Side 由梨
帰宅しても、由梨の胸の鼓動はなかなか収まらなかった。学校を出て、自宅のドアを閉めた瞬間にようやく深く息をつけた気がしたが──それでも、不安は胸の奥底にしつこく残っていた。
由梨はなんとか呼吸を整えると、廊下の壁にもたれかかる。そして、震える手でスマホを取り出し、そっと画面に視線を落とす。そこには、湊と世羅から届いたメッセージが並んでいた。
『いつでも俺たちを頼ってくれ』
『大丈夫。私たちがあなたをサポートするから』
画面に映る短い言葉。そのシンプルなメッセージが、まるで乾いた土に水が染み込むように胸に広がっていく。
(……こんなに優しくしてもらったの、初めてかも)
不意に、肩から力が抜けた。ずっと張り詰めていた神経が、少しだけ緩む。今まで、誰も信じられなかった。誰かにすがろうとすれば、そこには罠が待っていた。けれど、湊と世羅は違う。
(二人のこと、もっと頼ってもいいのかな……)
そう思った途端、冷たい影が頭の奥に忍び寄ってきた。
――新田美優。
名前を思い浮かべただけで、背筋が凍った。あの鋭い視線、ひとつのミスも許さない圧力、周囲に張り巡らされた見えない監視網。今もどこかで、自分のことを見張っているのではないか――そんな気さえしてくる。
(……もし、私が裏切ったってばれたら?)
冷や汗が背中を伝った。美優は決して許さない。裏切りを知れば、今まで以上の報復が待っている。これまで彼女に逆らった人間が、どうなったのかを知っているからこそ、怖い。
由梨は心の中で、あの投稿がどれほど自分を追い詰めるものだったかを改めて痛感した。自分のしたことが、これからどう転ぶのか分からない。
(でも……どんなことがあっても、あの人たちだけは守らなきゃ)
湊たちは、こんな自分にも変わらず優しく接してくれた。本当に、いい人たちだ。だからこそ、由梨は自分ひとりが責任を負う覚悟で、SNSにいじめの証拠を投稿した。
でも、もし万が一、彼らにまで被害が及んだら? そんなことになったら、もう――。
「……っ」
由梨は、ぎゅっとスマホを握りしめた。こんなふうに怯えてばかりでは、何も変わらない。湊たちと動き出してから、少しずつ周囲の空気が変わり始めている。だから、きっとうまくいくはずだと必死に言い聞かせる。
湊たちとのやり取りを重ねる中で、心に引っかかっていた存在がいた。──ずっと目を逸らしてきた相手。けれど今の自分なら、向き合えるかもしれない。そんな思いが、胸の奥から静かに湧き上がってくる。
由梨は深く息を吸い込むと、覚悟を決めるようにスマホを操作した。そこには、しばらくやり取りをしていなかった相手の名前が表示されている。
「……今さら何考えているんだろう、私」
罪悪感で胸が締め付けられる。だが、知りたい。証拠を公開したことで、何かが変わったのか。凪沙は、今どうしているのか。それを知りたい。だから、震える指で短いメッセージを打った。そして、画面を見つめ、ほんの一瞬だけ躊躇い──そっとタップした。
『話がしたい』
送信するなり、心臓が跳ね上がる。既読がつくかどうかすら怖かった。
──数分後。スマホが震え、画面に表示されたのは凪沙の名前。由梨は息を呑んだ。
『……もしもし? 藤咲さん?』
呼吸が少し乱れているのがわかる。凪沙も戸惑っているのだろう。
『こうしてちゃんと話すの、久しぶりだよね。元気にしてた?』
先日、学校でスマホを拾ってもらったときと同じ、柔らかく落ち着いた口調。その優しさに、由梨はかえって言葉を失いそうになる。
「突然連絡してごめんなさい。実は、話したいことがあって……」
思った以上に自分の声がか細くて、由梨は内心で焦りを覚えた。すると、少し間を置いて凪沙の静かな声が返ってくる。
『……何?』
その一言に、拒絶の色はなかった。由梨は少しだけ息を吐き、言葉を探す。
「その……私がSNSに匿名で上げた“証拠”のこと、知っていますよね?」
一瞬、通話越しに空気が張りつめたような沈黙が流れた。だが、凪沙は気を取り直したのか冷静に答える。
『うん……。やっぱり、あの投稿は藤咲さんだったんだね。すごいことになってるよ。今、みんなその話で持ちきりだよ』
由梨の手が、じわりと汗ばむ。
「……そうなんですね」
すごいことになっている――それが良い意味なのか悪い意味なのか、由梨にはまだわからなかった。何故なら、怖くてしばらく自分の投稿を見ていないからだ。学校でも、最近は一人で行動しているため、同級生たちの反応を知ることもなかった。
「ねえ、藤咲さんは……」
ふと、凪沙がゆっくりと口を開いた。声は小さいが、どこか緊張を含んでいる。
「その……今、どう思っているの?」
たどたどしくも、一生懸命に言葉を選んでいるのがわかった。
由梨は一瞬、息を詰まらせる。責めるような響きはない。それでも、胸の奥がズキリと痛んだ。美優に脅されていたとはいえ、自分がいじめグループに加わっていたのは事実。つまり、保身に走ったのだ。自分のような人間が、今さら反省したようなことを言う資格があるのだろうか?
そう考えながら、由梨はスマホを握る手に力を込めた。
「……わかりません」
由梨は、声にならない想いを搾り出すように答えた。凪沙は何も言わなかったが、通話越しにかすかな息遣いが聞こえる。小さく息を呑んだようだった。その沈黙が、何よりも重く胸にのしかかる。せっかく勇気を振り絞ったのに、また全てが振り出しに戻ってしまったような気がした。
──通話が終わり、由梨はスマホをそっと見つめた。胸の奥で、まだ高鳴る鼓動が収まらない。しばらく無言で画面を見つめ続けていたが、ふと自分の行動を思い返し、静かに息を吐いた。
***
Side 美優
取り巻きの一人が小走りで近づいてきたのを見て、美優は顔を上げた。その表情はどこか緊張を孕んでいる。
「……で?」
美優は腕を組み、軽く顎をしゃくった。
「ちゃんと探っておいてくれたんでしょ? 由梨のこと」
「はい……でも、想定外の事態が起こってしまいまして」
「はぁ?」
思わず険のある言い方をしてしまう。
「それで? 一体何が起こったの?」
訊ねると、取り巻きは「実は……」と経緯を説明し始める。話を聞き終えるなり、美優はまるで獲物をじっくりと狙う捕食者のように口角を上げてみせた。
「なるほどね。じゃあ……あえて由梨を泳がせてみようか」
取り巻きが目を見開いたのが見えた。緊張が空気を締めつける。美優がこの顔をするとき、必ず何かが起こる――そんなふうに思っているのだろう。その反応に、内心で微かに笑みがこみ上げた。
「ただ、由梨の動きはちゃんと見ておいて。何かおかしいことがあったら、全部私に報告して」
「わ、わかりました……」
取り巻きがこくりと頷いたのを見て、美優はさらに愉快な気分になった。思わず口元が緩み、笑みがこぼれる。
「意外とやるじゃん、由梨」
美優はスマホをいじりながら、じっと画面を見つめる。由梨は本来、臆病なはずだ。一人では何もできない。──ということは、彼女を動かしている“支え”を崩せばいい。
「さて、どう料理しよう?」
周囲の喧騒の中で、美優は静かに笑った。その笑い声は、誰にも気づかれずに空気に溶けていった。