まだ朝霧が漂う早朝、黄砂舞う中を二頭の馬が駆け抜けていく。前を進むのは月毛(クリーム色)の馬、そのすぐ後を追うのは鹿毛(茶色)の馬。それぞれの主を乗せて草原を疾走していた。
「さすが、未来の五虎将軍、末恐ろしい青年だ」
僕は後ろから迫りくる青年の技量に恐怖さえ覚えた。
「辰元さん、わけのわからぬことをゴチャゴチャ言っていると抜かしますよ」
僕の後ろからグングンと距離を詰めてくるその青年の名は馬超。後に歴史に大きく名を残すことになる彼も、今はまだ十四歳の青年だ。
鹿毛の馬に跨った彼は、既に未来の英雄の片鱗を覗かせている。馬超は大人顔負けの手綱さばきで馬を操り、ついに僕らを追い抜いた。
「よし、抜いた。このまま行くぞ!」
馬超は鞭を使い、馬をさらに加速させる。
「いくら相手が馬超とはいえ、プロのジョッキーが十四の子供に負けるわけにはいかないな」
僕は鞍より垂れ下がる鐙を踏み込み、尻を持ち上げて前傾姿勢の乗り方に切り替えた。
これは未来の世界で競馬のジョッキーが主流とする馬の乗り方・『モンキー乗り』だ。騎手の体重を前方にかけることで、馬の負担を減らし、よりスピードを出すことが出来るとされる。
僕の愛馬・彗星はグングンとスピードを上げていく。アジア馬なら最高時速三十〜四十キロ出せるという。だが、今の僕と彗星なら四十キロ、いや、五十キロは出ているだろう。まさに最速だ。
僕らは馬超を悠々と追い抜き、そのままゴールまで駆け抜けた。
僕の名は劉星。字を辰元。元の名を辰元流星。未来の世界から三国志の世界に転生した競馬のジョッキーだ。
僕は大人気なくも未来の技術を総動員して馬超に乗馬レースで勝利した。
ゴールで待っていた馬超の奴隷、郃少年は目を丸くして「速ぇ⋯⋯」と感嘆する。
馬超もゴールに辿り着き、本気で悔しそうな顔を浮かべている。
「辰元さん、先ほどの浮いたような乗り方は何ですか?」
馬超が僕に尋ねる。『モンキー乗り』と言っても通じないだろう。僕は体重を前に預けることで、馬の速度を速める乗り方だと説明した。
馬超は感心しきりで、今度、その乗り方を教えてくださいと言う。
「教えても構わないんだけど、この乗り方をするには、この鐙が、それも丈夫な鞍に吊るした鐙が必要なんだよ」
僕は彗星にぶら下げている鐙を指差した。この時代、乗馬中に足を置く鐙は、まだ普及していない。鞍に直接跨り、腿で挟んで固定する。馬超も例に漏れず、鞍に跨っただけで馬を操っている。
「鐙ですか。最初見た時は馬に乗れない人間の補助具かと思ったんですが、なかなかに便利なんですね。
どこで手に入れたんですか?」
「これは馴染みの商人に特注で作ってもらったものだからなぁ。売り物とかではないんだよ。
あの人とは今すぐ連絡取れないしなぁ」
この鐙は劉備馴染みの商人・張世平によって仕立ててもらったものだ。もちろん、知識は僕が提供したものだ。
「うーむ、なるほど。故郷に帰ったら作らせてみようかな」
そう言って馬超は思案する。着実に鐙を普及させている気がする。どうにも歴史を変えているんじゃないかと少し不安になるな。
「鐙に頼らなくても、君はまだ実力を完全には発揮できてないだろ。
君の馬は連れてきてないのかい?」
僕は馬超に尋ねた。先ほど、馬超が乗っていた鹿毛(茶色)の馬は今、お世話になっている盧植からの借り物だ。盧植の馬も良い馬だが、車を牽くための馬だ。馬力はあるが、スピードはやはり競走馬に劣る。なにより、馴染みの愛馬と借り物では発揮できる実力も変わるものだ。
「ああ、私の馬ですか。
⋯⋯ちょっと理由あって今いないんですよね」
馬超はそう答えた。馬超も今、盧植邸で共にお世話になっているが、彼は馬を連れてきていない。馬超と言えば物語では騎将と有名なのに、彼の愛馬が見れないのは残念だ。
しかし、今の彼は孟己という偽名を使って洛陽に潜入している身。色々理由もあるのだろうと、それ以上詮索しないでおいた。
僕らは馬たちを連れて洛陽内にある盧植邸へと帰った。馬も毎日厩に繋がれていては気が滅入ってしまう。本日は僕の愛馬の彗星や盧植の馬を郊外で走らせてやるのが目的だった。
僕らが帰ると、白髪混じりの背の高い男性が出迎えてくれた。この家の主・盧植先生だ。
盧植は僕らを見つけるなり、血相を変えて駆け寄ってきた。その様子からただ事でないことは僕らにも察せられた。
「劉星、気をしっかり持ってききなさい。
先ほど、このような知らせがあった。
丹陽(揚州の北部、現代の江蘇省の辺り)に赴いた大将軍の派遣した募兵部隊だが、賊に遭遇し、大損害を被ったという話だ」
