その後、宦官らの手により、霊帝の遺体は頭が南になるように再び寝台に移された。
「さあ、弁皇子、小斂の儀は終わりました。
あなたは斬袞の服に着替えるのです」
何皇后はそう劉弁を促す。ここで皇太子は初めて喪服に着替える。麻布で髪を覆い、白衣の上から黒い麻の帯を、首と腰に巻く。これを斬袞の服と呼ぶ。
着替えを手伝う宦官・張譲は劉弁を労る。
「殿下、見事な哭礼でございました。
先帝陛下も満足されていることでしょう」
そう声を掛ける張譲に対して、劉弁はただ、「ああ」とだけ答えた。その声色にはまだ泣き声が残っていた。
「弁皇子、あなたは明日にも皇帝となるのです。
今のうちに軽く休んでおきましょう」
何皇后はいつもより幾分優しい声色で劉弁にそう語りかけた。嬉しさが隠しきれない様子だ。それを見た張譲は軽く咎めた。
「中宮、まだ群臣の目がございます。あまり明るくお話にならないように」
「ええ、わかっているわ。
私も後宮を生き抜いた身よ。そのぐらいいくらでもやれるわ」
そう言うと、何皇后は今にも泣き出しそうな表情にみるみる変わり、目元を押さえた。その様子は遠目に見れば泣いているようでもあった。
その変わり様に、張譲は軽くため息をつきながらも、賞賛した。
「見事でございます」
「当たり前でしょう。私は天下の皇后よ」
何皇后は、張譲のため息に気付きもせず、泣いた様子を崩すこともなく、得意気に語った。
張譲はこれ以上話を広げるのを止めて、別の話題を振った。
「そう言えば、もう大将軍は大喪に参列されないつもりなのですか」
「ええ、兄上は蹇碩に暗殺されかけたと言って、役所に籠もってしまわれたわ。
まあ、兄上がいなくても大喪の儀に影響はないでしょう。
張常侍、あなたも永楽太后の動きには気をつけなさい」
「はい、肝に銘じておきます」
何皇后はそう言うと、俯き気味に、劉弁と共に寝所を去っていった。
劉弁らが退出すると、再び太常・馬日磾の仕事だ。彼は霊帝の遺体の東側に脯、醢、醴を供えた。先日は醴の代わりに酒を供えていたが、本来は醴を供えるのが正しい。ただ、醴は作り置きができないので、急で用意できない時は酒で代用する。
さらに外に供えていた豚を解体し、遺体の東に供えた。
「では、これにて哭礼を一区切りと致します。
これよりは交代で行ってください」
太常の言葉に従い、それまで正殿の下で哭き続けていた百官は、交代制による哭礼へと変える。
一方、東園匠となった青年・荀彧も大仕事に取り掛かっていた。
「明日までに棺を用意しなければなりません。皆さん、急いでください」
明日、霊帝の遺体を収める棺の作成も荀彧の仕事であった。この棺は梓で作られていたので梓宮と呼ばれる。漆で朱色に塗られ、龍や虎など縁起の良い絵が描かれている。
明日にはこの棺に、霊帝の遺体が収められるのである。
〜〜〜
小斂の儀が行われていた最中、永楽宮に帰還した蹇碩。彼の下には、すぐに何進陣営の続報がもたらされた。
「何っ!
私が何進の暗殺を計ったというのか!」
「はい、大将軍は自身の役所に籠もり、蹇校尉が己の暗殺を計画していたと周囲に喧伝しているそうでございます」
部下からもたらされたこの報告に、蹇碩は驚き、激怒した。
「私がいつ奴の暗殺まで計画した!
奴め! 言うに事欠いて有ること無いことぬかしおって!」
蹇碩が計画したのはあくまで、何進を脅して、次の皇帝は劉協だと一筆書かせることであった。
それがいつの間にか何進の暗殺犯に仕立て上げられてしまった。
「大喪の真っ最中に、宮中で暗殺なぞ、そんな物騒なことするものか!
奴に一杯食わされた!
これでは私が暗殺までして無理やり董侯の御即位を図っているようではないか!」
怒りを露わにする蹇碩。彼は「何か手を打たねば⋯⋯」と頭を悩ませる。そこへ彼の部下・潘隠が神妙な面持ちで進言する。
「ですが、我らが兵を率いて宮中を出入りした様は多くの者に目撃されております。
ここで下手な言い訳をすれば、返って疑惑を深める結果になるやもしれません」
その言葉に、蹇碩はますます怒りを強め、近くの座床を蹴飛ばした。
「ううむ、我らが真実を話しても逆効果か⋯⋯。
いや、そもそも、何か手を打ちたくても役所に籠もられては手を出しようもない!
この様子では張譲らも警戒して近づけなくなってしまうだろう。
どうしたものか⋯⋯」
董氏や蹇碩らが次の一手を打てぬまま無情にも時間ばかりが過ぎていった。
そして、ついに翌朝を迎えた。
この日は霊帝の遺体を棺に収める大斂という儀式が行われる日である。
そして、それと同時に皇太子が皇帝に即位する日でもあった。
〜〜〜
朝靄が薄く漂い、肌寒さのまだ残る頃、正殿の端門(正門)の左右を、五官中郎将、左右の中郎将、虎賁、羽林の中郎将は、各々の部隊を率いて整然と並んでいく。
虎賁中郎将・袁術も真剣な面持ちでその中に並んでいる。彼は盧植の助言を受け入れ、質素な服装、簡素な装飾に改めていた。おかげで悪目立ちしていない。
さらに宦官たちで構成される中黄門も、武器を携えて正殿の上へと並んでいる。
厳粛な空気が辺りを包む。
昼の初め、百官が所定の場所へと居並び始める。
正殿の中、何皇后が西側に並び、その後ろに霊帝の側室たち、公主(皇帝の娘、霊帝には娘が一人いた)、宗室(皇族)の婦女が続いた。
劉弁は東側に並び、劉協はやや後ろに下がって、南側に立つ。
正殿の下には東側に固まるように各地の王、皇胤の諸侯らが並ぶ。
さらにその後ろ、東西に広がるように群臣が列席する。三公が最前列に並び、その後ろに中二千石の官吏(九卿(大臣)等が相当する)、特進(諸侯のうち特別待遇を受けた者)、二千石の官吏(中級官吏、校尉等が相当。中常侍の張譲らもここにいる)、列侯(爵位を与えられた者)、六百石の官吏(下級官吏、守宮令の荀彧はここにいる)、博士(太学の教授)と続いていく。
その並びを指示するのは大鴻臚という役職の人物であった。
大鴻臚の男は、鋭い目を百官に向ける。彼は上の諸侯らには丁寧に接したかと思えば、動きの遅い官吏相手には厳しく怒鳴りつける。
彼は白髪混じりの頭に、顔には深い皺が刻まれていた。しかし、背筋はピンと伸び、矍鑠とした態度である。身なりも礼に則った完璧なもので、他者の追求を許さない厳格な姿であった。
この大鴻臚の名は崔烈、字は威考。
過去には三公の地位に就いたこともある重臣である。そのため、高官であっても彼の叱責に皆、素直に従っている。
しかし、彼は過去に司徒の位を売官によって得た人物でもあった。皆、彼の言葉に諾々と従ったが、心の内では彼を蔑んでいた。
皆が並び終わると、大鴻臚の崔烈は、謁者を通じて、その旨を皇后に伝える。
これより、大斂が行われる。
《続く》