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第七十六話 大喪(六)

 その後、宦官かんがんらの手により、霊帝れいていの遺体は頭が南になるように再び寝台に移された。


「さあ、弁皇子りゅうべん小斂しょうれんの儀は終わりました。


 あなたは斬袞ざんこんの服に着替えるのです」


 何皇后かこうごうはそう劉弁りゅうべんを促す。ここで皇太子は初めて喪服に着替える。麻布で髪を覆い、白衣の上から黒い麻の帯を、首と腰に巻く。これを斬袞ざんこんの服と呼ぶ。


 着替えを手伝う宦官かんがん張譲ちょうじょう劉弁りゅうべんいたわる。


殿下りゅうべん、見事な哭礼こくれいでございました。


 先帝陛下れいていも満足されていることでしょう」


 そう声を掛ける張譲ちょうじょうに対して、劉弁りゅうべんはただ、「ああ」とだけ答えた。その声色にはまだ泣き声が残っていた。


弁皇子りゅうべん、あなたは明日にも皇帝となるのです。


 今のうちに軽く休んでおきましょう」


 何皇后かこうごうはいつもより幾分優しい声色で劉弁りゅうべんにそう語りかけた。嬉しさが隠しきれない様子だ。それを見た張譲ちょうじょうは軽く咎めた。


中宮かこうごう、まだ群臣の目がございます。あまり明るくお話にならないように」


「ええ、わかっているわ。


 私も後宮を生き抜いた身よ。そのぐらいいくらでもやれるわ」


 そう言うと、何皇后かこうごうは今にも泣き出しそうな表情にみるみる変わり、目元を押さえた。その様子は遠目に見れば泣いているようでもあった。


 その変わり様に、張譲ちょうじょうは軽くため息をつきながらも、賞賛した。


「見事でございます」


「当たり前でしょう。私は天下の皇后よ」


 何皇后かこうごうは、張譲ちょうじょうのため息に気付きもせず、泣いた様子を崩すこともなく、得意気に語った。


 張譲ちょうじょうはこれ以上話を広げるのを止めて、別の話題を振った。


「そう言えば、もう大将軍かしんは大喪に参列されないつもりなのですか」


「ええ、兄上かしん蹇碩けんせきに暗殺されかけたと言って、役所に籠もってしまわれたわ。


 まあ、兄上かしんがいなくても大喪の儀に影響はないでしょう。


 張常侍ちょうじょう、あなたも永楽太后とうたいごうの動きには気をつけなさい」


「はい、肝に銘じておきます」


 何皇后かこうごうはそう言うと、俯き気味に、劉弁りゅうべんと共に寝所を去っていった。


 劉弁りゅうべんらが退出すると、再び太常たいじょう馬日磾ばじつていの仕事だ。彼は霊帝れいていの遺体の東側にほしにくにくのしおからあまざけを供えた。先日はあまざけの代わりに酒を供えていたが、本来はあまざけを供えるのが正しい。ただ、あまざけは作り置きができないので、急で用意できない時は酒で代用する。


 さらに外に供えていた豚を解体し、遺体の東に供えた。


 「では、これにて哭礼こくれいを一区切りと致します。


 これよりは交代で行ってください」


 太常たいじょうの言葉に従い、それまで正殿の下でき続けていた百官は、交代制による哭礼こくれいへと変える。


 一方、東園匠とうえんしょうとなった青年・荀彧じゅんいくも大仕事に取り掛かっていた。


「明日までに棺を用意しなければなりません。皆さん、急いでください」


 明日、霊帝れいていの遺体を収める棺の作成も荀彧じゅんいくの仕事であった。この棺はあずさで作られていたので梓宮しきゅうと呼ばれる。漆で朱色に塗られ、龍や虎など縁起の良い絵が描かれている。


 明日にはこの棺に、霊帝れいていの遺体が収められるのである。


 〜〜〜


 小斂しょうれんの儀が行われていた最中、永楽宮えいらくきゅうに帰還した蹇碩けんせき。彼の下には、すぐに何進かしん陣営の続報がもたらされた。


「何っ!


 私が何進かしんの暗殺を計ったというのか!」


「はい、大将軍かしんは自身の役所に籠もり、蹇校尉けんせきが己の暗殺を計画していたと周囲に喧伝しているそうでございます」


 部下からもたらされたこの報告に、蹇碩けんせきは驚き、激怒した。



「私がいつ奴の暗殺まで計画した!