「え⋯⋯そんな⋯⋯」
その報告を受けて、僕は愕然とした。
以前、大将軍・何進は兵を新たに集めるため、各地に将校を派遣していた。そして、その丹陽郡には、僕の主である劉備、そして、その義弟の関羽・張飛の三人も参加していた。その部隊が、反乱軍の襲撃に遭ったというのだ。
「そ、それで、劉備たちは無事なのですか?」
僕は慌てて盧植に尋ねた。だが、盧植の表情は晴れなかった。
「わからぬ。ただ、損害を被ったとしか⋯⋯。
劉備らの生死については何も伝わってこない。
こんなことになるとわかっておれば、彼らに勧めるのではなかった⋯⋯」
何進の募兵の話は盧植が劉備に勧めた仕事だ。そのためか、盧植も意気消沈している。
「こ、こんなことをしているばあいではない。早く劉備たちに連絡を取らないと!」
僕はすぐに行動を起こそうとするが、盧植に止められた。
「まて、連絡を取ると言ってもどうするつもりだ」
「どうするって、そんなの電話やメールで⋯⋯あ!」
そこで僕は自分の愚かな行動に気づいた。ここは約千八百年前の中国。電話や電子メールのような未来の連絡手段はまだ影も形もない。連絡を取りたければ、自力で丹陽まで行くか、誰かに直接、手紙を届けてもらうしかない。どちらにせよ、いくらも日数がかかってしまう。とても、すぐに安否を確認することはできない。
「これだから、古代の世界は⋯⋯。
ああ、文明の利器が懐かしい⋯⋯」
苛立つ僕を見て、盧植が肩に手を置き、優しく語りかけてきた。
「どうも、相当混乱しているようだな。落ち着きなさい。
確かに部隊は大損害を被ったとある。だが、全滅したとは報告されていない。
劉備は軽薄なところはあるが、いざという時には冷静な判断を下せる男だ。何より、張純の乱を生き抜いた男であろう。
それに関羽・張飛も一騎当千の武者。
彼ら三人がおいそれと命を落とそうか。彼ら三人ならきっと無事だ」
どうやら激しく動揺した僕を見て、盧植は落ち着きを取り戻したらしい。彼の言葉に俺も落ち着きを取り戻していく。
考えたら転生者の僕は未来を知っている。劉備・関羽・張飛の三人がこれからどうなるのか、それは『三国志』を読んでいれば誰もが知る内容だ。この三人がこんな序盤で死ぬなんてありえない。僕は再び元気を取り戻した。
「すみません。取り乱しました。
彼ら三人のことはよく知っています。こんなところで死ぬような連中じゃない。彼らの帰還を待ちましょう」
僕は冷静さを取り戻し、安心して三人の帰還を待つことにした。
そんな僕に盧植は新たな仕事を依頼する。
「劉星、私は太学に用事がある。すぐにで悪いが、そこまで車を出してくれないか」
「お安い御用です」
僕はすぐに連れ出していた馬たちに車を接続した。僕は今、主である劉備の元を離れ、彼の先生であった盧植の元で働いている。馬の扱いを買われて、元々は盧植と彼の仲間を繋ぐ連絡係に、という話であった。だが、今は車馬の運転も覚え、運転手として盧植の足も務めている。
馬超たちに留守を任せ、僕と盧植は太学へと向かった。
運転中、僕はこの先について起こり得ることを考えていた。僕が知る未来では近い将来、洛陽に董卓という魔王のような男が君臨することになる。それはほぼ確実に起こる未来だろう。
だが、残念なことに僕はその日にちまでは覚えていない。近い将来、董卓が現れるのは確実だが、それが何日、何ヶ月後か全くわからない。こんなことなら起こった日にちまでちゃんと覚えておくんだったと僕は後悔した。
できることなら董卓が現れる前に、この洛陽を去りたいと思っていた。
しかし、困ったことに劉備が音信不通になってしまった。劉備の帰還をもって早々に洛陽から離れるつもりだったのだが、これではいつ帰れるかわからない。董卓が明日にでも現れるんじゃないかと僕は気が気ではない。
このまま勝手に洛陽を離れようか。でも、それでは今、お世話になっている盧植を見捨てることになってしまう。それが劉備にバレれば、僕の軍団内での評価は低下するだろう。これから続くであろう長い付き合いを思えば、ここで評価を下げるのは避けたい。
それに僕は洛陽に長く滞在しすぎた。世話になった盧植、それに馬超とその奴隷の郃少年。彼らを見捨てて洛陽を離れるのは気が引ける。そのぐらいには深い付き合いになってしまった。
いっそ、盧植にこの先の未来を話して一緒に脱出しようか。だが、信じてもらえるかわからない。これまた、かえって評価を下げる結果になりそうな気がする。
僕は頭を悩ませた。
《続く》