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第七十五話 大喪(五)

 何進かしんが振り返ると、そこには彼のよく見知った顔があった。


「お前は袁紹えんしょう、何故ここにいる?」


 何進かしんの腕を引いていた者は、彼の部下・袁紹えんしょうであった。別に葬儀に参列するはずの彼が何故、ここにいるのか。自分の腕を引いているのは何故か。何進かしんの頭には幾つもの疑問符が乱舞していた。ただ、意味もなくこんなことをする男ではないと何進かしんは思っていた。


大将軍かしん、危ないところでした。


 このまま宮中に入れば殺されてしまいます。引き返しましょう」


 袁紹えんしょうは声を低めて、真剣な顔つきでそう話した。彼の発した「殺されてしまう」の一言に、何進かしんは思わず心臓が跳ね上がるような心地になった。


 彼は言葉を詰まらせながら、袁紹えんしょうに尋ねた。


「な、何!


 殺される? 何故だ?」


 袁紹えんしょうは低い声色でゆっくりと話し出した。


「あの兵士は一見、宿衛の兵に扮しております。


 ですが、その正体は、蹇碩けんせきの部下で、西園軍せいえんぐん司馬しば潘隠はんいんというものでございます。


 彼は今、目配せをして、あなたの身にこれから起こる災厄を教えてくれているのです」


 その話を聞き、何進かしんはますます動転した。


「な、なんだと!


 いや、待て。


 何故、蹇碩けんせきの部下が私に危機を教えてくれているのだ?」


 何進かしんは一旦心を落ち着けて、袁紹えんしょうに聞き返した。彼には蹇碩けんせきの部下が自分を助ける理由に心当たりがない。


 それに対して袁紹えんしょうはニコリと笑って答えた。


「私も同じ西園軍せいえんぐんでございます。潘隠はんいんとは旧知の仲。


 こんなこともあろうかと、何かあらば教えてくれるよう頼んでおいたのでございます」


 そう説明されて何進かしんも合点がいった。袁紹えんしょうもまた、西園軍せいえんぐん中軍校尉ちゅうぐんこうい。言うなれば潘隠はんいんとは同僚だ。個人的な付き合いがあっても不思議はない。


「おお、でかしたぞ袁紹えんしょう!」


 喜んで袁紹えんしょうを褒め称える何進かしんに、袁紹えんしょうは今度は顔を強張らせ、声の凄味を増して答えた。


大将軍かしん、呑気なことを言われている場合ではございません。


 宮殿の前に西園軍せいえんぐん潘隠はんいんが控えている意味をお考えください」


 そう言われて、何進かしんはすぐに彼の言わんとすることを察した。


「な、なるほど。つまり、この先に蹇碩けんせきらが私を待ち構えているというわけだな」


 蹇碩けんせきの部下が入口に待っているということは、当然、その奥に主の蹇碩けんせきが控えているというわけだ。


 だが、何進かしんは先程の袁紹えんしょうの言葉を思い返した。


「しかし、袁紹えんしょうよ。


 それで蹇碩けんせきが私を殺そうとしているというのは、いくら何でも飛躍し過ぎなんじゃないか?」


 確かに奥には蹇碩けんせきが待ち構えているのであろう。だが、何進かしんはそれだけで蹇碩けんせきが自分を殺そうとしているとは思えなかった。こんな大喪の最中に、大将軍だいしょうぐんである自分を殺せばどんな大騒動になるか。さすがの蹇碩けんせきも検討がつくだろう。


 だが、袁紹えんしょうはますます眉間に皺を寄せ、声を荒げて反論した。


大将軍かしん、今の御自身の御立場をよくお考えください。


 今のあなたは警戒に警戒を重ねてもまだ足りないほどですぞ。


 ここでご油断召されて、もしお命を落とされたなら元も子もないのですぞ!」


 袁紹えんしょうの鬼気迫る迫力に、さすがの何進かしんも押され気味であった。


「た、確かに君の言う通りだ。何かあってからでは遅い。


 私の考えが甘かった。今の私の生死は、新帝陛下りゅうべんの進退に関わる重大事であった。


 よくぞ気づかしてくれた。感謝するぞ袁紹えんしょう!」


 感謝の言葉を述べる何進かしんに、袁紹えんしょうはさらに捲し立てるように畳み掛ける。


大将軍かしんにおかれましてはすぐに大将軍府だいしょうぐんふに引き返されるよう提言致します」


 そう言われて何進かしんも思わず頷いてしまう。


 だが、彼には別の懸念が生まれた。


「そ、そうだな。


 しかし、史侯りゅうべん中宮かこうごうはどうする?


