病院の玄関に着いた。そこには張り紙があり、発熱がある人の場合、別の入り口から入るように書いてある。私は矢印に従い、指示された入り口に向かった。表の玄関とは明らかに異なった感じだったが、なるべく手を触れずにするようにということだろうか、ここも自動ドアだった。
確かに今、感染予防ということで手洗いが励行されているので、病院の入り口が手動であれば多くの人の手が触れることになり、感染拡大の一因になる可能性がある。まだ自分が感染者かどうかは分からない段階だが、こういった様子を見るといろいろと考えさせられる。
この中に入ったら外に出られないのではないかとか、隔離病棟に入れられるのでは、といった負のイメージが頭の中を駆け巡った。
その一方で、まだ感染が確定しているわけではないのでそんなことがあるはずがない、と自分に言い聞かせている。
冷静な状態であれば診断がされていない段階ではそんなことは有り得ないことが分かるが、感染していたらと考えると、どうしてもネガティブな思いが出てしまう。これまではあまり意識していなかったが、いざ自分が当事者になるかもしれないという時には、いかに弱さが出てくるのか、ということを身に染みて感じている自分がそこにいたのだ。
そうなると、受付までの道のりも足取りが重くなり、鉛が入ったバッグを背負ったような気になる。もちろん、この時は手ぶらで来ているので実際には具体的な負荷がかかっているわけではないのだが、心理的なことで人の身体の感覚はこんなに違ってくるのか、ということを体験した。そして、ずっとこんなことが続くと、本当に心身が病んでしまうのではという不安も出てきた。本当に感染していれば、もっといろいろな体調不良が出てくるだろうし、場合によっては命を失うこともあるかもしれない。その後のことを考えると、診察を受けることすらも怖くなる。検査結果次第では、それが死刑宣告のような感じになるのではという気持ちが心の中を支配していたのだ。
病院の中の壁に貼ってある待合室までの通路を歩いている時に考えたことだが、もし感染したらみんなに何を残せるのか、ということを再び考えるようになった。病院という建物の中なので、そんなに遠い距離ということはなく、時間的にも客観的に見れば短いはずだ。
私も言葉として相対的・絶対的ということは知っている。今感じている時間の感覚は絶対的な視点から見れば短時間になるが、私のここで感じている時間はとてつもなく長い。時間についてそういった感覚で捉えたことはこれまでなかったが、コロナ禍にあって初めて体験した。
待合室に着いた。指定された時間があったので病院に着いた時と玄関に立った時に時間を確認したが、この時点でも時計を確認した。自分の感覚では結構な時間が経過したように思ったものだが、時計は3分しか進んでいなかった。ここに着くまで感じていた時間と実際の時間との差を改めて実感したことになるが、見渡すと思った以上の人がいた。
「この人たちも俺と同じ気持ちなんだろうな」
心の中でつぶやいた。自分が座れる場所を探すために待合室を見渡したが、同時にみんなの表情も見える。当然だが、誰一人として明るい表情の人はおらず、全員うなだれている様子が見られた。私も他の人から見れば同じ表情をしてるのだろうと思いながら受付を済ませ、空いている椅子に腰かけた。
受付のエリアには飛沫防止用のビニールのようなものがあり、下の隙間から問診表のようなものを渡され、私は保険証を提示した。これまでほとんど医者にお世話になったことは無いが、マスク姿が多いのは病院なので違和感はない。だが、受付の様子はあまり病院にお世話になったことが無い私にも不思議な光景に見えた。