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71.去る者の影

 Side 鈴


 放課後の教室。生徒の数はまばらで、ざわめきもまるで遠い世界の音のようだった。

 机の中から引き出したノートを鞄にしまいかけたところで、ふと、背後から気配を感じた。振り返ると、彩音と涼太が気まずそうな顔をして立っていた。


「……あのさ、鈴」


 彩音が小さな声で口を開いた。視線は鈴を避けるように、伏せられたままだった。


「私たち、もう……あまり関わらないほうがいいんじゃないかなって、思ってて」


 続けざまに、涼太も顔を引きつらせながら言った。


「悪いけどさ……これ以上、巻き込まれたくないんだよ」


 突き刺さるような言葉だった。

 ついこの間まで、自分を取り巻いてへらへら笑っていた彼らの冷たさに、鈴は言葉を失った。


「じゃ、じゃあ……そういうことだから。元気で……」


 涼太の声には、どこか言い訳めいた響きがあった。

 二人はそそくさとその場を離れていく。まるで、鈴に関わっていたこと自体が触れてはいけない「汚れ」だったかのように。


 取り残された教室の真ん中で、鈴はぼんやりと立ち尽くした。

 かつて手を伸ばせば届く距離にいたはずの“仲間たち”は、もうどこにもいない。

 心臓が鈍く打つ。鈴には、何かが静かに終わりを迎えたように思えた。

 皮膚の奥までじわりと染み込んでくるような、絶望の気配。そんな中、背後から別の気配が近づいてくる。


「……高嶺さん。少し、いいかな。職員室まで来てほしいんだ」


 振り返ると、そこには担任の教師が立っていた。

 穏やかに聞こえるその声には、どこか重苦しい響きがあった。胸の奥に、嫌な予感がじわじわと広がる。喉が渇き、うまく声が出ない。鈴は無言のまま鞄の口を閉じ、担任の後をついて教室を出た。


 職員室のドアが閉まると、外のざわめきが遠のき、空気がぐっと重くなる。

 担任は鈴の方へ向き直り、慎重に言葉を探すように間を置いてから口を開いた。


「……今後の進路について、前向きに考えてみないか?」


 一瞬、何を言われているのか理解できなかった。けれど、担任の表情がはっきり物語っていた――それが決して「前向きな話」ではないことを。


「自主的な転校、という形にすれば、経歴に傷がつくこともないから」


 “退学”という言葉は使われなかった。けれど、それがただの建前で、実際には他の選択肢なんて最初からなかったことは、鈴にも痛いほど伝わっていた。

 頭の中が真っ白になる。何か言わなければと焦るのに、言葉は喉に詰まり、息さえ苦しい。


「……わかりました。考えてみます」


 担任は鈴の返事を聞いて、ほっとしたように小さく息を吐いた。そして、何か言いかけたものの、結局言葉にはせず、そっと視線を逸らす。

 鈴は鞄を抱え直し、力の入らない足取りで職員室を後にした。


 階段を下りて昇降口へ向かう廊下は、やけに長く感じられた。職員室を出てから誰とも言葉を交わしていないのに、無言の圧が背中にじっとりとまとわりついてくる。

 鈴は自分の下駄箱の前で立ち止まり、静かにしゃがみ込んでローファーを取り出す。

 床にかがんだその瞬間、背後から小さな足音が近づいてくるのが聞こえた。警戒心よりも疲れのほうが勝っていて、鈴は力なく振り返った。そこには、縁士が立っていた。


「さっき、先生から聞いたよ。学校、辞めるかもしれないんだって? ……君もいろいろ大変だったね。でも、転校ってのも悪くないと思うよ。環境が変われば、また一から始められるし」


 いつもと変わらない穏やかな声。けれど、その口調はどこか他人事のようだった。

 鈴の視線は、昇降口のガラス越しにぼんやりと滲む外の景色へと流れる。縁士の言葉は、慰めにも励ましにも聞こえなかった。


(……信じられないくらい冷静ね。クラスメイトが自主退学するかもしれないのに)


 そう思いつつ、鈴は黙って小さく頷き、そっと靴を履いた。

 ふと視界の端に、学級日誌を抱えた紫音が静かに階段を下りてくるのが見えた。彼女は縁士の隣に立ち、無言のまま鈴の背中を見送っていた。


 扉に手をかけ、ゆっくりと開いて外へ一歩踏み出す。湿気を含んだ夏の夕風が頬をかすめても、心は何も反応しなかった。靴音がコンクリートに吸い込まれるように響き、やがて背後で昇降口のガラス戸が静かに音を立てて閉まる。

 その音は、まるで一つの幕が静かに下りたかのように冷たく、淡々としていた。



 ***



 Side 紫音


 重たいガラス戸が音を立てて閉まった。

 昇降口に残されたのは、鈴の去った余韻と、どこか冷え冷えとした空気だけだった。


 縁士は鈴の背中を見送ると、ふっと片手で払うような仕草をした。

 どこか軽蔑を滲ませたその動作に、紫音は思わず苦笑する。気まずさを和らげようと、少し明るい調子で声をかけた。


「いくら高嶺さんがクラスの厄介者だったとしても……ちょっと、かわいそうじゃないですか?」


 縁士は一瞬だけこちらに目を向けると、すぐに柔らかな笑みを浮かべた。


「そうかな? でも……正直、学級委員としては結構大変だったんだよ。彼女のことで気を遣う場面も多くてさ。だから、少し肩の荷が下りたような気持ちになるのも、本音なんだ」


 その声は終始穏やかで、事務的というよりは、むしろ悩みを分かち合うような温かさがあった。


「……まあ、そうですね」


 それ以上の言葉は出てこなかった。

 縁士に悪気があるとは思えない。むしろ、思っていた以上に責任感の強い人なのかもしれない。

 けれど、紫音の心には小さな波紋が広がっていた。確かに鈴は扱いづらい存在だった。けれど、こんなふうに幕引きのように語られると、どこか釈然としない思いが心にしこりのように残った。


(本当に、これですべてが解決すれば良いのですが……)


 紫音は心の中で、そっとそう願った。

 昇降口にはもう誰の姿もなく、ガラス越しに吹き込む夕風が静かに二人の間をすり抜けていった。


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