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第八十一話 太学(一)

 まだ朝霧が漂う早朝、黄砂舞う中を二頭の馬が駆け抜けていく。前を進むのは月毛つきげ(クリーム色)の馬、そのすぐ後を追うのは鹿毛かげ(茶色)の馬。それぞれの主を乗せて草原を疾走していた。


「さすが、未来の五虎将軍ごこしょうぐん、末恐ろしい青年だ」


 僕は後ろから迫りくる青年の技量に恐怖さえ覚えた。


辰元りゅうせいさん、わけのわからぬことをゴチャゴチャ言っていると抜かしますよ」


 僕の後ろからグングンと距離を詰めてくるその青年の名は馬超ばちょう。後に歴史に大きく名を残すことになる彼も、今はまだ十四歳の青年だ。


 鹿毛かげの馬に跨った彼は、既に未来の英雄の片鱗を覗かせている。馬超ばちょうは大人顔負けの手綱さばきで馬を操り、ついに僕らを追い抜いた。


「よし、抜いた。このまま行くぞ!」


 馬超ばちょうは鞭を使い、馬をさらに加速させる。


「いくら相手が馬超ばちょうとはいえ、プロのジョッキーが十四の子供に負けるわけにはいかないな」


 僕はくらより垂れ下がるあぶみを踏み込み、尻を持ち上げて前傾姿勢の乗り方に切り替えた。


 これは未来の世界で競馬のジョッキーが主流とする馬の乗り方・『モンキー乗り』だ。騎手の体重を前方にかけることで、馬の負担を減らし、よりスピードを出すことが出来るとされる。


 僕の愛馬・彗星すいせいはグングンとスピードを上げていく。アジア馬なら最高時速三十〜四十キロ出せるという。だが、今の僕と彗星すいせいなら四十キロ、いや、五十キロは出ているだろう。まさに最速だ。


 僕らは馬超ばちょうを悠々と追い抜き、そのままゴールまで駆け抜けた。


 僕の名は劉星りゅうせいあざな辰元しんげん。元の名を辰元流星たつもと・りゅうせい。未来の世界から三国志の世界に転生した競馬のジョッキーだ。


 僕は大人気なくも未来の技術を総動員して馬超ばちょうに乗馬レースで勝利した。


 ゴールで待っていた馬超ばちょうの奴隷、こう少年は目を丸くして「速ぇ⋯⋯」と感嘆する。


 馬超ばちょうもゴールに辿り着き、本気で悔しそうな顔を浮かべている。


辰元りゅうせいさん、先ほどの浮いたような乗り方は何ですか?」


 馬超ばちょうが僕に尋ねる。『モンキー乗り』と言っても通じないだろう。僕は体重を前に預けることで、馬の速度を速める乗り方だと説明した。


 馬超ばちょうは感心しきりで、今度、その乗り方を教えてくださいと言う。


「教えても構わないんだけど、この乗り方をするには、このあぶみが、それも丈夫なくらに吊るしたあぶみが必要なんだよ」


 僕は彗星すいせいにぶら下げているあぶみを指差した。この時代、乗馬中に足を置くあぶみは、まだ普及していない。くらに直接跨り、ももで挟んで固定する。馬超ばちょうも例に漏れず、くらに跨っただけで馬を操っている。


あぶみですか。最初見た時は馬に乗れない人間の補助具かと思ったんですが、なかなかに便利なんですね。


 どこで手に入れたんですか?」


「これは馴染みの商人に特注で作ってもらったものだからなぁ。売り物とかではないんだよ。


 あの人とは今すぐ連絡取れないしなぁ」


 このあぶみ劉備りゅうび馴染みの商人・張世平ちょうせいへいによって仕立ててもらったものだ。もちろん、知識は僕が提供したものだ。


「うーむ、なるほど。故郷に帰ったら作らせてみようかな」


 そう言って馬超ばちょうは思案する。着実にあぶみを普及させている気がする。どうにも歴史を変えているんじゃないかと少し不安になるな。


あぶみに頼らなくても、君はまだ実力を完全には発揮できてないだろ。


 君の馬は連れてきてないのかい?」


 僕は馬超ばちょうに尋ねた。先ほど、馬超ばちょうが乗っていた鹿毛かげ(茶色)の馬は今、お世話になっている盧植ろしょくからの借り物だ。盧植ろしょくの馬も良い馬だが、車をくための馬だ。馬力はあるが、スピードはやはり競走馬に劣る。なにより、馴染みの愛馬と借り物では発揮できる実力も変わるものだ。


「ああ、私の馬ですか。


 ⋯⋯ちょっと理由あって今いないんですよね」


 馬超ばちょうはそう答えた。馬超ばちょうも今、盧植ろしょく邸で共にお世話になっているが、彼は馬を連れてきていない。馬超ばちょうと言えば物語では騎将と有名なのに、彼の愛馬が見れないのは残念だ。


 しかし、今の彼は孟己もうきという偽名を使って洛陽らくように潜入している身。色々理由もあるのだろうと、それ以上詮索しないでおいた。


 僕らは馬たちを連れて洛陽らくよう内にある盧植ろしょく邸へと帰った。馬も毎日うまやに繋がれていては気が滅入ってしまう。本日は僕の愛馬の彗星すいせい盧植ろしょくの馬を郊外で走らせてやるのが目的だった。


