Side 由梨
夜の街は静まり返り、遠くで車のエンジン音が響く。由梨は街灯が点々と続く道をゆっくりと歩いていた。
(この証拠……本当に出して良かったのかな)
由梨はスマホの画面を見つめたまま、小さくため息を吐く。
(これが広まれば、美優は終わる。でも……)
画面に映るのは、美優とその取り巻きがいじめの標的を嘲笑する動画や、脅迫めいたメッセージのスクリーンショット。リプライの数はまだ少ない。でも、確実に反応は広がり始めている。この流れが続けば、美優の支配にも亀裂が入るかもしれない。
(もし美優に裏切りがばれたら、今度は私が……)
その想像が頭をよぎった瞬間、由梨の足は思わず止まった。何度もこの場面を想像した。証拠が広まれば、被害者たちは救われるかもしれない。でも、美優の怒りを買えば、次に狙われるのは自分になる。
(やっぱり……この投稿、消したほうがいいのかな……)
そんなことを考えていると、ふと後ろから近づいてくる足音に気づいた。その瞬間、声が飛んでくる。
「由梨?」
びくっと肩が跳ねる。振り向くと、そこには美優の取り巻きの一人が立っていた。
「あんたさ……最近、何か変じゃない?」
何気ない口ぶりだったが、目はしっかりと由梨を捉えていた。由梨は反射的にスマホを隠し、無理やり笑みを浮かべた。
「え……? なんでですか?」
「いや、なんとなく。なんだか、急によそよそしくなったっていうか……」
その言葉に、背筋が凍る。何か気づかれているのか。それとも、ただ鎌をかけられているだけなのか。
「……気のせいだと思いますけど」
由梨は平静を装いながら答えたが、手のひらの汗はじっとりと滲んでいた。
***
Side 美優
美優は廊下を歩きながら、周囲の微妙な空気の変化を敏感に感じ取っていた。
(最近、なんかみんなソワソワしてない……?)
すれ違う生徒たちが、ひそひそと話している。こちらの視線に気づくと、すぐに目をそらす。その態度が気に障る。直接自分の耳には届かないが、確かに何かが動いているのを感じる。
「新田さん!」
取り巻きの一人が、小走りで近づいてきた。その顔には焦りが見える。
「……やっぱり、由梨が何か隠しているっぽいです」
「へえ……?」
美優はわざと軽く流すように言いながらも、内心で興味を抱いた。
「最近、ずっとスマホを手放さないし、誰かとこそこそ連絡を取っているみたいなんです。もしかしたら、由井たちと一緒に何かを企んでいるのかもしれません」
(なるほどね。やっぱり、そう来たか……)
美優はわずかに口角を上げた。
「それで?」
「正直、ちょっと怪しいなって思っていて。裏で何かやばいことが進んでるんじゃないかって……」
取り巻きが言葉を濁す。美優は考えた。由梨が本格的に動き出したのなら、それを確かめる必要がある。
「そんな度胸、由梨にあるの?」
美優はそう言うと、取り巻きをじっと見つめた。
「……そろそろ、はっきりさせようかな」
「え……」
取り巻きが小さく息を呑むのが聞こえた。美優は微笑んだまま、静かに続ける。
「由梨が何を隠しているのか、ちゃんと確かめなきゃね」
美優の声は、自分でもわかるほど穏やかだった。けれど──その裏にある感情は、冷えきった水のように静かで冷たかった。
***
放課後の校舎は、日中の喧騒が嘘のように静まり返っていた。廊下を歩きながら、俺は周囲の気配に注意を向ける。
由梨のことが気がかりだった。昼休みの時点で、彼女はどこか落ち着かない様子だった。スマホを握る手がわずかに震えていたのを俺は見逃さなかった。
(何かあったのか……? それとも、これから何か起きるのか……?)
そんな不安を胸に昇降口まで来ると、そこに世羅の姿があった。彼女はすでに靴を履き替え、出口の前で俺を待っていたようだ。
「湊君。遅かったね。待ちくたびれちゃったよ」
小声で呼びかけられ、俺も慌てて靴を履き替える。
「ああ、ごめん。ちょっと、先生に呼ばれていたんだ」
俺たちはそんなやり取りをしながら昇降口を出た。
そのとき、ふと足を止める。校門付近に、由梨の姿が見えた。しかし、すぐにただならぬ様子に気づく。
彼女の周りには数人の生徒がいた。その中には美優の取り巻きの顔もある。まるで逃げ道を塞ぐような位置取りで、由梨に詰め寄っている。
(……まずいな)
咄嗟に俺は近くの柱の影に身を隠した。世羅もすぐに察して、俺の隣に身を潜める。
「藤咲さん……もしかして、囲まれてる?」
世羅が小声でつぶやいた。彼女の声には明らかな緊張がにじんでいる。
「うん……ただの雑談って雰囲気じゃないな」
俺たちは息をひそめ、耳を澄ませた。取り巻きの声が、断片的に聞こえてくる。
「ねえ、由梨。あんたさ……もしかして、私たちのこと避けてる?」
由梨はかすかに肩を震わせ、ぎこちなく笑った。
「そんなわけないじゃないですか」
声は平静を装っていたが、明らかに無理をしているのがわかる。その場を取り繕おうとしているのが見え見えだった。
(あいつら、本格的に動き出したな……)
胸の奥がざわついた。これはただの牽制か、それとも――由梨を本気で潰しにかかる前触れなのか。そんなことを考えていると、世羅が俺の袖をそっと引いた。
「どうする? このままじゃ藤咲さんが……」
「……しばらく、様子を見よう」
俺は奥歯を噛みしめた。助けたい気持ちはあるのに、それを行動に移せない。焦りと無力感がせめぎ合い、足が地に縫いつけられたように動かない。何もしなければ、彼女が押し潰されてしまうかもしれない――それでも、今はまだ動くべきじゃない。
(一体どうすればいいんだ……?)
俺の中で、焦りと苛立ちが渦を巻いていた。だが、今は慎重に判断しなければならない。
美優の包囲網が、着実に狭まってきている。……次の一手を誤れば、由梨だけでなく、自分たちも危険にさらされることになる。