放課後の静まり返った校舎。夏の蒸し暑さが肌にまとわりつき、どこからともなく聞こえる蝉の声が空気の重さを際立たせる中、俺は屋上への階段を上っていた。ここ数日間で起こった二つの事件について、一人でじっくり考えようと思ったのだ。
(高嶺は、どうしてあんな大金を持っているんだ?)
彼女が不良たちに報酬を渡したという証言はあるが、その金の出どころは不明のままだ。まさか、誰かが彼女を利用して資金を流しているのか……?
そんなことを考えながら屋上へと続く扉を開けると、目の前に見覚えのある背中を見つけた。──小日向紫音だ。きっちりとまとめられた長い黒髪が、風に揺れている。学級委員らしい真面目さを感じさせるその髪型は、彼女の几帳面な性格をよく表していた。
「小日向さん……?」
呼びかけると、紫音は驚いたように振り向き、すぐに柔らかな微笑みを浮かべた。
「由井君……? どうされたんですか? こんなところで」
「少し、考え事をしたくて……。小日向さんこそ、どうしたの?」
「私も同じです。このところ、いろいろと考えることが多くて……特に、昔のことを思い出してしまうんです」
紫音は一瞬だけ遠くを見つめるような目をした。
「実は、私──幼い頃に母を亡くしたんです。それ以来、時々“もしあの時、別の選択をしていたら”って考えるんですよ。過去を変えられたら……って」
その言葉に、俺は驚きながらも頷いた。
(過去を変えたいと思っているのは、俺だけじゃないんだな……)
紫音の言葉には重みがあった。自分だけが過去に縛られていると思っていたけれど、彼女もまた、何かを抱えている。そんな思いが胸に広がった。
「……そうなんだ。辛い思いをしたんだな」
屋上のフェンスにもたれながら、二人の間に静かな沈黙が流れた。風が蝉の声を遠くへと運び、夏の夕暮れがゆっくりと迫ってくる。
「あのさ、小日向さん」
俺が沈黙を破ると、紫音はゆっくりと頷いた。
「はい? なんでしょうか?」
「高嶺さんのことだけど……彼女、単独で動いていると思う?」
その問いかけに、紫音はわずかに眉をひそめ、視線を落とした。
「……正直に申し上げますと、私にはそうは思えません」
「やっぱり、誰かが裏で操っているのかな?」
「その可能性が高いかと存じます。彼女一人でこれほど複雑なことを仕組めるとは思えませんし……それに、他にも気になることがあるので」
「気になること?」
俺が身を乗り出すと、紫音は少し言い淀んだ後、慎重に言葉を選んだ。
「桜庭さんのいじめの件ですよ。あの件も、やはり単なる偶然や生徒間のトラブルだけではない気がして」
「凪沙のことか……俺もあのいじめには裏があるような気がして仕方ないよ。あいつらが凪沙に絡んでいた理由も、なんかふわふわしていて一貫性がないというか……ただ因縁をつけているだけのように見えたし」
「ええ。桜庭さんは、大人しいタイプだからいじめの標的になりやすいのかもしれません。ですが……彼女たちと全く接点がなかったはずの彼女がある日突然狙われるのは誰かが意図的に仕向けているように思えて……」
紫音の言葉に、俺は眉をひそめた。確かに、凪沙がそこまで恨みを買うような理由は見当たらない。
「でも、彼女たちが誰かから指示を受けて行動していると考えれば──辻褄が合うような気がします」
「まさか、その件に関しても高嶺鈴が絡んでいるとか……?」
「……ええ、おそらく。ただ、前述の通り単独で行動しているわけではないと思うんですよね」
「つまり……凪沙のいじめの件も、一見すると高嶺鈴がいじめグループに指示を出ししているように見えるけど──その背後に誰かいるかもしれないってことか」
「はい。その可能性は高いかと……それに、先日、高嶺さんが誰かとこそこそ話しているところを見かけたのです」
「え? 誰と……?」
紫音は一瞬ためらった後、小さな声で答えた。
「……相手の顔は見えませんでした。ただ、制服からしてこの学校の生徒のようでした」
その言葉に、俺の胸に疑念が芽生える。誰が高嶺に指示を出しているのか、手がかりはまだ掴めない。
(高嶺は、孝輝の事故やレストランの悪評が流された事件に関わっている可能性が高い。ただ、証言だけじゃ警察は動かないんだよな……)
迷惑客や不良グループの証言で彼女の名前は出たものの、決定的な証拠はなかった。そのため、警察も「証言だけでは動けない」と言い、結局、高嶺は難を逃れることができたのだ。
(証拠さえ掴めればな……)
紫音は少し間を置いてから、ふと思い出したように口を開いた。
「そういえば……以前、二条君のお父様が警察の幹部とお知り合いだという噂を耳にしたことがあります。……もし本当なら、彼のお父様に頼んで高嶺さんの件で何か動いてもらえないでしょうか?」
「え? 二条の家って、そんなにすごかったの?」
俺は驚きながらも、興味を隠せずに尋ねた。紫音は軽く頷きつつも、慎重な口調で続けた。
「あくまで噂なので、本当かどうかわかりませんけれども……。ただ、二条君の家はそれなりに由緒ある家柄みたいですよ。お父様も、地元でそれなりに顔が利く方みたいですし。それなら、警察の幹部と知り合いというのも納得がいきますよね」
「確かに……。その話が本当なら、もしもの時は二条に協力してもらおう」
「ええ、そうですね」
俺と紫音は、強く頷き合った。
「小日向さんって、本当に学級委員として色々なことに気を配っているよな。俺はただの傍観者だったけど……見習わないといけないって思う時があるよ。その……この間は本当にごめん。ただ忘れ物を取りに来ただけだったのに、変に勘ぐっちゃって」
紫音は少し驚いたように俺を見たが、すぐに微笑んだ。
「ああ、いえ……あの時は、私も誤解を招くような真似をしてしまったので、お互い様ですよ。気になさらないでください。……とにかく、私も高嶺さんの件については早く解決したいと強く思っておりますので、お互い頑張りましょう」
「うん。そうだね」
紫音の言葉に、俺は深く頷く。すると──彼女は不意に視線を遠くに向けたかと思えば、意味深な口調で付け加えた。
「……あなたが、今とは違う場所や時間で……どうしても助けが必要になった時は……その時は、必ず私が力になりますから」
「え……? それって……」
ちょうどその時、強い風が吹き抜け、屋上の金網フェンスがガタガタと音を立てた。俺の声は風に紛れ、紫音の表情が一瞬だけ曇る。
「……気になさらないでください。でも、覚えておいてくださいね」
紫音は静かに微笑んだが、その目はどこか遠くを見つめていた。彼女の表情の奥に、何か隠された意図があるような気がしたが──それ以上は聞けなかった。