放課後のチャイムが鳴り終わる頃には、教室に残っている生徒はもう数えるほどだった。
俺はいつものように鞄に荷物をしまいながら、何気なく窓の外に目を向ける。夏の陽射しが教室に差し込み、揺れるカーテンが静かに踊る。その光景は、まるで時間の流れを忘れさせるようだった。
「湊君」
名前を呼ばれて振り向くと、教室の入り口に世羅が立っていた。明るい笑顔で手を振り、そのすぐ後ろから凪沙も顔を見せる。
「今日、孝輝君のお見舞いに行く日だったよね? よかったら、ちょっと寄り道してから行かない?」
俺は一瞬だけ迷ったが、すぐに「うん」と返事をした。
「そうだね。少しだけなら、いいかも」
凪沙も静かに頷く。……みんなでこうして出かけるのは、いつぶりだろう。ふと気づけば、胸の奥がほんのりあたたかくなっていた。
鞄の中には、いつも持ち歩いているスケッチブック。今日は、ふと何かを描きたくなるような気分だった。
学校を出て、三人並んで歩く。目的地は決めていなかったが、自然と足が夏祭りのときに通ったあの商店街へと向いていた。
アーケードの下をくぐった瞬間、あの夜の記憶がふとよみがえる。
今の商店街は人もまばらで、あのときの喧騒がまるで幻だったかのように静まり返っていた。
それでも、駄菓子屋のショーウィンドウに並ぶカラフルなお菓子や、古びた文具店の手書きポップを見るだけで、胸の奥がくすぐられるような懐かしさが込み上げてくる。
「見て! 焼きたてだって!」
世羅が声を弾ませながら、屋台風のたい焼き屋に駆け寄った。
「どれにする? あんこ、カスタード、チョコもあるよ」
「……チョコって、たい焼き界では有りなのか?」
俺がぼそっとつぶやくと、世羅がふいに笑った。
「あはは、急に議論始めたね。湊君は食べたことないの?」
「あるけど……昔は、たい焼きはあんこ一択って思ってた」
「今は?」
「……流されてる。ていうか、普通に美味い」
「成長してるね」
たわいないやりとりなのに、不思議とあったかくて、自然と笑みがこぼれた。
たい焼きを頬張りながら歩いていると、今度は凪沙が駄菓子屋にふらっと吸い寄せられる。彼女は選び終えたあと、包装のカラフルな細長い駄菓子をいくつも抱えて、満足そうに戻ってきた。
「これ、昔から好きで……。見つけると、つい……」
「おお、甘チョ棒か。懐かしいな」
甘チョ棒――安っぽいチョコがぎゅっと詰まった、細長い駄菓子だ。中学の頃、コンビニより駄菓子屋で生きていた孝輝の常連アイテムでもある。
「えっ、それまだ売ってたんだ! 懐かしい!」
そう言って、世羅も感慨深そうに笑った。
「これ、もっと買って孝輝君に持っていこうか?」
凪沙の提案に、俺と世羅は顔を見合わせて、うなずき合った。そして、そのまま追加でいくつか買い足すことにした。
駄菓子屋を出ると、ふと立ち止まって、俺は鞄からスケッチブックを取り出した。商店街のアーチや、古びた看板、たい焼きをかじるふたりの笑顔。それらを何気なく、でも丁寧に鉛筆でなぞっていく。
「湊君、なに描いてるの?」
世羅が隣からそっと覗き込んできた。
「ただの記録だよ。今この時間を、忘れたくなくてさ」
そう答えると、世羅は小さく微笑んでぽつりと言った。
「……なんか、そういうのって素敵だね」
***
柔らかな光が差し込む病室は、思った以上に明るく感じられた。
「お、全員集合じゃん。ヒマ人の集いか?」
ベッドの上から、孝輝がニヤリと笑ってみせた。俺たちが見舞いに来たのが、よほど嬉しかったのかもしれない。
動きにはまだ少しぎこちなさが残っていたが、事故直後の沈んだ様子はすっかり消えていて、声の張りも目の輝きも俺たちがよく知る“雲雀孝輝”そのものだった。
「はい、お見舞いセット。たい焼きと、あと駄菓子たくさん詰めたやつ」
