翌日。俺たちは、学校の旧校舎に集まっていた。かつて使われていたこの建物は、今ではほとんど人が寄りつかない。古びた木の扉を押し開けると、埃っぽい匂いが鼻をかすめた。
廊下を踏みしめるたびに、微かな軋みが響く。昼間とはいえ、人気のないこの場所には独特の空気が漂っていた。割れた窓ガラスから差し込む光が、床に淡い影を落としている。
「ここなら、誰かに聞かれる心配はないな」
俺の言葉に、世羅は静かに頷いた。一方で、由梨は旧校舎の張りつめた空気に肩を強ばらせながら、どこか覚悟を決めたように小さく息を吐く。そして、そっとスマホを取り出した。
「……実は、追加でお二人に確認してもらいたいものがあるんです。これも、証拠になるかなと思いまして……」
そう言って、由梨が画面を操作する。しばらくすると、俺たちが昨夜確認したものとは別のデータが表示された。
そこに記録されていたのは、過去に美優がいじめを扇動していた決定的な証拠だった。
「……これ、日付が結構前だな」
俺は画面に目を凝らしながら呟いた。そこには、過去のグループトークのログが残されていた。美優が主導して特定の生徒を標的にし、仲間内で指示を出していたやり取りが記録されている。
『あいつ、最近私に対して反抗的なんだよね。軽くやっといて』
『了解。みんなで適当にハブればいいんでしょ?』
『うん。いつも通りよろしく』
淡々としたやり取り。そこには、罪の意識の欠片も感じられない。
「やっぱり……これが、新田さんのやり方なんだね」
世羅の声がわずかに震えていた。この記録が示しているのは、美優が以前から一貫して同じ手法で支配を広げていたという事実だ。標的にした生徒を孤立させ、周囲の人間を巧妙に操って追い詰める。その手口がずっと続いていることを裏付けていた。
「これだけ証拠があるなら……もう言い逃れはできないよな」
俺はスマホを見つめながら、小さく息を吐いた。美優の支配を崩すためには、これをどう使うか慎重に考えなければならない。
「でも……これをそのまま突きつけるだけでいいんでしょうか?」
由梨が不安げに口を開いた。
「美優なら、うまいこと誤魔化すかもしれません。それに……もし、私たちがこの証拠を元に美優の悪事を暴こうとしているっていうことに気づかれたら……」
確かに、その可能性はある。新田は狡猾だ。単純に証拠を突きつけたところで、すぐに手を打たれるかもしれない。
「……まあ、慎重に動くしかないな」
俺は廃校舎の埃っぽい空気を吸い込みながら、静かに言った。美優の支配を終わらせるために、どう動くべきか。慎重に策を練る必要がある。
***
放課後のチャイムが鳴り響くと同時に、生徒たちは思い思いの目的地へと足を向け始めた。俺と世羅は短く視線を交わし、それぞれの役割を果たすために別行動を取ることにした。
世羅は校内の生徒たちの動向を探るため、人が集まる場所へと向かった。生徒会室前の廊下、図書室、購買前のベンチ──美優の影響を受けている生徒たちが立ち話をしていれば、何か情報が得られるかもしれない。
一方の俺は、体育館裏へと足を運んでいた。ここは基本的に人気のない場所だが、いじめに関与している生徒たちがたむろすることもあると、由梨から聞いていた。
足音をできるだけ殺しながら角を曲がると、案の定、数人の生徒が集まっていた。
その中に、一人の女子生徒がいた。俺が目をつけていた生徒の一人――高橋だ。
高橋は美優の取り巻きの一人で、表向きは人畜無害を装っているが……裏では美優の指示を受けて動いていたことが、証拠データから判明している。
俺は深く息を吐くと、意を決して歩み寄った。
「君たち。ちょっといいかな?」
俺の声に、彼女たちの視線が一斉にこちらに向いた。談笑していた空気が一瞬にして張り詰める。高橋はゆっくりと俺のほうに向き直った。
「……何よ?」
警戒心がにじんだ視線。同時に、どこか恐怖心も見え隠れしていた。俺が何の目的でここに来たのか、悟っているのかもしれない。
「話があるんだ。少し付き合ってくれないかな?」
俺は周囲を一瞥する。高橋の友人たちは、怪訝そうな顔でこちらを見ていた。
「一体どういうこと? 何の用?」
高橋は顎をくいっと上げると、俺を値踏みするように見つめた。
「悪いけど……今、ちょっと忙しいの。何の話か知らないけど、また今度にして」
言葉とは裏腹に、その目はこちらの真意を探っている。俺は冷静に言葉を選びながら、一歩踏み出した。
「今すぐ、話したいんだよ。君も、これ以上面倒なことには巻き込まれたくないだろ?」
声を低くしてそう言うと、高橋の表情がわずかに揺れた。
***
Side 世羅
世羅は、静まり返った校舎の廊下を一人で歩いていた。湊とは別々に行動し、美優の影響下にある生徒の情報を探るため、かつていじめに関わっていたと噂される生徒のもとへ向かっている。
しかし、足取りはどこか重く、迷いが感じられた。胸の奥に引っかかるものがあり、歩くたびにその違和感がじわりと広がっていく。まるで、まだ整理しきれていない感情に引きずられているかのようだった。
(……本当に、うまくやれるのかな)
美優の影響力は想像以上に根深い。もしも、こちらの動きが彼女に知られたらどうなるのだろうか。その不安が、世羅の背筋をじんわりと冷やした。そんな考えに囚われていたせいか、誰かが廊下の先で立ち止まっていることに気づくのが遅れてしまう。
「世羅ちゃん」
聞き慣れた声に、世羅は弾かれたように顔を上げた。
「え……? 凪沙?」
廊下の端にいた凪沙が、ふと視線を向けた。世羅の顔をしばらく見つめ、何かを考えるように小さく眉をひそめる。その瞳はどこか探るような色を帯びていた。
「……最近、ちょっと変じゃない? 何か隠してない?」
予想外の言葉に、世羅の心臓が跳ねる。だが、すぐに平静を装い、首を横に振った。
「そんなことないよ。どうして?」
「……なんとなく、だけど」
凪沙は小さく息を吐き、少し困ったように笑った。
「湊君も最近、何か様子が変なの。なんだか、考え込んでいることが多いみたいで……」
その言葉を聞いて、世羅は息を呑んだ。
(もしかして、疑われてる……?)
湊も自分も、凪沙に心配をかけないように細心の注意を払っていたはずだ。それなのに……彼女の勘は鋭く、微妙な変化さえも敏感に察知している。
「何もないなら、いいんだけどね」
凪沙の声は優しく、それがかえって胸に刺さる。世羅は一瞬、言い訳を探しかけたが、結局、苦笑しながら誤魔化すしかなかった。
「うん、大丈夫。ちょっと、色々考え事をしていただけ。湊君も、似たような感じじゃないかな?」
凪沙は納得したような、していないような曖昧な表情を浮かべたものの、それ以上は問い詰めてこなかった。
「そっか。でも、何かあったらちゃんと言ってね? 私でよかったら、相談に乗るから」
「……うん。ありがとう、凪沙」
そう答えながらも、世羅の胸の内には焦りが渦巻いていた。
(これ以上、勘づかれたらまずいかも……)
凪沙を不安にさせたくない──それが、世羅と湊の共通認識だった。いじめを水面下で解決するためにも、彼女に余計な心配をかけずに動かなければならない。そう自分に言い聞かせながら、世羅は再び歩き出した。