目次
ブックマーク
応援する
4
コメント
シェア
通報

第七十四話 大喪(四)

 霊帝れいていの崩御から一夜明けた。庭では積まれた柴が煌々と燃えている。


 崩御の翌日、この日は小斂しょうれんという儀式が行われる。小斂しょうれんとは、遺体の衣服を改める儀式である。そして、翌日に控えた遺体を棺に収めるための下準備もこの日に行われる。


 明け方、庭の焚火が消され、衣裳いしょうの準備が始まった。


 その様子を忸怩じくじたる思いで見守る一派がいた。


 皇子・劉協りゅうきょうを奉じる外戚がいせき董氏とうし宦官かんがん蹇碩けんせきらの一派である。


「どうなっているのですか、蹇碩けんせき!」


 董太后とうたいごうの怒号が永楽宮えいらくきゅうに響き渡る。彼女は蹇碩けんせきの言葉を信じ、自身の孫である劉協りゅうきょうが皇帝になれると思い込んでいた。それがあっさりと覆されたのである。その怒りは事の発端である蹇碩けんせきへと注がれた。


 それに対して蹇碩けんせきはただただ謝り続けた。


「まさか、何進かしんめがここまでの強攻策に出るとは思いませんでした。


 申し訳ありません」


 蹇碩けんせきの策略で、見事、劉協りゅうきょうを後継者にするという霊帝れいていの言質をとった董氏とうし一派。


 だが、何進かしんらはその霊帝れいていの遺言を無視して、劉弁りゅうべんを皇位につけるという強攻策をとった。


 董太后とうたいごう蹇碩けんせきを一喝する。


「今も奴らは着々と陛下れいていの葬儀を執り行い、史侯りゅうべんが皇太子であるという既成事実を作ろうとしています。


 そして、礼に従うならば明日には史侯りゅうべんが皇帝に即位してしまいます!


 今、手を打たねば取り返しがつかなくなります!」


 明日は霊帝れいていの遺体を棺に収める日である。そして、それと同時に皇帝の即位式が行われる。このまま行けば即位するのは劉弁りゅうべんだろう。それを董太后とうたいごうはなんとしても避けたかった。


「ですが、即位式を先延ばしさせるのは現実的に難しいでしょう⋯⋯。


 そうなると、やはり何進かしんらを相手にするしかありません」


 そう分析する蹇碩けんせきの言葉に、今度は董太后とうたいごうの甥で驃騎将軍ひょうきしょうぐん董重とうじゅうが口を挟み、董太后とうたいごうに進言した。


「しかし、何進かしん何苗かびょうの兄弟は軍を掌握しております。


 わたしの率いる兵はせいぜい千。蹇碩けんせき西園軍せいえんぐんの指揮権があるとは言え、校尉こうい袁紹えんしょう曹操そうそうらは何進かしんの傘下に入っております。


 とても、正面から挑んでも勝てないでしょう」


 兵力差で見るならやはり、何進かしん一派に分がある。西園軍せいえんぐん蹇碩けんせきが掌握しきれていないのが痛手だ。


 董重とうじゅうとしてはあくまで冷静な戦力分析のつもりであった。


 だが、これが返って董太后とうたいごうを怒らせる結果となった。彼女は顔を真っ赤にし、声を荒げた。


とうじゅう、待ちなさい!


 あなたはこの雒陽らくようを兵火で焼こうと言うですか!


 そのようなことは許しません! 兵を用いずに手を打ちなさい!」


 董太后とうたいごうは烈火のごとく董重とうじゅうを叱り飛ばした。この剣幕に董重とうじゅうは押されながらも反論する。


永楽太后とうたいごう、それはますます難しい話でしょう。


 今更、説得して応じる相手でもありませんし⋯⋯」


 だが、董太后とうたいごうの鼻息は未だ荒い。


「とにかく、兵を用いるのは許しません!


