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59.従属の吐露

 夕暮れ時の図書室は静まり返っていた。

 閲覧スペースには誰もおらず、貸出カウンターにも司書の姿はない。奥の書架の間に入り込むと、そこはまるで世界から切り離されたかのようにひっそりとしていた。


 俺は目の前に立つ女子生徒――高橋を見つめた。彼女は俺の視線を避けるように俯き、細い指をぎゅっと組み合わせている。普段、美優と一緒にいる連中の中では目立たない存在だが、それでも取り巻きの一人であることに変わりはない。


「……話があるって聞いたけど、何?」


 高橋は、か細い声でそう問いかけてきた。以前は美優に従って何も言えなかったような印象を受けたが、今の彼女はどこか弱々しく、明らかに以前の強気な態度を失っている。まるで、別人のようだ。……高橋がこうして俺の前にいるだけで、すでに答えは出ているのかもしれない。


「単刀直入に聞くけどさ……君たちは、好きでいじめをやっているわけじゃないんだろ?」


 核心を突くようにそう問うと、高橋の肩がびくりと震えた。そして、目を逸らしたまま、ぎゅっと唇を噛む。


「……そんなの、当たり前じゃない」


 その声はかすれていて、すぐにでも消えてしまいそうだった。


「あんなの、好きでやってるわけない……。誰だって、本当はそんなことしたくないよ」


 彼女の声は震えていた。怒りとも悲しみともつかない、押し殺した感情が滲んでいる。


「だったら、なんで新田の言いなりになっているんだ?」


 沈黙が降りた。高橋は何かを言おうとしたが、言葉にならないまま喉を詰まらせる。彼女の拳は震えていた。


「そ、それは……美優に逆らったら……どうなるか、わかっているから……」


 搾り出すような声だった。高橋は顔を伏せると、腕を抱きしめるようにして小さくなった。


「……逆らえないってこと?」


「頑張れば、逆らえるかもしれない。でも……逆らうのが怖いの」


 その言葉に、俺は息を呑んだ。美優がいかに周囲を支配しているかが、はっきりと伝わってくる。


「新田は何をしたんだ?」


 問い詰めると、高橋はわずかに顔を上げ、迷うような瞳をこちらに向けてきた。


「……わからないの? あの人は標的を決めて、それをみんなに押しつけるの。もし逆らったら、次は自分がその標的になる。それがわかっているから……だから、みんな従うしかないの」


 俺は言葉を飲み込むように奥歯を噛んだ。やはり、美優の支配は単純ではない。恐怖と圧力、巧妙な人間関係の操作で、生徒たちを支配している。標的を定め、周囲に攻撃させる。そうすることで、皆「大人しく従っていれば自分は標的にされない」と思い込み、ますます逆らうことができなくなる。


「そんなの……おかしいだろ」


 俺の言葉に、高橋はかすかに笑った。しかし、それは諦めの笑みだった。


「おかしいよ。でも、誰も何も言えない。だから、私たちはあの人に従うしかないの」


 思わず、胸が締めつけられる思いがした。由梨の話は本当だった。いじめの加害者とされた生徒たちも、実際には美優の支配のもとで動かされていた――ある意味、彼女の被害者でもあるのだ。この問題は、想像していたよりもはるかに複雑で根深い。下手に動けば、さらに状況を悪化させてしまうかもしれない。慎重に、冷静に対処しなければならない。


「そうか……話してくれて、ありがとう。きっと、その勇気は無駄にはならないと思うよ」


 俺が礼を言うと、高橋は少し不思議そうに首を傾げながらも、そっと頷いた。



 ***



 Side 凪沙


 帰り支度を済ませた凪沙は、靴に履き替え昇降口を出ようとした。その瞬間、ふと前を歩いている生徒のスマホが地面に滑り落ちる。


「あっ……落としましたよ」


 凪沙は自然とそれを拾い上げ、相手に差し出した。だがその瞬間、小さな電子音が鳴り自然と画面が目に入ってしまう。


「え?」


 ほんの一瞬だった。それでも、そこに映っていたメッセージの内容が、なぜか強く脳裏に焼きつく。何かの会話の断片のようだが……普通のやりとりには思えなかった。凪沙は顔を上げると、スマホを落とした相手の顔を見た。


(あ、藤咲さんだ……)


 凪沙がそれに気づくと、由梨もまた凪沙の顔を見てぴくりと肩を揺らした。そして、慌てた様子でスマホを受け取ると、すぐに画面を伏せて隠す。


「あ……ありがとう……」


 彼女の声は、かすかに震えていた。


(藤咲さん……?)