 奴め! 言うに事欠いて有ること無いことぬかしおって!」


 蹇碩けんせきが計画したのはあくまで、何進かしんを脅して、次の皇帝は劉協りゅうきょうだと一筆書かせることであった。


 それがいつの間にか何進かしんの暗殺犯に仕立て上げられてしまった。


「大喪の真っ最中に、宮中で暗殺なぞ、そんな物騒なことするものか!


 奴に一杯食わされた!


 これでは私が暗殺までして無理やり董侯りゅうきょうの御即位を図っているようではないか!」


 怒りを露わにする蹇碩けんせき。彼は「何か手を打たねば⋯⋯」と頭を悩ませる。そこへ彼の部下・潘隠はんいんが神妙な面持ちで進言する。


「ですが、我らが兵を率いて宮中を出入りした様は多くの者に目撃されております。


 ここで下手な言い訳をすれば、返って疑惑を深める結果になるやもしれません」


 その言葉に、蹇碩けんせきはますます怒りを強め、近くの座床いすを蹴飛ばした。


「ううむ、我らが真実を話しても逆効果か⋯⋯。


 いや、そもそも、何か手を打ちたくても役所に籠もられては手を出しようもない!


 この様子では張譲ちょうじょうらも警戒して近づけなくなってしまうだろう。


 どうしたものか⋯⋯」


 董氏とうし蹇碩けんせきらが次の一手を打てぬまま無情にも時間ばかりが過ぎていった。


 そして、ついに翌朝を迎えた。


 この日は霊帝れいていの遺体を棺に収める大斂たいれんという儀式が行われる日である。


 そして、それと同時に皇太子が皇帝に即位する日でもあった。


 〜〜〜


 朝靄あやもやが薄く漂い、肌寒さのまだ残る頃、正殿の端門(正門)の左右を、五官中郎将ごかんちゅうろうしょう、左右の中郎将ちゅうろうしょう虎賁こほん羽林うりん中郎将ちゅうろうしょうは、各々の部隊を率いて整然と並んでいく。


 虎賁中郎将こほんちゅうろうしょう袁術えんじゅつも真剣な面持ちでその中に並んでいる。彼は盧植ろしょくの助言を受け入れ、質素な服装、簡素な装飾に改めていた。おかげで悪目立ちしていない。


 さらに宦官かんがんたちで構成される中黄門ちゅうこうもんも、武器を携えて正殿の上へと並んでいる。


 厳粛な空気が辺りを包む。


 昼の初め、百官が所定の場所へと居並び始める。


 正殿の中、何皇后かこうごうが西側に並び、その後ろに霊帝れいていの側室たち、公主こうしゅ(皇帝の娘、霊帝れいていには娘が一人いた)、宗室(皇族)の婦女が続いた。


 劉弁りゅうべんは東側に並び、劉協りゅうきょうはやや後ろに下がって、南側に立つ。


 正殿の下には東側に固まるように各地の王、皇胤の諸侯らが並ぶ。


 さらにその後ろ、東西に広がるように群臣が列席する。三公さんこうが最前列に並び、その後ろに中二千石ちゅうにせんせきの官吏(九卿きゅうけい(大臣)等が相当する)、特進とくしん(諸侯のうち特別待遇を受けた者)、二千石にせんせきの官吏(中級官吏、校尉等が相当。中常侍ちゅうじょうじ張譲ちょうじょうらもここにいる)、列侯れっこう(爵位を与えられた者)、六百石ろっぴゃくせきの官吏(下級官吏、守宮令しゅきゅうれい荀彧じゅんいくはここにいる)、博士はくし(太学たいがくの教授)と続いていく。


 その並びを指示するのは大鴻臚だいこうろという役職の人物であった。


 大鴻臚だいこうろの男は、鋭い目を百官に向ける。彼は上の諸侯らには丁寧に接したかと思えば、動きの遅い官吏相手には厳しく怒鳴りつける。


 彼は白髪混じりの頭に、顔には深い皺が刻まれていた。しかし、背筋はピンと伸び、矍鑠かくしゃくとした態度である。身なりも礼に則った完璧なもので、他者の追求を許さない厳格な姿であった。


 この大鴻臚だいこうろの名は崔烈さいれつあざな威考いこう

 過去には三公さんこうの地位に就いたこともある重臣である。そのため、高官であっても彼の叱責に皆、素直に従っている。

 しかし、彼は過去に司徒しとの位を売官によって得た人物でもあった。皆、彼の言葉に諾々だくだくと従ったが、心の内では彼をさげすんでいた。


 皆が並び終わると、大鴻臚だいこうろ崔烈さいれつは、謁者えっしゃを通じて、その旨を皇后に伝える。


 これより、大斂たいれんが行われる。


《続く》

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