 竇氏とうしの過ちを繰り返してはなりません(霊帝れいていの代の初め、外戚がいせき竇武とうぶ宦官かんがん一掃を図って兵を挙げようとしたが、宦官かんがんに先手を取られ、反対に誅殺された)。


 何より、雒陽らくように火を放つようなことがあってはなりません。董氏とうしの名にかけて!」


 董太后とうたいごうのあまりの勢いに押され、董重とうじゅうも彼女を宥めるのに精一杯であった。彼は助けを求めるように蹇碩けんせきに目を移した。


 それを受けてか、蹇碩けんせきは思い切ったような口調で話し始めた。


「お待ち下さい。


 もしかしたら何とか出来るかもしれません」


「本当か、蹇碩けんせき


 蹇碩けんせきの言葉に、董重とうじゅうは縋るように尋ねた。彼の言葉には董太后とうたいごうも満足して、聞き返した。


「おお、蹇碩けんせき。やはりそなたは頼りになります。それでどうするのですか」


 董太后とうたいごうらの期待に応えるように、蹇碩けんせきは自身の策を語り出した。


「はい、何進かしんはこの度、随分な強攻策を取っております。


 ですが、何進かしんは本来、臆病な男であります。恐らく、この度の強攻策も何者かの入れ知恵でしょう。


 そこで我らは宮中に兵を伏せ、何進かしんが油断してわずかな護衛で入ってきたところを取り囲むのです。そして、何進かしんを脅し、先帝陛下れいていの御遺言は確かに董侯りゅうきょうであったと一筆書かせるのです。


 そうすれば奴も言い逃れはできなくなるでしょう」


 蹇碩けんせきが出した策に、董太后とうたいごうもご満悦で聞き入った。董重とうじゅうは大きく頷き、蹇碩けんせきの策に賛同した。


「なるほど、それは良い。


 何進かしんも署名を拒否して死を選ぶほど気骨のある男でもなかろうし。


 今は大喪の最中。何進かしんが少数で移動する機会なぞいくらもある。それなら我らの兵で十分、可能だ」


「よろしい。


 蹇碩けんせき、すぐにその策を実行しなさい。


 即位式を阻止するなら本日しか日がありません。急いで行うのです」


 この董太后とうたいごうの言葉に、蹇碩けんせきひざまずき、力強く答えた。


永楽太后とうたいごう、お任せを!」


 蹇碩けんせき董太后とうたいごうの許可を得ると、早速、行動に起こした。彼は羽林中郎将うりんちゅうろうしょう(大喪時、宮中の警備を担当する)を脅して、宮城の警備の仕事を奪い取った。


 そして、何進かしんが宮殿の来訪時を見計らって、配下の兵士に羽林郎うりんろう(羽林中郎将うりんちゅうろうしょうが率いる部隊)を装わせ、待ち構えた。


何進かしんが護衛を連れていても高々、数人だろう。精鋭三十人も伏せれば十分だ。


 よし、誰か入口で待ち構えて何進かしんの到着を知らせよ」


 蹇碩けんせきの指令に、一人の男が前に進み出た。


蹇校尉けんせき、その役は私が引き受けましょう」


 名乗り出たのは司馬しば(副官)の潘隠はんいんであった。


 蹇碩けんせき司馬しば自らの立候補に満面の笑みで答えた。


「おう、司馬はんいんか。よし任せたぞ!」


 潘隠はんいんを入口に配置し、蹇碩けんせきらは何進かしんの到着を今か今かと待ち構えた。


 しばらくして、何も知らぬ何進かしんが意気揚々と宮殿に現れた。


「今日は小斂しょうれん、明日は大斂だいれんだ。そして、それと同時に史侯りゅうべんの即位式だ!


 即位さえしてしまえば、董氏とうし蹇碩けんせきらも恐るるに足りん!


 初めからこうしていれば良かったのだ。ハハハ!」


 何進かしんは一度は蹇碩けんせきに遅れを取り、甥・劉弁りゅうべんの即位を諦めた。だが、部下の袁紹えんしょうの進言に従い、強引にそれを反故にした。霊帝れいていの遺言に背くことにはいささかの良心の呵責かしゃくがあった。しかし、おかげで劉弁りゅうべんの即位はほぼ確実となった。


 我が世の春を謳歌する何進かしんは軽やかな足取りで宮殿へと向かった。


 しかし、宮殿に踏み入れる直前、彼は思わず立ち止まった。入口の兵士が何やら何進かしんに向けて目配せをしてきたからであった。


「なんだ、あの兵士は?


 何か私に伝えようとしているのか?」


 兵士が意味もなく自分に向けて目配せするはずがない。何進かしんは軍事の頂点に君臨する大将軍だいしょうぐんだ。おふざけや冗談でしているとも思えない。だが、何進かしんには何一つ思い当たる節がなかった。


 その時、何進かしんは何者かに強引に腕を引かれた。


「な、なんだ!」


 驚いた何進かしんは急いで振り返り、その強引に引く主を睨みつけた。


《続く》

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?