僕、つまりクロガネ・ノワールはジュリエッタ・ディアマンテ伯爵令嬢に仕える、いわゆる執事だ。
いや…………、執事……まあ執事でいいか。
訂正するのであれば、ディアマンテ伯爵はもう伯爵位を
ある日突然、
ディアマンテ家の屋敷に国軍が押し寄せて、旦那様と奥様を捕らえた。
この時は何が理由でこんなことになったのか全くわからなかったけど。
どうにも旦那様は国政に疑問を持ちその在り方を正すために政治的主導権を握るローゼンバーグ公爵家を
実際はそれには無関係だったようだけど、別件というか旦那様は革命思想を持って活動していたようなのでそっちが本命なのだろう。
学のない僕には旦那様の思想や行動の正誤もわからなければ善悪もわからないけど。
とにかく僕は国軍からディアマンテ家を守るために暴れに暴れた。
ボッコボコに殴られながらも、なんとか一度旦那様を取り返した際に。
「私たちのことは良い……っ、ジュリエッタを、ジュリエッタを連れて逃げろっ! 頼む……」
旦那様は僕にそう命じた。
僕は旦那様の言葉の通りに、ジュリエッタお嬢様を連れて逃げ出した。
その直後に、屋敷から火の手が上がった。
旦那様と奥様がお嬢様を逃がすために国軍と相討ちを狙ったのか国軍が旦那様たちを追い詰めるために火を放ったのか、わからないし正直どうでもいい。
燃え盛る屋敷よりも、取り乱して泣き叫んで暴れるお嬢様を押さえるのに必死だったことの方が記憶に残っている。
それが半年前。
僕はその間、国軍や捜査機関からの追っ手からお嬢様を連れて逃げ続けている。
屋敷を出る前に旦那様から王都内に何ヶ所かあるセーフハウスの場所を知らされていたのでそれらを回り何日か
最初のひと月で全てのセーフハウスを潰されてしまい、僕らは王都の裏町に身を隠した。
裏を仕切るゴロツキに金を握らせ、宝石を換金したりして、身を隠せる家を見つけて。
それでもこの国の捜査機関はとても優秀で、何度も追い詰められてきた。
それを僕は、とにかくぶん投げて乗り切った。
お嬢様の安眠を妨げる真夜中の突入をしてきた捜査機関。
街中で追っかけ回して来た国軍の兵士。
宝石の換金で足元見てきたゴロツキ。
僕らを売った宿屋の親父。
例外なく、ぶん投げて腕を
確認をしていないからわからないけど、多分僕は何人か人を死に
もちろん僕もやり返されたし、何度か死にかけた。
自分で傷口を
辛いよ。
いやもう、痛いし、怖い。
もう随分まともに寝てないし、投げて叩きつけたり関節
僕は確かにそれなりの使い手だし、多分まあまあ強い方なんだと思うけど別に好戦的なわけでもない。
そして何より――。
「それでねノワール。お父様ったら紅茶を零してしまって、服にシミが出来ることより書類を汚してしまうことに慌ててたのよ。本当にお父様ったら仕事が一番ですのよ。それでね――」
お嬢様はボロボロの宿の
これが一番、辛いんだ。
半年前、屋敷が燃え上がりご両親と生活と地位と思い出を、人生が焼かれていくのを目の当たりにしたことにより。
壊れてしまった。
お嬢様の心は、砕けてしまった。
今日はまだ良い方だ。
お嬢様は今、全てが無かったことのように半年以上前に戻ってしまっている。このエピソードはたしか去年の暮れくらいの事だったと思う。
他にもぷつりと糸の切れた人形のように力なく動けなくなってしまう時もあれば、力いっぱい無茶苦茶に泣き叫んで暴れてしまうこともある。
いずれにしても、お嬢様の時間は半年前のあの日から止まってしまっているのだ。
お嬢様は正常に現状を認識出来ていない。
どうしてお嬢様がこんな目に合わなくてはならないんだ。
勤勉で学業成績も優秀。
優しくて品行方正。
将来は様々な人の助けになるようなものを開発して広めていきたいと専門的な機械工学や力学などの、学のない僕には全然わからないような勉強をしていた。
立派な志を持って、僕のような平民にも分け
そんなお嬢様がどうしてこんなに壊されなくてはならないんだ。
旦那様が行っていた活動の善悪は僕にはわからない、でも悪だったとしてお嬢様がこうなってしまう理由にはならないだろう。
因果応報だと言うのか?
これが罰だと言うのか?
善悪だとか正誤だとか、そんなくだらねえしょうもねえもんがお嬢様にどんな関係があるんだ。
お嬢様が不幸になる世界の方が間違っている。
怒りはない、僕はただ、悲しくて辛いんだ。
「あ、ノワール。私にも紅茶を
「かしこまりました。ジュリエッタ様」
僕はお嬢様の要求通りに紅茶を
どれだけ悲しかろうとも僕はお嬢様を救う方法を持つ医者でもないし、お嬢様の状況を打破出来る力も持ってはいない。
僕に出来ることは執事として従うこと、仕えることだけだ。
旦那様にお嬢様を連れて逃げろと言われたら逃げ続け、お嬢様に紅茶を
ただ逃げ切るのであれば王都を出て……、いや国外に逃亡してしまうのが良いのかもしれない。
でもこの状態のお嬢様を連れて長旅は出来ない。
王都の裏町にはモグリだが誰でも診てくれる医者もいるし、人口も多いので人の目も多いがその分人に紛れることも出来る。
それに旅になってしまうと紅茶の葉も仕入れられないだろう。
なんてことを考えながら少量の湯で茶葉を開かせる。
自覚しているよ。
僕も
こんな日々は続かない。
旦那様の残した金銭も日に日に減る。
頼れる人物も居ない。
僕自身の消耗も酷い。
僕らに先はない。
半年前のあの日、もう僕らは終わっているんだ。
僕らの人生は、あの屋敷と一緒に燃え尽きた。
今の僕らは灰が風に舞っているだけ。
地面に落ちて砕けて無くなるまでの滞空時間でしかない。
でも僕は執事だから。
一秒でも長く、旦那様の言う通りにお嬢様と逃げ続けなくてはならないんだ。
「お待たせいたしました。ジュリエッタ様、紅茶が入りま……あらら」
紅茶をお持ちしたが、お嬢様は糸が切れたようにぐったりと動かなくなっていた。
椅子から落ちそうだったので、僕はお嬢様を抱きかかえてベッドに寝かせる。
仕方がないので紅茶は僕が飲むことにする。
食事はどうしようか。
いつ食事をとられても良いように作り置きをしておこう。
今、お嬢様は動かない周期に入っているのでこの間に身体を拭いてさしあげなければ。
その後は次の潜伏先の検討をつけて。
またゴロツキに
まあ何が来ても僕がどうにかするしかない。
僕に救いはない。
絶望すら出来ないほどに壊れた僕に希望もないのだから。