霊帝の崩御から一夜明けた。庭では積まれた柴が煌々と燃えている。
崩御の翌日、この日は小斂という儀式が行われる。小斂とは、遺体の衣服を改める儀式である。そして、翌日に控えた遺体を棺に収めるための下準備もこの日に行われる。
明け方、庭の焚火が消され、衣裳の準備が始まった。
その様子を忸怩たる思いで見守る一派がいた。
皇子・劉協を奉じる外戚・董氏、宦官・蹇碩らの一派である。
「どうなっているのですか、蹇碩!」
董太后の怒号が永楽宮に響き渡る。彼女は蹇碩の言葉を信じ、自身の孫である劉協が皇帝になれると思い込んでいた。それがあっさりと覆されたのである。その怒りは事の発端である蹇碩へと注がれた。
それに対して蹇碩はただただ謝り続けた。
「まさか、何進めがここまでの強攻策に出るとは思いませんでした。
申し訳ありません」
蹇碩の策略で、見事、劉協を後継者にするという霊帝の言質をとった董氏一派。
だが、何進らはその霊帝の遺言を無視して、劉弁を皇位につけるという強攻策をとった。
董太后は蹇碩を一喝する。
「今も奴らは着々と陛下の葬儀を執り行い、史侯が皇太子であるという既成事実を作ろうとしています。
そして、礼に従うならば明日には史侯が皇帝に即位してしまいます!
今、手を打たねば取り返しがつかなくなります!」
明日は霊帝の遺体を棺に収める日である。そして、それと同時に皇帝の即位式が行われる。このまま行けば即位するのは劉弁だろう。それを董太后はなんとしても避けたかった。
「ですが、即位式を先延ばしさせるのは現実的に難しいでしょう⋯⋯。
そうなると、やはり何進らを相手にするしかありません」
そう分析する蹇碩の言葉に、今度は董太后の甥で驃騎将軍の董重が口を挟み、董太后に進言した。
「しかし、何進・何苗の兄弟は軍を掌握しております。
重の率いる兵はせいぜい千。蹇碩も西園軍の指揮権があるとは言え、校尉の袁紹や曹操らは何進の傘下に入っております。
とても、正面から挑んでも勝てないでしょう」
兵力差で見るならやはり、何進一派に分がある。西園軍を蹇碩が掌握しきれていないのが痛手だ。
董重としてはあくまで冷静な戦力分析のつもりであった。
だが、これが返って董太后を怒らせる結果となった。彼女は顔を真っ赤にし、声を荒げた。
「重、待ちなさい!
あなたはこの雒陽を兵火で焼こうと言うですか!
そのようなことは許しません! 兵を用いずに手を打ちなさい!」
董太后は烈火のごとく董重を叱り飛ばした。この剣幕に董重は押されながらも反論する。
「永楽太后、それはますます難しい話でしょう。
今更、説得して応じる相手でもありませんし⋯⋯」
だが、董太后の鼻息は未だ荒い。
「とにかく、兵を用いるのは許しません!
竇氏の過ちを繰り返してはなりません(霊帝の代の初め、外戚の竇武は宦官一掃を図って兵を挙げようとしたが、宦官に先手を取られ、反対に誅殺された)。
何より、雒陽に火を放つようなことがあってはなりません。董氏の名にかけて!」
董太后のあまりの勢いに押され、董重も彼女を宥めるのに精一杯であった。彼は助けを求めるように蹇碩に目を移した。
それを受けてか、蹇碩は思い切ったような口調で話し始めた。
「お待ち下さい。
もしかしたら何とか出来るかもしれません」
「本当か、蹇碩」
蹇碩の言葉に、董重は縋るように尋ねた。彼の言葉には董太后も満足して、聞き返した。
「おお、蹇碩。やはりそなたは頼りになります。それでどうするのですか」
董太后らの期待に応えるように、蹇碩は自身の策を語り出した。
「はい、何進はこの度、随分な強攻策を取っております。
ですが、何進は本来、臆病な男であります。恐らく、この度の強攻策も何者かの入れ知恵でしょう。
そこで我らは宮中に兵を伏せ、何進が油断してわずかな護衛で入ってきたところを取り囲むのです。そして、何進を脅し、先帝陛下の御遺言は確かに董侯であったと一筆書かせるのです。
そうすれば奴も言い逃れはできなくなるでしょう」
蹇碩が出した策に、董太后もご満悦で聞き入った。董重は大きく頷き、蹇碩の策に賛同した。
「なるほど、それは良い。
何進も署名を拒否して死を選ぶほど気骨のある男でもなかろうし。
今は大喪の最中。何進が少数で移動する機会なぞいくらもある。それなら我らの兵で十分、可能だ」
「よろしい。
蹇碩、すぐにその策を実行しなさい。
即位式を阻止するなら本日しか日がありません。急いで行うのです」
この董太后の言葉に、蹇碩は跪き、力強く答えた。
「永楽太后、お任せを!」
蹇碩は董太后の許可を得ると、早速、行動に起こした。彼は羽林中郎将(大喪時、宮中の警備を担当する)を脅して、宮城の警備の仕事を奪い取った。
そして、何進が宮殿の来訪時を見計らって、配下の兵士に羽林郎(羽林中郎将が率いる部隊)を装わせ、待ち構えた。
「何進が護衛を連れていても高々、数人だろう。精鋭三十人も伏せれば十分だ。
よし、誰か入口で待ち構えて何進の到着を知らせよ」
蹇碩の指令に、一人の男が前に進み出た。
「蹇校尉、その役は私が引き受けましょう」
名乗り出たのは司馬(副官)の潘隠であった。
蹇碩は司馬自らの立候補に満面の笑みで答えた。
「おう、司馬か。よし任せたぞ!」
潘隠を入口に配置し、蹇碩らは何進の到着を今か今かと待ち構えた。
しばらくして、何も知らぬ何進が意気揚々と宮殿に現れた。
「今日は小斂、明日は大斂だ。そして、それと同時に史侯の即位式だ!
即位さえしてしまえば、董氏や蹇碩らも恐るるに足りん!
初めからこうしていれば良かったのだ。ハハハ!」
何進は一度は蹇碩に遅れを取り、甥・劉弁の即位を諦めた。だが、部下の袁紹の進言に従い、強引にそれを反故にした。霊帝の遺言に背くことには些かの良心の呵責があった。しかし、おかげで劉弁の即位はほぼ確実となった。
我が世の春を謳歌する何進は軽やかな足取りで宮殿へと向かった。
しかし、宮殿に踏み入れる直前、彼は思わず立ち止まった。入口の兵士が何やら何進に向けて目配せをしてきたからであった。
「なんだ、あの兵士は?
何か私に伝えようとしているのか?」
兵士が意味もなく自分に向けて目配せするはずがない。何進は軍事の頂点に君臨する大将軍だ。おふざけや冗談でしているとも思えない。だが、何進には何一つ思い当たる節がなかった。
その時、何進は何者かに強引に腕を引かれた。
「な、なんだ!」
驚いた何進は急いで振り返り、その強引に引く主を睨みつけた。
《続く》