かつて何人目かの異世界転生者の方が、民や一部の貴族を先導して奴隷解放に乗り出したのです。
これは二百年以上前のことです。
確かに奴隷制は人権的な部分や倫理的な面での問題はあります。
現在では奴隷制は
ただ、現実的な問題としてかつてこの国が今ほど裕福ではなかった頃は人が食べていく為の
故に当時の奴隷解放運動は、奴隷の方々の中で奴隷ですらなくなったらどういう風に処分されるのか野垂れ死にするしかないのではないかという恐怖が
奴隷の方々は
その結果、混乱の末に多くの命が失われました。
異世界転生者は良くも悪くも、影響力が強すぎるのです。
そういった混乱を避ける為に、一つの法が制定されました。
進んだ知識を持つ異世界転生者をすみやかに保護し、国家で影響力を調整する為の法です。
これは異世界転生者を対象としたものではなく、異世界転生者と関わる人間を対象としたものなのです。
異世界転生者の知識や主張を、
技術革新による経済の混乱や兵器開発を誘発し、利益を独占するようなことを防ぎ。それを過激に防ごうと異世界転生者の方を拉致したり命を狙うなどのトラブルから守る為のものでもあります。
まあただ。
この法は制定以来百二十年、一度も適用されていません。
誰も存在すら覚えていないような法ですが、
何故こんなマイナーな歴史の授業でほんの少しだけ触れて試験にも出ないようなものを、普通の学業成績を収める私が知っているのかと言えば。
この法律を作ったのが、当時のローグ侯爵。つまり私のお爺様のお爺様なのです。
百二十年前のローグ侯爵は、一人の異世界転生者に出会って行動を共にした際の記録を残している。
その時点で
端的に言って、当時のローグ侯爵はとにかく異世界転生者に振り回されて大変な思いをしたと言います。
命の危険に晒されるような場面にも巻き込まれ、正直ちょっとした冒険小説よりハラハラする内容でした。
その経験から当時のローグ侯爵は晩年、異世界転生者保護法案をねじ込んで立法まで漕ぎ着けたのでした。
まあまだ彼女が異世界転生者である確証はないので――。
「ディーン、調べて欲しいことがあるの」
「かしこまりました。お嬢様、なんなりとお申し付けください」
私は執事のディーンに、彼女について調べてもらうことにいたしました。
ディーンは線が細く、身長も私より小指の爪ひとつ分ほど低いのだけれども。
私が彼に恋をしているという点を除いても、公平な視点で優秀です。
いや、優秀だからこそ恋をしたのかもしれない。幼き頃から私はディーンに助けられ続けています。
身分の差が故に、現状では結ばれることはなく実ることのない恋心ですが。
まあそれは今は置いておいて。
そんな優秀なディーンからの報告を聞く。
彼女の名前は、エリィ・パール。
北西部の生まれで、実家は靴職人で
両親ともに平民で、特別な教育を受けたわけでもないのに学校での成績は常にトップ。
さらに実家の靴屋ではスニーカーと呼ばれる運動靴や、つま先に金属板を仕込んだ作業靴などの機能的で革新的な靴を製造販売しているらしい。
無論、これは彼女が子供の頃に考案したものとのこと。
地元では神童と言われ、誰も聞いたことない楽曲を口ずさんでいたという。
実家の靴屋は現在スニーカーや作業靴に目をつけた貴族家により、生産数と販路の拡大をしている。
成績も申し分なく貴族の後押しもあり、彼女は特別修学制度にて学園へと入学を果たした。
学園での彼女には友人……いや、やや恋仲に発展しそうな男子生徒が三名ほどいるらしい。
無論、三人とも
とてもおモテになる……彼女が手玉に取っている……?
いや、違う。
彼女の実家に出資をした貴族は十中八九、技術発展推進派の貴族だろう。
そして、彼女を取り巻く貴族家も同じくその派閥。
とりあえず、私はもう彼女が異世界転生者であるということを前提に動くことにいたします。
違ったのなら後で謝ります。
異世界転生者と間違えた場合の罰則規定はないですし。
そして、これは非常に
彼女の能力や知識や才覚を貴族家が狙っていると思われる。
異世界転生者と知ってのことなのか……、異世界転生保護法まで知っていた場合、知らないことにして囲い込めば言い逃れが出来る可能性がある。
判例が無さすぎて改訂されないので正直、穴があるというか裁定が難しいものなのです。
彼女へ危害を加えず新しい靴の開発を手伝って貰う程度ならば異世界転生者保護法に反すること以外、正直何も問題はない。
でも、政治的な思惑を考えるとそれだけで終わるとは思えないのです。
この国は現在、ここ数十年の政策が講じて食料自給と貿易によって国民の食糧事情がほぼ解決し、飢えがなくなりました。
それにより人口の増加が見込まれるので、増えた民が疫病や災害で減らさぬように医療面や福祉関連に力を入れることになりました。
ローズ嬢のローゼンバーグ公爵家が主導で、第二王子との婚約もこの政策を
ですがこの流れに、一部貴族、特に技術発展推進派の貴族が納得しておらず。
次の時代を技術革新による産業革命としたい貴族はそれなりに存在します。
先日もローズ嬢がそういった流れでトラブルに巻き込まれたと噂で聞きました。
そういった技術革新で次の時代を狙う貴族にとって異世界転生者の方は強すぎる札になる。
現状の流れを打破するほどに、圧倒的な技術革新が生まれる可能性があるのです。
まあ、公平のローグ侯爵家である私としては、皆に認められ協議された政策であれば特に言うことはありません。
しかし一部貴族が利権のために異世界転生者を利用し、裏から
裏ではなく明るみに出して、国家としてトラブルから異世界転生者を守りながら、協議の中でその知識の有用性を探るために。
異世界転生者保護法が存在しているのですから。
「…………さて、じゃあ私はどうする……?」
私は自問を
大前提として、ローグ侯爵家の人間である私は異世界転生者保護法に
ただ私はたまたまエリィ・パール女史が異世界転生者だと気づき、たまたま異世界転生保護法を知っていただけのティーンエイジャーでしかない。
捜査機関に通報を行う……?
ですがほぼ間違いないという状況なだけで、エリィ女史が異世界転生者というのは推定でしかありません。
立証責任はありませんが、この案件には貴族家が絡む。
捜査機関を動かすにはある程度の確証がなければ、踏み込んだ捜査許可が下りるまで時間がかかることが考えられます。
どうにかもう少し確証を……、彼女に直接問う? しかしどうにも私は交渉や対話が得意ではないようですし……、何故か感じが悪く伝わってしまいます。そもそも私に捜査権はないのです。
取り巻く貴族子息たちに圧力をかける? いえ、そういった腹芸は出来ない……、根本的に私は普通の侯爵令嬢なのです。箱入りで世間知らず、こういったトラブルは得意ではないし小心者なのです。
私にあるのはせいぜい法に関する知識と、優秀過ぎる執事が一人……いや?
もう一つだけありました。