Side 鈴
放課後の教室。生徒の数はまばらで、ざわめきもまるで遠い世界の音のようだった。
机の中から引き出したノートを鞄にしまいかけたところで、ふと、背後から気配を感じた。振り返ると、彩音と涼太が気まずそうな顔をして立っていた。
「……あのさ、鈴」
彩音が小さな声で口を開いた。視線は鈴を避けるように、伏せられたままだった。
「私たち、もう……あまり関わらないほうがいいんじゃないかなって、思ってて」
続けざまに、涼太も顔を引きつらせながら言った。
「悪いけどさ……これ以上、巻き込まれたくないんだよ」
突き刺さるような言葉だった。
ついこの間まで、自分を取り巻いてへらへら笑っていた彼らの冷たさに、鈴は言葉を失った。
「じゃ、じゃあ……そういうことだから。元気で……」
涼太の声には、どこか言い訳めいた響きがあった。
二人はそそくさとその場を離れていく。まるで、鈴に関わっていたこと自体が触れてはいけない「汚れ」だったかのように。
取り残された教室の真ん中で、鈴はぼんやりと立ち尽くした。
かつて手を伸ばせば届く距離にいたはずの“仲間たち”は、もうどこにもいない。
心臓が鈍く打つ。鈴には、何かが静かに終わりを迎えたように思えた。
皮膚の奥までじわりと染み込んでくるような、絶望の気配。そんな中、背後から別の気配が近づいてくる。
「……高嶺さん。少し、いいかな。職員室まで来てほしいんだ」
振り返ると、そこには担任の教師が立っていた。
穏やかに聞こえるその声には、どこか重苦しい響きがあった。胸の奥に、嫌な予感がじわじわと広がる。喉が渇き、うまく声が出ない。鈴は無言のまま鞄の口を閉じ、担任の後をついて教室を出た。
職員室のドアが閉まると、外のざわめきが遠のき、空気がぐっと重くなる。
担任は鈴の方へ向き直り、慎重に言葉を探すように間を置いてから口を開いた。
「……今後の進路について、前向きに考えてみないか?」
一瞬、何を言われているのか理解できなかった。けれど、担任の表情がはっきり物語っていた――それが決して「前向きな話」ではないことを。
「自主的な転校、という形にすれば、経歴に傷がつくこともないから」
“退学”という言葉は使われなかった。けれど、それがただの建前で、実際には他の選択肢なんて最初からなかったことは、鈴にも痛いほど伝わっていた。
頭の中が真っ白になる。何か言わなければと焦るのに、言葉は喉に詰まり、息さえ苦しい。
「……わかりました。考えてみます」
担任は鈴の返事を聞いて、ほっとしたように小さく息を吐いた。そして、何か言いかけたものの、結局言葉にはせず、そっと視線を逸らす。
鈴は鞄を抱え直し、力の入らない足取りで職員室を後にした。
階段を下りて昇降口へ向かう廊下は、やけに長く感じられた。職員室を出てから誰とも言葉を交わしていないのに、無言の圧が背中にじっとりとまとわりついてくる。
鈴は自分の下駄箱の前で立ち止まり、静かにしゃがみ込んでローファーを取り出す。
床にかがんだその瞬間、背後から小さな足音が近づいてくるのが聞こえた。警戒心よりも疲れのほうが勝っていて、鈴は力なく振り返った。そこには、縁士が立っていた。
「さっき、先生から聞いたよ。学校、辞めるかもしれないんだって? ……君もいろいろ大変だったね。でも、転校ってのも悪くないと思うよ。環境が変われば、また一から始められるし」
いつもと変わらない穏やかな声。けれど、その口調はどこか他人事のようだった。
鈴の視線は、昇降口のガラス越しにぼんやりと滲む外の景色へと流れる。縁士の言葉は、慰めにも励ましにも聞こえなかった。
(……信じられないくらい冷静ね。クラスメイトが自主退学するかもしれないのに)
そう思いつつ、鈴は黙って小さく頷き、そっと靴を履いた。
ふと視界の端に、学級日誌を抱えた紫音が静かに階段を下りてくるのが見えた。彼女は縁士の隣に立ち、無言のまま鈴の背中を見送っていた。
扉に手をかけ、ゆっくりと開いて外へ一歩踏み出す。湿気を含んだ夏の夕風が頬をかすめても、心は何も反応しなかった。靴音がコンクリートに吸い込まれるように響き、やがて背後で昇降口のガラス戸が静かに音を立てて閉まる。
その音は、まるで一つの幕が静かに下りたかのように冷たく、淡々としていた。
***
Side 紫音
重たいガラス戸が音を立てて閉まった。
昇降口に残されたのは、鈴の去った余韻と、どこか冷え冷えとした空気だけだった。
縁士は鈴の背中を見送ると、ふっと片手で払うような仕草をした。
どこか軽蔑を滲ませたその動作に、紫音は思わず苦笑する。気まずさを和らげようと、少し明るい調子で声をかけた。
「いくら高嶺さんがクラスの厄介者だったとしても……ちょっと、かわいそうじゃないですか?」
縁士は一瞬だけこちらに目を向けると、すぐに柔らかな笑みを浮かべた。
「そうかな? でも……正直、学級委員としては結構大変だったんだよ。彼女のことで気を遣う場面も多くてさ。だから、少し肩の荷が下りたような気持ちになるのも、本音なんだ」
その声は終始穏やかで、事務的というよりは、むしろ悩みを分かち合うような温かさがあった。
「……まあ、そうですね」
それ以上の言葉は出てこなかった。
縁士に悪気があるとは思えない。むしろ、思っていた以上に責任感の強い人なのかもしれない。
けれど、紫音の心には小さな波紋が広がっていた。確かに鈴は扱いづらい存在だった。けれど、こんなふうに幕引きのように語られると、どこか釈然としない思いが心にしこりのように残った。
(本当に、これですべてが解決すれば良いのですが……)
紫音は心の中で、そっとそう願った。
昇降口にはもう誰の姿もなく、ガラス越しに吹き込む夕風が静かに二人の間をすり抜けていった。