 私が命を狙われるのなら、二人の身も危ないのではないか?」


 不安がる何進かしん袁紹えんしょうは落ち着いた口調で答えた。


「ご安心ください。史侯りゅうべん中宮かこうごう陛下れいていのお側におられます。あそこは最も百官の注目の集まる場所。そこで暴挙に及ぶほど蹇碩けんせきらも無謀ではないでしょう。


 それに宮中の警護を預かる虎賁中郎将こほんちゅうろうしょうは我が従弟の袁術えんじゅつ。彼に命じて警護を強めておきましょう」


 袁紹えんしょうの言葉に、何進かしんはすっかり安心の色を見せた。


「よし、ならば私はこのまま大将軍府やくしょに籠もるぞ。皆のもの撤収だ」


 何進かしん大将軍府だいしょうぐんふへ急ぎ帰還した。それからの彼は役所から一切外に出ず、葬儀にも参列せずにそのまま閉じ籠もってしまった。


 袁紹えんしょう何進かしんに付いて役所へと向かった。その去り際、袁紹えんしょう潘隠はんいんに眼で合図を送った。


 何進かしんの帰還を見送った潘隠はんいんはすぐに蹇碩けんせきにそのことを報告した。


「大変です。大将軍かしんが宮殿を前にして急に帰っていきました」


 迫真の演技でそう告げる潘隠はんいんの言葉に、蹇碩けんせきはすっかり騙されて、思わず叫んだ。


「何だと、何故だ?」


「わかりませぬ。もしかしたらいつもと違う雰囲気に気付かれたのやもしれません」


 潘隠はんいんの発言に、蹇碩けんせきも思わず唸った。


「うーむ、いつもより物々し過ぎたか。


 しかし、発覚した以上はここに留まっても無駄だろう。やむを得ぬ、我らも撤収するぞ!」


 何進かしんへの脅迫作戦が失敗した蹇碩けんせきはそのまま永楽宮えいらくきゅうへと帰っていった。


 〜〜〜


 一方、宮中では大喪の続きがつつがなく進行していた。


 竹竿に吊るされた旗が霊帝れいてい遺体のの側近くでひるがえり、彼の居場所を知らせている。その旗には『劉氏宏之柩りゅうしこうのひつぎ』と記されていた。


 彼の遺体すぐ側には十九着の衣服が用意され、ズラリと並んでいる。しかし、この十九の衣服は全て着用されるわけではない。十九は天地の極数を表す数字として用意されている。


 霊帝れいていの遺体の上に衣服を重ねて覆い、紐で縛り付ける。残りの衣服は長い廊下に並べられる。そして、寝台ごと正殿の中央、東西の柱の中心に移動させる。


 寝所の外では豚がかなえの中に入れられ、供えられている。


 そこへ皇子・劉弁りゅうべんがやってくる。彼は両肩を脱ぎ、霊帝れいていの遺体を覗き込み、哭礼こくれいを行う。劉弁りゅうべんもようやく声を出せて泣けるとあって、わんわんと泣いた。彼は普段は口数少ない、温厚な青年であった。それが父の死を前に、激しい悲しみを発露させ、全身でその感情を表していた。


「さあ、殿下りゅうべん、いつまでもいてばかりではいけません。早く踊りを行うのです」


 そんな彼に、母の何皇后かこうごうは気にする様子もなく次の儀式を指示する。


 劉弁りゅうべんは促されるまま、悲しみの踊りを踊る。この踊りは雀が跳ねるような足摺あしずりの動きをする。主に女官が行うが、皇太子も折に触れ、この踊りをするのが決まりであった。


 その息子の様子を何皇后かこうごうは冷徹な眼で見守る。誰よりも大きな声で哭礼こくれいを行い、その頬には涙の後が残っているが、彼女の顔に悲しみの色は窺えない。


 彼女は表情一つ変えず、心の中で笑っていた。まもなく、自分の時代が来るのだと、彼女の心は喜びに打ち震えていた。


《続く》

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