何進が振り返ると、そこには彼のよく見知った顔があった。
「お前は袁紹、何故ここにいる?」
何進の腕を引いていた者は、彼の部下・袁紹であった。別に葬儀に参列するはずの彼が何故、ここにいるのか。自分の腕を引いているのは何故か。何進の頭には幾つもの疑問符が乱舞していた。ただ、意味もなくこんなことをする男ではないと何進は思っていた。
「大将軍、危ないところでした。
このまま宮中に入れば殺されてしまいます。引き返しましょう」
袁紹は声を低めて、真剣な顔つきでそう話した。彼の発した「殺されてしまう」の一言に、何進は思わず心臓が跳ね上がるような心地になった。
彼は言葉を詰まらせながら、袁紹に尋ねた。
「な、何!
殺される? 何故だ?」
袁紹は低い声色でゆっくりと話し出した。
「あの兵士は一見、宿衛の兵に扮しております。
ですが、その正体は、蹇碩の部下で、西園軍の司馬・潘隠というものでございます。
彼は今、目配せをして、あなたの身にこれから起こる災厄を教えてくれているのです」
その話を聞き、何進はますます動転した。
「な、なんだと!
いや、待て。
何故、蹇碩の部下が私に危機を教えてくれているのだ?」
何進は一旦心を落ち着けて、袁紹に聞き返した。彼には蹇碩の部下が自分を助ける理由に心当たりがない。
それに対して袁紹はニコリと笑って答えた。
「私も同じ西園軍でございます。潘隠とは旧知の仲。
こんなこともあろうかと、何かあらば教えてくれるよう頼んでおいたのでございます」
そう説明されて何進も合点がいった。袁紹もまた、西園軍の中軍校尉。言うなれば潘隠とは同僚だ。個人的な付き合いがあっても不思議はない。
「おお、でかしたぞ袁紹!」
喜んで袁紹を褒め称える何進に、袁紹は今度は顔を強張らせ、声の凄味を増して答えた。
「大将軍、呑気なことを言われている場合ではございません。
宮殿の前に西園軍の潘隠が控えている意味をお考えください」
そう言われて、何進はすぐに彼の言わんとすることを察した。
「な、なるほど。つまり、この先に蹇碩らが私を待ち構えているというわけだな」
蹇碩の部下が入口に待っているということは、当然、その奥に主の蹇碩が控えているというわけだ。
だが、何進は先程の袁紹の言葉を思い返した。
「しかし、袁紹よ。
それで蹇碩が私を殺そうとしているというのは、いくら何でも飛躍し過ぎなんじゃないか?」
確かに奥には蹇碩が待ち構えているのであろう。だが、何進はそれだけで蹇碩が自分を殺そうとしているとは思えなかった。こんな大喪の最中に、大将軍である自分を殺せばどんな大騒動になるか。さすがの蹇碩も検討がつくだろう。
だが、袁紹はますます眉間に皺を寄せ、声を荒げて反論した。
「大将軍、今の御自身の御立場をよくお考えください。
今のあなたは警戒に警戒を重ねてもまだ足りないほどですぞ。
ここでご油断召されて、もしお命を落とされたなら元も子もないのですぞ!」
袁紹の鬼気迫る迫力に、さすがの何進も押され気味であった。
「た、確かに君の言う通りだ。何かあってからでは遅い。
私の考えが甘かった。今の私の生死は、新帝陛下の進退に関わる重大事であった。
よくぞ気づかしてくれた。感謝するぞ袁紹!」
感謝の言葉を述べる何進に、袁紹はさらに捲し立てるように畳み掛ける。
「大将軍におかれましてはすぐに大将軍府に引き返されるよう提言致します」
そう言われて何進も思わず頷いてしまう。
だが、彼には別の懸念が生まれた。
「そ、そうだな。
しかし、史侯や中宮はどうする?
私が命を狙われるのなら、二人の身も危ないのではないか?」
不安がる何進に袁紹は落ち着いた口調で答えた。
「ご安心ください。史侯も中宮も陛下のお側におられます。あそこは最も百官の注目の集まる場所。そこで暴挙に及ぶほど蹇碩らも無謀ではないでしょう。
それに宮中の警護を預かる虎賁中郎将は我が従弟の袁術。彼に命じて警護を強めておきましょう」
袁紹の言葉に、何進はすっかり安心の色を見せた。
「よし、ならば私はこのまま大将軍府に籠もるぞ。皆のもの撤収だ」
何進は大将軍府へ急ぎ帰還した。それからの彼は役所から一切外に出ず、葬儀にも参列せずにそのまま閉じ籠もってしまった。
袁紹も何進に付いて役所へと向かった。その去り際、袁紹は潘隠に眼で合図を送った。
何進の帰還を見送った潘隠はすぐに蹇碩にそのことを報告した。
「大変です。大将軍が宮殿を前にして急に帰っていきました」
迫真の演技でそう告げる潘隠の言葉に、蹇碩はすっかり騙されて、思わず叫んだ。
「何だと、何故だ?」
「わかりませぬ。もしかしたらいつもと違う雰囲気に気付かれたのやもしれません」
潘隠の発言に、蹇碩も思わず唸った。
「うーむ、いつもより物々し過ぎたか。
しかし、発覚した以上はここに留まっても無駄だろう。やむを得ぬ、我らも撤収するぞ!」
何進への脅迫作戦が失敗した蹇碩はそのまま永楽宮へと帰っていった。
〜〜〜
一方、宮中では大喪の続きがつつがなく進行していた。
竹竿に吊るされた旗が霊帝遺体のの側近くで翻り、彼の居場所を知らせている。その旗には『劉氏宏之柩』と記されていた。
彼の遺体すぐ側には十九着の衣服が用意され、ズラリと並んでいる。しかし、この十九の衣服は全て着用されるわけではない。十九は天地の極数を表す数字として用意されている。
霊帝の遺体の上に衣服を重ねて覆い、紐で縛り付ける。残りの衣服は長い廊下に並べられる。そして、寝台ごと正殿の中央、東西の柱の中心に移動させる。
寝所の外では豚が鼎の中に入れられ、供えられている。
そこへ皇子・劉弁がやってくる。彼は両肩を脱ぎ、霊帝の遺体を覗き込み、哭礼を行う。劉弁もようやく声を出せて泣けるとあって、わんわんと泣いた。彼は普段は口数少ない、温厚な青年であった。それが父の死を前に、激しい悲しみを発露させ、全身でその感情を表していた。
「さあ、殿下、いつまでも哭いてばかりではいけません。早く踊りを行うのです」
そんな彼に、母の何皇后は気にする様子もなく次の儀式を指示する。
劉弁は促されるまま、悲しみの踊りを踊る。この踊りは雀が跳ねるような足摺りの動きをする。主に女官が行うが、皇太子も折に触れ、この踊りをするのが決まりであった。
その息子の様子を何皇后は冷徹な眼で見守る。誰よりも大きな声で哭礼を行い、その頬には涙の後が残っているが、彼女の顔に悲しみの色は窺えない。
彼女は表情一つ変えず、心の中で笑っていた。まもなく、自分の時代が来るのだと、彼女の心は喜びに打ち震えていた。
《続く》