カーンカーンカーン……と、遠くで鐘のようなものを打ち鳴らす音がした。
ディングレイの包帯を巻いていたケーリィンは、手は止めずに耳だけを窓へ傾ける。
「今、鐘の音がしましたよね」
「ああ、ありゃ警報だな」
「けっ?」
さらりとディングレイが放った言葉は、予想外に不吉だった。それでもケーリィンの両手はしっかり動き続け、包帯を隙間なく巻き終える。
「何か、事件でしょうか? それとも……あっ! 火山が噴火?」
「腐るほど木はあるけど、山はねぇから落ち着け」
一人慌てる彼女にディングレイが呆れていると、ノックと同時に扉が開いた。
「ご歓談中にごめんね。今、ちょっといいかい?」
緊急事態であろうにも関わらず、そう言って顔をのぞかせたリズーリに焦りは見当たらない。
「さっきの警報、聞こえたよね? 森にマルコキアスが、徒党を組んで現れちゃったみたい」
火を吹き、そして人肉を好む厄介な魔獣――マルコキアスの名は、ケーリィンだって知っていた。
だからこそ、彼女もディングレイも同時に首を傾げる。代表してディングレイが尋ねた。
「この辺りは連中の生息域じゃねぇだろ。どこぞの悪趣味野郎が、密輸でもしやがったのか?」
そう。マルコキアスが生息しているのは、中央府近辺の山岳地帯なのだ。
二人と同じ疑問符を、リズーリも抱いていたらしい。麗しい表情が曇る。
「だよねぇ……あ、ディングレイ君が弱ってるのを、嗅ぎつけたとか?」
「火吹き狼に、そんな知恵あるかよ」
「それもそうか。じゃあ僕は、外の様子を見て来るから。二人はここで大人しくしていてね」
陽気に笑い、リズーリは引っ込んだ。
次いで扉が再び閉じられる、その直前に
「いやだああああ! リズーリ様ぁ! お願いだから、囮にしないでぇぇぇぇーっ!」
レーニオの絶叫が響き渡った。
それに対する、リズーリの反応は聞こえない。代わりに階段を何か、いや誰かが転がり落ちるような騒音が続いた。
思わず息を飲み、ケーリィンたちは顔を見合わせる。
「リズーリ様の言ってた囮役って……本気、だったんですか?」
「いやいや、あんなのでも街を守る神様だぞ? さすがにそんな……」
なんと。口の減らないディングレイが、青ざめて口ごもった。
二人は引きつった顔でしばし見つめあった後、
「俺も行ってくる」
ディングレイが先に動いた。躊躇なく、ベッドの上掛けを剥いで床に降りる。
壁に吊るしてあった剣を掴むと、机の引き出しからカードを数枚取り出した。
ためらい皆無の彼に、今度はケーリィンが青ざめた。
「レイさん! だ、駄目ですよ! 傷もふさがってないのに!」
両腕を広げ、外へ出ようとする彼の進行を塞いだ。
一番の不安材料は全身の縫合跡と、それに伴う痛みだ。
加えてヒヒイロカネも不安定ならば、魔術だってまともに使えないはずである。
それなのに彼は、平然と不敵な笑みを浮かべている。
「火吹き狼が何頭も来てやがんだろ? レーニオを囮に使っても、リズーリ一人じゃ骨が折れる」
骨折並みの重傷者が人の骨を心配するな、と言わんばかりにケーリィンはディングレイをねめつけた。もちろんドアの前からも退かない。
「レイさんだって、身体大変じゃないっ。リズーリ様も言ってたように、今は休んでください!」
険しい顔を作りながらも涙腺が早くも決壊寸前のケーリィンの頬を、ディングレイが一つ撫でた。彼は笑って、彼女に問いかける。
「なあ、リィン。舞姫の一番の仕事は何だと思う?」
「え……住民の皆さんを幸せに、すること、です……」
「うん、そうだな。で、俺たち護剣士の仕事は、そんな舞姫を守ることだよな」
「……はい……」
「だから俺は、あんたの務めを邪魔する害獣どもを排除したい。それぐらい、あんたの唯一の護剣士として、遂行させてくれねぇか?」
ずるい、とケーリィンは雫がこぼれ落ちる寸前の目で訴える。
こんなことを言わされ、そして懇願されれば、もう止める手立てがない。
広げた両腕をだらりと下げてしまった彼女へ、ディングレイは引き出しから取り出したカードを握らせた。ケーリィンはすん、と鼻を鳴らして手の中のカードを見る。
大きさは、タロットカードと大差ない。
だが絵柄の代わりに、魔術の術式が印字されていた。
あらかじめ記入された術式によって魔力を込めるだけですぐさま高等魔術も扱える、術札と呼ばれる道具だった。
「レイさん、これ――」
「俺が使えるのは氷結魔術だけだから、常備してんだ。今は俺も魔術がロクに使えねぇし、これで援護してもらえるか?」
「はい!」
涙を散らし、ケーリィンは力強く頷いた。
彼女のために、ディングレイがマルコキアスと戦うと言うのならば。
ケーリィンが彼を守るだけだ。