凪沙が手提げ袋からお菓子を取り出して、テーブルにドサッと置いた。
「これ……もしかして甘チョ棒?」
「あ、やっぱり駄目だったかな? 甘いものって元気出るかなって思って……」
孝輝の反応をうかがうように、凪沙が少し不安げに眉をひそめる。どうやら、変なものを選んでしまったかもと気にしているようだった。
「いや、むしろ最高。これめっちゃ好きなんだよ」
孝輝は即答した。予想外の食いつきに、凪沙が一瞬ぽかんとする。
「え、そうだったんだ? 適当に選んだんだけど……」
安堵したように笑う凪沙に、孝輝は軽く肩をすくめて返す。
「奇跡じゃん。運命感じた!」
「……その言い方、ちょっと怖いよ」
凪沙が引き気味に突っ込むと、世羅がクスクスと小さく吹き出した。
「怖くないって。俺と甘チョ棒の間には、ちゃんと歴史があるんだよ」
ドヤ顔でそう言う孝輝に、なんとなくみんなが笑う。
「テスト前に食いすぎてぶっ倒れた伝説、まだ語り継がれてるからな」
本人にとっては黒歴史らしいけど、その話しぶりは妙に楽しそうだった。
「それ、先に言ってよ……なんか、ごめんね」
「いやいや、逆にありがと。少なくとも、もう笑い話にできるくらいには回復したってことで」
たった数分の他愛ない会話だったけど、それだけで病室の空気が少し軽くなった気がした。いつものノリが戻ってきて、少しだけ安心する。
それからも、病室の空気は穏やかなままだった。
世羅と凪沙はテーブルにお菓子を並べて、くだらないことで笑い合っている。孝輝もそれに相づちを打ちながら、楽しそうに二人の様子を見守っていた。
俺はベッドのそばの椅子に腰を下ろし、その風景を静かにスケッチしていた。
──この時間も、忘れたくないな。
鉛筆の先が紙を滑る感触が、心地よいリズムとなって手に伝わってくる。
「なによ、ずいぶんにぎやかじゃない。お見舞いっていうより、まるで修学旅行じゃん」
ふいに聞き慣れた声がして顔を上げると、紗菜さんが腕を組んで立っていた。
「あ、こんにちは!」
世羅が振り返って軽く頭を下げる。紗菜さんは俺の手元に目をやると、ふっと口元をゆるめた。
「湊……あんた、やっぱり絵うまいね」
「……ありがとうございます」
「あれ? あんた、ちょっと変わった? 前は『そんなことないです、自分なんて……』って、やけに卑屈だったのに。今日は素直じゃん」
「そうですかね……?」
自分ではよくわからなかった。でも、こうして何度も時間を越えているうちに、少しずつ自分の中で何かが変わってきたのかもしれない。
──ふと顔を上げると、時計の針はいつの間にか夕方を指していた。
カチ、カチ、と一定のリズムを刻むその音が、静かに時の流れを告げている。
「……じゃあ、そろそろ帰るよ。あんまり長居しても迷惑だし」
俺が立ち上がると、世羅と凪沙もそれに倣って腰を上げた。
「今日は、わざわざ来てくれてありがとな。おかげで元気出たよ」
孝輝が手を振って笑う。
「気をつけて帰りなさいよー」
ぶっきらぼうな口調の紗菜さんも、どこか優しい目をしていた。
俺たちはそれぞれ軽く会釈して、病室をあとにする。
病院を出ると、空はすっかり茜色に染まっていた。ビルの隙間から差し込む夕陽が、長く伸びた影を路上に落としている。
「……なんか、今日はいい日だったかも」
ぽつりと凪沙がつぶやいた。少し照れくさそうな声だった。
「うん。こういう日があると、また明日も頑張ろうって思えるよね」
世羅が隣で笑う。俺はその横顔を見つめながら、ふと空を仰いだ。
(ずっと、こうしていられたらいいのに)
笑って、歩いて、くだらないことでふざけ合って――何も失わずにいられる未来があるのなら。
……いや、今度こそはきっとうまくやれる。そう信じなきゃいけない。
そんな思いにふけりながら、俺は鞄の中のスケッチブックにそっと触れた。