 胸騒ぎを覚えた凪沙は、静かに歩み寄る。


「どうしたの?」


 不意に声をかけると、由梨は驚いたように顔を上げ、視線を泳がせる。


「な、何でもないです」


 由梨はぎこちなく微笑んだが、目は明らかに動揺していた。その反応を見た凪沙の勘が働く。


「本当? 何かあるようにしか見えないけど……」


 凪沙は穏やかではあるものの、確信に満ちた声でそう尋ねる。由梨は一瞬息を呑み、唇を噛むと、ふっと視線を逸らした。


「……本当に、大したことじゃないんです」


「そっか……でも、何かあったら言ってね。私でよければ話くらい聞くから」


 凪沙は微笑みながらそう言った。こういう時は、余計な詮索をしないほうがいい。

 由梨はその言葉に戸惑いながらも、「……はい」と小さく頷く。由梨はしばらく考え込むようにスマホを強く握りしめると、表情を引き締めた。


「じゃあ、もう行きますね……」


 由梨は小さく頭を下げ、足早に立ち去っていった。その背中を見送りながら、凪沙は小さく息を吐いた。


(藤咲さんって……やっぱり、好きで新田さんのグループにいるわけじゃないのかも……)


 というのも、実は凪沙と由梨には、短いながらも仲良くしていた時期があったのだ。今となっては、美優から「仲良くするふりをして、後で裏切れ。絶望のどん底に突き落とせ」なんて指示を受けていたのかもしれない――そう思わなくもない。けれど、当時の凪沙はそれを知る由もなかった。


(私が知らないところで、何かが進んでいるのかな……)


 先ほどの由梨もそうだが……友人である湊と世羅も、最近様子が変だ。明らかに、何か隠し事をしている。

 偶然かもしれない。でも、何かが引っかかる。胸の奥に小さな違和感を抱えながら、凪沙は沈む夕日を見つめていた。



 ***



 Side 由梨


 その夜。由梨は自室のベッドに腰掛け、スマホを握りしめたまま天井を見つめていた。


(私は……どうすればいいんだろう)


 あのとき──凪沙がスマホを拾った瞬間、心臓が止まりそうになった。

 スマホの画面には、美優からの指示の履歴が残っていた。ほんの一瞬だったが、それを見られたかもしれない。そんな可能性を考えただけで、背筋が凍る。


(私の心がもっと強ければ、こんなことにはならなかったのに……)


 由梨は目を閉じる。頭の中に、過去の記憶がよみがえった。

 中学時代、由梨は孤立していた。机の落書き、陰口、無視され続けた日々──そんな中、美優に話しかけられた。あの日のことを、今でも鮮明に覚えている。……そう、彼女の支配は中学時代から今まで続いていたのだ。


『ねえ、藤咲さん。私達のグループに入らない?』


 その言葉を聞いたとき、救われた気がした。手を差し伸べられたと思った。けれど、それは救いなどではなかった。ただの服従だった。他の生徒にいじめられる日々のほうが、まだマシだったかもしれない。


(私は……逃げたんだ)


 あの頃の由梨には、助けを求めるという選択肢すらなかったのだろう。美優に従うことで、ようやくいじめの標的から外れることができた。けれどその代わりに、他人が苦しむ姿を見ても、何もできずに目をそらしてきた――そうするしかなかったのだ。


(でも……駄目。これ以上、見て見ぬふりはできない)


 自然と、スマホを握る指に力がこもる。

 ふと、湊と世羅の顔が頭に浮かぶ。彼らは本気で美優を止めようとしている。自分が加担することで、美優がどんな反応をするかはわからない。でも──


(いい加減、あの頃の自分と決別しなきゃ)


 再び、過去の自分の姿が頭に浮かぶ。どれだけ悔しくても、どれだけ傷ついても、声を上げることすら許されなかった。

 もう二度と、あの頃の自分のような人間を生み出したくない。由梨は深く息を吐き、震える指でスマホを握りしめた。


 ──これで、全部終わらせる。


 由梨は静かに画面をタップし、SNSアプリを立ち上げる。そのまま指先は迷いなく動き、投稿ボタンへと伸びていった。


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