朝の教室には、妙なざわつきが漂っていた。ただ騒がしいのではない。どこか湿っぽく、張りつめた空気が教室を包んでいる。
美優の失墜が広まってから、学年全体の空気は一変した。
スマホを覗き込みながら、小声で囁き合う声があちこちから聞こえてくる。すると、隣の席のクラスメイトが画面をこちらに向けてきた。
「なあ、由井。これ見た? これ、うちの学校のことだよな……」
SNSの投稿には、『
「え、やば……。しかもさ、新田さんの背後に黒幕がいたって噂になってるよ」
「マジで? 裏で指示してた生徒って……誰のことなんだろ?」
誰も真相を知らないまま、「黒幕は誰か」という憶測だけがひとり歩きしていく。
人の不幸を面白がるような、どこか陰湿な空気が、教室をじわじわと濁らせていく。
俺は何も言わず、スマホの画面を見ているふりをしながら、まわりの会話に耳を澄ませていた。
──新田の背後にいた生徒が高嶺鈴だと判明するのは、もう時間の問題だ。
(でも……高嶺の背後にさらに黒幕がいるかもしれないなんて、誰も考えもしないんだろうな)
そんなことを思っていたとき、ざわつく教室の片隅で誰かがふとつぶやいた。
「てかさ……新田さんって、あれだけのことをして、なんで普通に学校来てるんだろ?」
その一言は、思った以上に教室に響いた。
確かに、あれほどの騒動のあとでも美優が平然と学校に来ているのは、やはり違和感があった。
「うん、普通ならもう来れないよね……。なんかさ、守られてるって感じしない?」
「もしかして、誰かが裏で手を回してるんじゃない?」
冗談半分に投げられた憶測は、すぐに他のクラスメイトたちの耳に引っかかり、あっという間に姿を変えて広がっていった。
「そういえば……私、新田さんが高嶺さんと一緒にいるの、何回か見たよ」
「え、本当に? どこで?」
「朝、購買の裏の階段で。あそこ、死角になってるでしょ。そこで、こそこそ話してるの、何度か見かけた」
“裏で繋がってる”という噂が、火種のように静かに、けれど確実に教室に広がっていく。
「ってことは、黒幕は高嶺ってこと? こっわ……」
「そういえば……高嶺って前にも由井を嵌めようとしてたよな。ありえるじゃん」
「たしかに」
「うわ、もうそれ確定じゃん」
軽口交じりのやりとりが、じわじわと教室の空気を変えていく。
そしていつのまにか、“黒幕は高嶺鈴”――そのイメージだけが、静かにクラスの中に定着していった。
***
Side 鈴
休み時間。鈴はふと教室を見渡した。
どこか妙な視線を感じて、反射的に振り返る。数人のクラスメイトがこちらを見ながら、ひそひそと何かを話していた。目が合うと、慌てて取り繕うような笑顔を浮かべ、すぐに視線を逸らされる。
その態度の裏に潜む、救いようがない偏見――鈴には、それが嫌というほど伝わってきた。
震える指先をきつく握りしめる。座ったままの体に無理やり力を込め、自然と一歩、足が前へ出た。
──もう、これ以上この空気には耐えられない。
鈴は教室を飛び出し、廊下を駆け出す。当然ながら、誰も追いかけてはこなかった。激しく打つ心臓の音を聞きながら、窓際までたどり着く。外を見ると、青空がやけに遠く感じられた。
「……どうせ、何を言っても信じてもらえないんでしょ。なんで私だけが、こんな目に遭わなきゃいけないの? 悪いのは、私だけじゃないのに……」
小さく漏れた独り言は、誰の耳にも届かない。
誰かに問い詰められたわけでも、面と向かって傷つけられたわけでもない。それなのに、鈴の周囲からはすべてが静かに、けれど確実に剥がれ落ちていくようだった。
まるで世界そのものが、「高嶺鈴」という存在を切り離そうとしている。その感覚に、鈴は思わず背筋を震わせた。
噂は、もう止まらない。自分が“黒幕”に仕立て上げられていく流れを、鈴は痛いほど理解していた。
それでも──どうすることもできなかった。
***
Side 紫音
紫音は、クラスの隅でひっそりとクラスメイトたちの会話を聞いていた。噂話の輪には加わらず、ただ黙って机に置いた手をじっと見つめている。
本当に、鈴がひとりでそこまでやれるのだろうか――紫音の中に、かすかな違和感がじわじわと広がっていく。
(……どうしても、引っかかるんですよね)
昼休みが終わる少し前、意を決した紫音は、廊下にひとり佇んでいた鈴にそっと声をかけた。
「……あの、高嶺さん。こんなことを聞いていいのかわかりませんけど……その、今広まっている噂って、本当なんですか?」
鈴は一瞬、驚いたように目を見開いたが、すぐに視線を逸らしぽつりとつぶやいた。
「……あなたには、関係ないでしょ」
その声には疲れと、微かな苛立ちがにじんでいた。
鈴はもう一度、紫音にちらりと視線を向けてから、ため息を吐く。そして何も言わず、そのまま背を向けて歩き去った。
「やっぱり、話しかけるべきではなかったかもしれませんね……」
後悔とも戸惑いともつかない思いが、静かに胸の奥を締めつける。けれど結局、紫音はそれ以上、踏み込むことができなかった。
(高嶺さん……本当に、彼女が黒幕なんでしょうか。やはり、背後にまだ誰かがいるのでは……)
その疑念は、まるで冷たい水のように紫音の胸に染みこんでいった。