 僕らが帰ると、白髪混じりの背の高い男性が出迎えてくれた。この家の主・盧植ろしょく先生だ。


 盧植ろしょくは僕らを見つけるなり、血相を変えて駆け寄ってきた。その様子からただ事でないことは僕らにも察せられた。


劉星りゅうせい、気をしっかり持ってききなさい。


 先ほど、このような知らせがあった。


 丹陽たんよう(揚州ようしゅうの北部、現代の江蘇省こうそしょうの辺り)に赴いた大将軍かしんの派遣した募兵部隊だが、賊に遭遇し、大損害を被ったという話だ」


「え⋯⋯そんな⋯⋯」


 その報告を受けて、僕は愕然とした。


 以前、大将軍だいしょうぐん何進かしんは兵を新たに集めるため、各地に将校を派遣していた。そして、その丹陽郡たんようぐんには、僕の主である劉備りゅうび、そして、その義弟の関羽かんう張飛ちょうひの三人も参加していた。その部隊が、反乱軍の襲撃に遭ったというのだ。


「そ、それで、劉備りゅうびたちは無事なのですか?」


 僕は慌てて盧植ろしょくに尋ねた。だが、盧植ろしょくの表情は晴れなかった。


「わからぬ。ただ、損害を被ったとしか⋯⋯。


 劉備りゅうびらの生死については何も伝わってこない。


 こんなことになるとわかっておれば、彼らに勧めるのではなかった⋯⋯」


 何進かしんの募兵の話は盧植ろしょく劉備りゅうびに勧めた仕事だ。そのためか、盧植ろしょくも意気消沈している。


「こ、こんなことをしているばあいではない。早く劉備りゅうびたちに連絡を取らないと!」


 僕はすぐに行動を起こそうとするが、盧植ろしょくに止められた。


「まて、連絡を取ると言ってもどうするつもりだ」


「どうするって、そんなの電話やメールで⋯⋯あ!」


 そこで僕は自分の愚かな行動に気づいた。ここは約千八百年前の中国。電話や電子メールのような未来の連絡手段はまだ影も形もない。連絡を取りたければ、自力で丹陽たんようまで行くか、誰かに直接、手紙を届けてもらうしかない。どちらにせよ、いくらも日数がかかってしまう。とても、すぐに安否を確認することはできない。


「これだから、古代の世界は⋯⋯。


 ああ、文明の利器が懐かしい⋯⋯」


 苛立いらだつ僕を見て、盧植ろしょくが肩に手を置き、優しく語りかけてきた。


「どうも、相当混乱しているようだな。落ち着きなさい。


 確かに部隊は大損害を被ったとある。だが、全滅したとは報告されていない。


 劉備りゅうびは軽薄なところはあるが、いざという時には冷静な判断を下せる男だ。何より、張純ちょうじゅんの乱を生き抜いた男であろう。


 それに関羽かんう張飛ちょうひも一騎当千の武者。


 彼ら三人がおいそれと命を落とそうか。彼ら三人ならきっと無事だ」


 どうやら激しく動揺した僕を見て、盧植ろしょくは落ち着きを取り戻したらしい。彼の言葉に俺も落ち着きを取り戻していく。


 考えたら転生者の僕は未来を知っている。劉備りゅうび関羽かんう張飛ちょうひの三人がこれからどうなるのか、それは『三国志』を読んでいれば誰もが知る内容だ。この三人がこんな序盤で死ぬなんてありえない。僕は再び元気を取り戻した。


「すみません。取り乱しました。


 彼ら三人のことはよく知っています。こんなところで死ぬような連中じゃない。彼らの帰還を待ちましょう」


 僕は冷静さを取り戻し、安心して三人の帰還を待つことにした。


 そんな僕に盧植ろしょくは新たな仕事を依頼する。


劉星りゅうせい、私は太学たいがくに用事がある。すぐにで悪いが、そこまで車を出してくれないか」


「お安い御用です」


 僕はすぐに連れ出していた馬たちに車を接続した。僕は今、主である劉備りゅうびの元を離れ、彼の先生であった盧植ろしょくの元で働いている。馬の扱いを買われて、元々は盧植ろしょくと彼の仲間を繋ぐ連絡係に、という話であった。だが、今は車馬の運転も覚え、運転手として盧植ろしょくの足も務めている。


 馬超ばちょうたちに留守を任せ、僕と盧植ろしょく太学たいがくへと向かった。


 運転中、僕はこの先について起こり得ることを考えていた。僕が知る未来では近い将来、洛陽らくよう董卓とうたくという魔王のような男が君臨することになる。それはほぼ確実に起こる未来だろう。


 だが、残念なことに僕はその日にちまでは覚えていない。近い将来、董卓とうたくが現れるのは確実だが、それが何日、何ヶ月後か全くわからない。こんなことなら起こった日にちまでちゃんと覚えておくんだったと僕は後悔した。


 できることなら董卓とうたくが現れる前に、この洛陽らくようを去りたいと思っていた。


 しかし、困ったことに劉備りゅうびが音信不通になってしまった。劉備りゅうびの帰還をもって早々に洛陽らくようから離れるつもりだったのだが、これではいつ帰れるかわからない。董卓とうたくが明日にでも現れるんじゃないかと僕は気が気ではない。


 このまま勝手に洛陽らくようを離れようか。でも、それでは今、お世話になっている盧植ろしょくを見捨てることになってしまう。それが劉備りゅうびにバレれば、僕の軍団内での評価は低下するだろう。これから続くであろう長い付き合いを思えば、ここで評価を下げるのは避けたい。


 それに僕は洛陽らくように長く滞在しすぎた。世話になった盧植ろしょく、それに馬超ばちょうとその奴隷のこう少年。彼らを見捨てて洛陽らくようを離れるのは気が引ける。そのぐらいには深い付き合いになってしまった。


 いっそ、盧植ろしょくにこの先の未来を話して一緒に脱出しようか。だが、信じてもらえるかわからない。これまた、かえって評価を下げる結果になりそうな気がする。


 僕は頭を悩ませた。


《続く》

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