったのだろう。


「ああ、洗沐せんもくにかぶってしまってな。報告を受けて急いで来たところだ」


 この時代の官吏には五日に一度、洗髪を行う日として休暇が貰えた。この日を「洗沐せんもく」または「休沐きゅうもく」と呼ぶ。


「それは御苦労様でした」


 指揮官の男は笑って応対する。男は気さくな感じだが、盧植ろしょくは至って真面目な面持ちで返す。


「国の大事だ。苦労なぞない。


 ところで袁虎賁えんこほんよ。


 大喪たいそうの場でその鎧は少々華美ではないかな」


 盧植ろしょくは険しい目つきで、一瞬、両者の間に緊張が走ったかのように思えた。だが、指揮官の男は気にする様子もなく、朗らかに対応した。


「これは失礼致しました。


 早速、着替えさせていただきます」


 指揮官の男は「失礼します」と言って、腰の太刀を外しながら何処かへと消えていった。どうもあの様子なら本当に着替えそうだ。


 しかし、僕にはそんなことよりも、盧植ろしょくが彼を「袁虎賁えんこほん」と呼んだのが気になった。「えん」という姓には覚えがある。僕はもしやと思って盧植ろしょくに尋ねた。


「すみません、盧先生ろしょく


 今の方は?」


 そう聞くと盧植ろしょく顎下あごしたひげを撫でながら答えた。


「今のは虎賁中郎将こほんちゅうろうしょう袁術えんじゅつあざな公路こうろという。


 前に話に出た袁校尉えんしょう従弟いとこに当たる人物だ」


 その名前に僕は驚愕する。やはり袁術えんじゅつだったのか。


 袁術えんじゅつといえば、この先の未来において群雄の一人として大きな勢力を築く人物だ。こんな未来の有名人がポンと現れるあたり、さすが洛陽らくようといったところだ。本当に至る所に有名人がいる。


 だが、袁術えんじゅつといえば、この先の未来において大きな問題を起こす人物でもある。僕は念の為、彼のことをより詳しく盧植ろしょくに聞いてみた。


「ちなみにその袁虎賁えんじゅつとはどのようなお方ですか?」


 盧植ろしょくは少し頭を悩まして答えた。


「うむ、そうだな。


 先程のやりとりを見ていただろうが、注意すればそれを受け入れるだけの素直さはある。


 このまま経験を積み、良き部下に恵まれれば、優れた政治家にもなれるのではないかな」


 思ったよりの高評価に僕は驚く。袁術えんじゅつの評価だからもっと酷く言われているのかと思っていた。


 だが、よく考えたらこの後の袁術えんじゅつって、あまり経験を積まないまま群雄になり、良き部下を遠ざけてしまったんじゃないか。その結果、よくない最期を迎えてしまった。


 盧植ろしょくの高評価は、この先の袁術えんじゅつの成長も加味したものだ。そう考えると納得できる評価だ。


 その時、遠くから盧植ろしょくに向けて会釈する青年がいた。背が高く、やたら顔の整った青年だ。名家の雰囲気があるし、彼も有名な人だろうか。


盧先生ろしょく、あちらのイケメ⋯⋯青年はどなたですか?」


 僕は再び盧植ろしょくに尋ねた。だが、盧植ろしょくは首をひねった。


「いや、名前までは知らぬ。


 新任の官吏であろう。あの様子から守宮令しゅきゅうれいあたりであろうか?」


 盧植ろしょくは官吏の中でもよく名が知られている。おそらく、向こうが一方的に知っていたのだろう。


「しかし、この時期の洛陽らくようの新人官吏か。


 僕が洛陽らくようを去ったら、もう会う機会もなさそうだな」


 僕は能天気にそう考え、大喪に参列する盧植ろしょくを見送った。


 その夜、霊帝れいていの崩御を知らせる竹使符ちくしふ(竹の割符)が下され、全国の郡太守ぐんたいしゅ国相こくそう及び諸侯王へ向けて届けられた。これが到着すると、皆伏して泣き声をあげ、悲しみを尽くすのが決まりとなっていた。


 中華全土は悲しみに包まれることとなった。そして、新たな時代の到来を予見させた。


《続く》


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