Side 由梨
昼休み。教室の窓から差し込む陽射しはあたたかいのに、由梨の胸の奥は、どこまでも曇った空のように重かった。
美優の失脚から数日が経ち、学年には少しずつ日常が戻りつつあった。
教室には談笑する声が響き、机に突っ伏して昼寝をする生徒の姿もある。──けれど、由梨にはそれがどこか遠い世界の出来事のように思えた。
(……桜庭さんが苦しんでいたとき、私は何をしていたんだろう)
思い浮かぶのは、うつむいたままの凪沙の横顔だった。
言葉にはしていなかったけれど、あの目は――たしかに、誰かに助けを求めていた。……それなのに、自分は。
由梨は席を立ち、教室を出た。ふと視線を上げると、廊下の窓際でスマホをいじっている湊の姿が目に入った。
少し迷ってから、思い切って声をかける。
「あの、由井君。ちょっと相談してもいいですか?」
「ん? どうしたの?」
「その……ずっと桜庭さんに謝りたいと思っていたんですけど……どうすればいいのか、正直なところ、今も分からなくて」
ぽつりと漏れるような声に、湊は小さく息を吐いた。そして顔を上げ、まっすぐに由梨を見つめる。
「謝るなら、本気でね。向き合うってことは、言葉より“覚悟”の問題だから」
そこで一拍置いて、湊は言葉を続ける。
「謝罪ってさ、ただ『ごめん』って言えば済むものじゃない。相手の気持ちを受け止める覚悟がいる。許してもらえないかもしれない、責められるかもしれない――それでも、ちゃんとその感情を受け取って、逃げずに聞くこと。それができなきゃ、本当の意味で謝ったことにはならないと思う」
湊は視線を窓の外に一瞬だけ流し、再び由梨を見た。
「凪沙がどんな気持ちでいたのか、どんなふうに傷ついていたのか、想像してみたことある? もしあるなら、それをちゃんと自分の言葉で伝えて、正面からぶつかるしかない。謝るって、そういうことだよ。綺麗にまとまらなくていい。上手く言えなくてもいい。ただ、逃げないこと。それだけは、大事にしてほしい」
その一言が、由梨の胸の奥に真っすぐ刺さる。
由梨はそっと目を伏せ、深く息を吸い込んだ。──たとえ、許されなくても。もう、逃げたくない。
放課後の校舎裏には、夕焼けの光が斜めに差し込み、時間が止まったような静けさが漂っていた。聞こえるのは、ほのかな風の音だけ。
由梨は、その場にひとり立っていた。制服の袖をぎゅっと握りしめながら、胸の奥で高鳴る鼓動を感じていた。
やがて、近づいてくる足音。小さく控えめだけど、はっきりとしたリズム。それは、凪沙のものだった。
凪沙は無表情のまま、ゆっくりと一歩ずつ近づいてきた。数歩手前で立ち止まり、一瞬だけ由梨と目が合う。けれどすぐに、その視線はふっと逸れる。
風がふたりの間をすり抜け、そっと髪を揺らした。何も言えないまま、ただ静かに時間だけが過ぎていく。
「……ごめんなさい、桜庭さん。どんなふうに言えばいいのか、ずっと考えていました」
どれくらいそうしていただろう。耳に残るのは、風の音ばかり。
由梨は唇をかみ、ほんのわずかに前へ踏み出そうとした──そのとき。背後に気配を感じた。振り返らなくてもわかる。湊だ。
彼はきっと、何も言わずにそこにいてくれている。声をかけることも、止めることもせず、ただ黙って由梨の背中を信じて見守ってくれている。
それだけで、胸の奥にほんの少し、あたたかくて甘い気持ちが芽生えた。
(こんなふうに、誰かのために本気になれる人がいるんだ……。ありがとう、由井君)
その想いが胸の奥でふわりと膨らんだ瞬間。どこかくすぐったくて、由梨はそっと目を伏せる。
由梨は足元の土を見つめながら、静かに呼吸を整えた。風が髪を揺らし、首元にふわりと絡みつく。
目の前に立つ凪沙の存在は、まるで音のない圧力のように肌をひりつかせ、そのたびに胸の奥がざわめいた。
(……今度こそ、逃げないって決めたんだから)
拳をぎゅっと握りしめて、由梨はゆっくりと顔を上げる。
凪沙の目はまっすぐこちらを見つめていた。逃げることも、言い訳をすることも許さない――そんな強い眼差しだった。
