「……そう。では、お互いにここは引いて忘れてしまうのが良いわね」
ジュリエッタ様とやらは、俺を見定めるようにじろりと見つめながら素晴らしい提案をしてくる。
良かったぁ……、もうこれ以上こいつらと会話しなくて済む……。
さっさと戻って不正は無かった旨だけ伝えて、マリアンヌ様には引いてもらおう。
「そのようだ。それでは失礼……」
と、言いながら眼鏡をかけようと胸ポケットに手を入れた瞬間。
「――っ⁉」
突然、ノワールとやらが反応してジュリエッタ様とやらを
「すみません……奴は本物です。今のは完全に先の先を掴まれた……、僕のこれ以上ない入身のタイミングを呼吸の段階で反応した……。これに反応されてしまうなら、この場で伏せるのは不可能です。引きましょう」
なんかまた勘違いをしている……?
たまたま眼鏡を取ろうとしたタイミングが、めちゃくちゃ刺さったみたいだ。
マリアンヌ様に頂いた眼鏡に助けられた……、俺は一生この眼鏡を大切にする。いや死んでも墓に入れてもらおう。
「そうね。では、この選択が最善であらんことを……」
そう言って、ジュリエッタ様とやらはノワールとやらに
すれ違った去り際。
「互いにね」
その夜、マリアンヌ様の部屋。
「ふーん、なるほどね。ジュリア・モーフィング子爵令嬢の中間試験における不正はなかったと」
自分で足の爪の手入れをしながら、マリアンヌ様は俺の報告を聞いて返す。
「逆に他の教科を意図的に手を抜いていたって……、凄まじい秀才ね。まあ確かに、そんな簡単に自力で基礎科学満点を出せるなら他の教科も余裕でしょうしねえ」
マリアンヌ様はあっけらかんと、何の疑いもなく報告を飲み込んでしみじみと洩らす。
「まあ、ダンが口を
続けてさらりとジュリア・モーフィングの一件からの撤退を告げる。
「これ以上探るのもなしね。下手に私たちのような何者でもない者が何の確証もなく捜査機関などに通報しても馬鹿にされて終わるだけでしょうし、もし動いて貰えたとしてもそんな輩がなんの準備もしていないわけがないし、のらりくらり
さらにこれ以上なく
マリアンヌ様はちょっと熱が入りやすいお方ではあるが馬鹿ではない。
そもそも賢く、品行方正なのだ。これで一旦悪役令嬢熱を覚まして何か他の安全なものに傾倒してくれれば――。
「
そんな不穏なことを言って、マリアンヌ様は中間試験の順位表の写しを広げる。
「十一位が三人。同じ点数になる偶然はさほど珍しくもない、でも……全教科同じという偶然はどうなのかしらね」
悪い笑みを浮かべて、十一位の三名を指でさしてそう言う。
なるほど……、どうやら悪役令嬢熱はまだまだ冷めないようだ。
「かしこまりました。では私はその三名について調査をいたしましょう」
俺もまた、にやりと不敵に微笑みながらそう返した。
マリアンヌ様のご就寝後。
不正が疑われる点をまとめた資料に目を通す。
いやはや……確かにこれは……、クラスも違うし貴族的な繋がりも薄いのにも関わらず点数が仲良く同じ……こうなると共通点がない方が怪しいと……。
まあとりあえず名前とクラスは覚えたから、またしばらく尾行だなぁ……。
今度はおっかない輩じゃなきゃいいけど……、あんなマジもんの悪役令嬢そうそういやしねえか。
悪役令嬢、ねえ。
俺は何の気なしに、買ってはいたものの読んではいなかったマリアンヌ様が悪役令嬢に熱を上げた恋愛小説を開いた。
悪役令嬢の何が、マリアンヌ様の
「……………………なるほど」
読み終えて本を閉じながら、俺は呟く。
内容としてはヒロインが悪役令嬢に虐げられていたところに現れたイケメンの貴族の子息とのロマンス的な話だった。
ただ、メインヒロインよりも悪役令嬢の心情とか信念とかの描写に寄っていて憎めないキャラクターというか、なんというか作者の加護が見受けられるものだった。
あとがきも、当たり障りのないことを書いているようで「なんか他と違う感じのもの書いちゃってごめんなさいね~」的な雰囲気を感じるというか。
別に凝った展開や伏線回収もないし、心理描写が美しいとかでもない、ただの悪役
まあ正直面白い面白くない以前に、俺の好きな作風ではなかったのだが。
一つ気になるところがあった。
ヒロインを追放することが叶わず、追い詰められた悪役令嬢は執事と二人で駆け落ち同然の逃避行をするという展開だ。
つーか序盤、悪役令嬢はヒロインの元に現れたイケメン貴族に惚れてた風な感じだったはずなのに……あれは伏線ぶん投げたのか? まさかの執事エンドを隠すためのミスリードだったってことなのか……?
まあそれは良いとして。
…………うーん。
いや……俺がいうのもあれだが。
マリアンヌ様はどうにも俺に好意を向けている節がある。
執事が主に対してそんなことを思うのは、自意識過剰の勘違い野郎以前に、不敬だ。薄ら寒い、気持ちの悪い妄想癖の糞野郎だと思う。
でも、俺はマリアンヌ様がある程度何を考えているかわかる程度にはマリアンヌ様の執事なのだ。
マリアンヌ様の為に生きるように俺は出来ている。
旦那様に拾われ、旦那様に育てられ、奥様とご結婚されマリアンヌ様が生まれた時に誓った。
俺の人生は、マリアンヌ様の為にある。
そう言い切れる。
これはごっこ遊びじゃあない。
これはただの忠義だ。
俺は確かにマリアンヌ様が好きだ、愛情もある。
マリアンヌ様の為に死ねる程度には。
しかして、俺は絶対に彼女と結ばれることはない。
小説のように、フィクションのように、俺のような平民の男が貴族令嬢と恋仲になるなんてことは文化として有り得ないのだ。
まあ平民の娘が貴族の男に好まれて妾になったりって話はあるが、それでも正妻となった話はほとんどない。男じゃまず有り得ない。
だから。
貴族の屋敷の豚小屋以下の地下室で母親の死体の隣に吊るされて。
母親の血肉を食らって生き延びて。
身体中が傷だらけで髪も真っ白になったっきりで。
この世界の底にへばりついていたところを旦那様に拾われた俺に。
彼女の伴侶となる権利はない。
それでいい。
マリアンヌ様はいつか立派な淑女となり、幸せな婚姻を果たして家庭を持つだろう。
でも相手は俺じゃあない。
俺はせいぜいマリアンヌ様が飽きるまで、ごっこ遊びを付き合うだけなんだ。
この後、俺が例の恋愛小説を読んだことがマリアンヌ様にバレて赤面からのちょっと気まずい時間があったり。
例の不正疑惑のある三人の生徒を追い詰めて、これ以上なく悪態をついたり。
その報復で俺が
俺を助けようとしたマリアンヌ様が捕まったり。
それを助けようとして無茶をしたり。
結局、旦那様が助けに来て悪党たちを蹴散らしたり。
めちゃくちゃ奥様から怒られたり。
まあ色々、本当に色々とあるんだけど、そんなこと今の俺が知る由もないわけで。
ただ、俺は全力でマリアンヌ様の要望に応えつつ。
悪役令嬢にはさせないように、トラブルに巻き込まれながら悪者執事を演じ続けるのだった。