「……ずっと、言えなかったんです。あなたがつらそうにしてたの、ちゃんと気づいてたのに……怖くて、見て見ぬふりして、逃げてしまっていた」
喉がかすれて、声に力が入らない。それでも由梨は、凪沙から目を逸らさなかった。
逃げ出したい衝動が、今も胸の奥で暴れている。それを必死で押しとどめながら、続きを口にする。
「言い訳なんて、もうしません。私は、美優の後ろに隠れて……自分のことばかり考えていました。でも……本当は、ずっと思っていたんです。一番最低なのは、自分だって」
声がわずかに震えた。涙が今にもこぼれそうになる。
でも泣きたくなかった。泣いてしまえば、その弱さに逃げ込んでしまいそうで、それが許しを求めるように思えてしまうから。
凪沙は、何も言わなかった。ただ、まっすぐに──真剣に、由梨のすべてを受けとめるように、その瞳で見つめ続けていた。
***
Side 凪沙
由梨の言葉が途切れ、風の音だけが残った。沈黙が、ふたりのあいだに静かに降りる。
凪沙はその静けさの中で、胸の奥にかすかに揺れるものを感じていた。怒りでも、憎しみでもない。けれど、言葉にならない、複雑な感情がそこにあった。
ずっと心の奥に押し込めてきた記憶が、由梨の声によって少しずつ溶かされていくような──そんな感覚だった。
この場所に立つまでに、由梨がどれほどの覚悟を抱えてきたのか。それは、凪沙にも分かっていた。だからこそ、慎重に言葉を選ぶ。
「……正直に話してくれて、ありがとう」
穏やかながらも確かな口調でそう告げると、由梨の肩がかすかに揺れた。
「でも……私自身の気持ちは、まだ整理がついていないの」
それが、いまの自分に言える正直な気持ちだった。
許すとか許さないとか、そんな単純な話ではない。過去の痛みは、言葉ひとつで塗り替えられるようなものではなかった。
由梨は視線を落とし、静かにうつむく。その姿を見て、凪沙はそっと息を吐き、もう一歩だけ踏み込んだ。
「許せるかどうか……たぶん、すぐには決められない。でも──あなたが向き合おうとしてくれたこと、それだけは……ちゃんと伝わったよ」
由梨の目が潤んでいた。涙をこらえながら、今にも崩れそうなほど懸命に立っている。
その姿が、胸にじんわりと沁みてくる。癒えない傷があったとしても──誰かの誠意が、その痛みをそっと和らげてくれる瞬間は、きっとある。今はまだ答えが出ないけれど、その予感だけが、静かに胸に残った。
***
Side 由梨
凪沙と別れたあと、由梨はしばらくその場に立ち尽くしていた。西の空は茜色に染まり、風が頬をやさしく撫でていく。その感触が、さっきまでのやり取りの余韻をそっとなぞるようで、胸の奥が少しだけ温かくなる。
──ちゃんと、届いていた。
凪沙の言葉も、涙も。すべてが本物だったと、由梨にはわかった。すぐにすべてを変えることはできなくても、もう一度手を伸ばそうとしてくれるなら──それは確かに、「始まり」と呼べるものなのかもしれない。
そんな思考を巡らせていると、背後からふいに話しかけられた。
「……話せたんだな」
その声を聞いた瞬間、背後から感じた気配が湊だったのだと確信した。
きっと彼は、さっきからずっと校舎の陰で、そっと様子をうかがっていてくれたのだろう。そんなふうに静かに寄り添ってくれるところが、いかにも彼らしい。
責める気配はまるでなかった。ただ、誰かの勇気を信じて、そっと背中を押すような──そんな優しさがあった。
「はい。やっと……償いの一歩を踏み出せた気がします」
由梨の声は、どこか晴れやかだった。泣いたあとの、少しかすれた声。でも、その中には確かな強さがあった。不安はまだ消えていない。けれど……それでも、前を向いて進もうという決意が、自分の言葉の端々ににじんでいるのを由梨は感じていた。
「そっか。……じゃあ、これからが楽しみだね。君がどんなふうに進んでいくのか、ちゃんと見てるから。応援してるよ」
湊の言葉に、由梨の口元がふっとほころぶ。
夕焼けの空の下、由梨はそっと目を閉じた。胸の奥に、ほんの少しあたたかさが戻った気がした。
──少しだけ、心が軽くなった気がする。そんな思いを胸に、由梨は夕暮れの風の中を歩き出した。