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73.静けさの、その先に

 高嶺がいなくなってから、初めて迎える朝だった。

 教室では誰もが、何事もなかったかのように会話を交わし、笑い合い、以前と変わらぬ時間を過ごしている。

 その光景が、どうしても不自然に思えた。

 つい数日前まで、あれほど騒然としていた教室が、こんなにも簡単に“日常”を取り戻してしまうなんて。

 ……まるで、最初から高嶺鈴なんて存在していなかったかのように。


 俺は席に座ったまま、窓の外に目を向けた。空は晴れていて、まぶしいくらいに何もかもが“普通”だった。


(……こうして、すべて元に戻っていくんだな)


 その事実が、どこか現実味のない、ふわふわとした違和感となって胸に残った。

 黒板の前では、紫音がいつものようにプリントを配っていた。頼まれたわけでもないのに、欠席者の机にも静かにファイルを置いていく。学級委員だから、というより、彼女のそういう真面目な性格が出ているのだろう。

 その様子だけ見れば、何も変わらないように見える――傍目には、そう映っているはずだ。


 けれど、俺にはわかる。

 その肩は、ほんのわずかに落ちていて、笑顔の奥には疲れの影が薄く滲んでいた。


 ふと視線を教室の隅へ移すと、凪沙の姿が目に入った。

 ノートを開いたまま、ぼんやりと前を見つめている。いじめの問題が収束して間もない今、無理もないと思った。きっと、俺達の前ではそれを悟られないように明るく振る舞っているのだろう。

 表情からは生気が抜け落ち、魂の抜け殻のような彼女の姿は、皮肉なことに教室の空気にすっかり溶け込んでいた。



 昼休みになると、教室には心地よいざわめきが広がっていた。

 俺は、ぼんやりと窓の外を眺める。校庭では、誰かがボールを追いかけている。遠くから、蝉の鳴き声がかすかに聞こえてきた。

 夏の空気に触れると、意識がどこか遠くへと漂っていく気がする。

 ふと現実に引き戻されたような感覚とともに、なんとなく、教室の出入り口に目を向ける。

 ちょうど紫音がプリントの束を持って外に出ようとしているところだった。そこへ世羅が教室に入ろうとして──ふたりは不意に、ぶつかりそうになってしまう。


「……あっ、ごめんね!」


 先に口を開いたのは世羅だった。笑顔で軽く頭を下げ、そのまま立ち去ろうとする。

 その瞬間、紫音の目がほんのわずかに揺れた。言葉にならない何かを押し殺すような、そんな影が一瞬だけその瞳に差した。

 俺は無意識に、その表情に目を奪われていた。


(……今の、なんだったんだ?)


 うまく言葉にはできない。けれど、確かに引っかかるものがあった。

 世羅は何も気づかないまま、こちらに歩いてきて、いつものように軽く手を振る。紫音は無言のまま外に出ていった。その背中は妙に静かで、どこか淡々として見えた。

 けれどその違和感も、昼休みの終わりとともにいつの間にか流れていった。



 授業がすべて終わるころには、夏の陽射しもすっかり傾いていた。

 放課後の校舎には、賑やかな声も足音もすっかり消え、夕陽の光だけが静かに廊下を満たしている。

 俺は委員会の仕事を終えると、教室へ戻ってドアを開けた。その瞬間──黒板のほうから、かすかな音がした。視線を向けると、紫音がひとり静かにチョークの跡を消していた。


「由井君じゃないですか。どうしたんですか?」


 ふと、紫音がこちらに声をかけてきた。


「委員会の仕事で少し残っててさ。今、帰るところなんだ」


「ああ、なるほど」


 しばらく沈黙が落ちる。静かな間のあと、紫音が口を開いた。


「……やっと、落ち着きましたね。でも、なんだか変な感じです。こんなに急に、元通りになるなんて」


 その言葉に俺は頷き、自分の席に向かって歩く。そして、帰り支度をしながら言った。


「確かに、高嶺さんや新田さんのことで、最近ずっと騒がしかったからね。学年全体がバタバタしていたし」


 紫音はその言葉に、かすかに笑ってうつむいた。けれど、その表情はすぐに曇る。少し考え込んでから、彼女はぽつりと漏らした。


「ただ……正直言うと、まだ何かが残っている気がしていて。高嶺さんが転校したからって、それで全部終わりなのかなって……あ、私が考えすぎなだけかもしれませんけど」


 軽く笑いながら話していたが、その目は冗談を言っている様子ではなかった。静かでありながらも、強い意志の光が瞳の奥に宿っている。胸の奥に、言葉にできないざわめきが静かに広がっていった。


 帰り支度を済ませた俺は、紫音と何気ない会話を交わしながら教室を出た。階段を下りたところで、彼女がふと昇降口のほうへ視線を向ける。

 つられるように俺もそちらに目をやると、世羅が立っているのが見えた。俺と一緒に帰るために、わざわざ待っていてくれたのだろう。こちらに気づいた世羅は、ふわりと小さく微笑んだ。


 一方で、紫音の横顔には、ふと何かを思い出したような影が差していた。

 静かで、けれど確かにそこにある──言葉にできない感情が、じんわりと滲んでいるように感じた。


「小日向さん……? どうかしたの?」


 思わず声をかけると、紫音は肩を小さくすくめて、ひと息ついた。


「あ、いえ……なんでもありません」


 そう言って、すぐに笑顔を作る。その微笑みはやわらかいけれど、どこか触れたら壊れてしまいそうな儚さを帯びていた。

 そこへ世羅が近づいてきて、ふんわりとした声で言った。


「あ、小日向さんだ。もしかして、学級委員の仕事で遅くまで残っていたの?」


「ええ、まあ……そんなところです」


「そっか。やっぱり学級委員って大変なんだね。――あっ、ねえ、せっかくだし、三人で一緒に帰らない?」


 その一言に、紫音が一瞬きょとんとして目を瞬かせた。


「それは……さすがに、お二人の邪魔になってしまうのでは?」


「そんなことないよ。ね、湊君?」


「え? ああ、うん……」


 紫音のどこか遠慮がちな様子が気になりながらも、俺は曖昧に頷いた。


「そういうことでしたら……お言葉に甘えさせていただきますね」


 紫音はすぐに表情をほころばせ、静かに頷いた。

 そんなふうに成り行きで、俺と世羅、そして紫音の三人で一緒に帰ることになった。珍しい組み合わせだけど、放課後の穏やかな空気に背中を押されるように、自然とそういう流れになっていた。


 外に出ると、夕焼けの光が校舎の壁を柔らかく茜色に染めていた。校庭の隅からは、部活動の声が遠くかすかに聞こえてくる。

 世羅と紫音が並んで歩きながら、楽しげに話している。その後ろを、俺は少し離れて歩いた。

 足元に映る三人分の影をぼんやり見つめながら、胸の奥がほんのりざわつく。


(……気のせいかな)


 理由のわからない緊張感が、じわじわと広がっていく。誰も何も言っていないのに、まるで何かが近づいてきているような、奇妙な気配。

 そして──校門をくぐろうとした、その瞬間だった。俺の足がふと止まる。


(あれ……? 何か、おかしいな)


 空気の粒が、静かに震えている。目に見えるわけでもないのに、世界が微かに軋んでいるような感覚が、肌にじわりと突き刺さる。


(この感じ……まさか……)


 恐る恐る一歩踏み出した瞬間、世界がぐらりと揺れた。


「湊君……? どうしたの?」


 世羅の声が遠くでかすかに響いている。音がだんだん遠ざかると同時に、視界の端が白くぼんやりと染まり始めた。

 瞬きする間もなく、その光が一気に広がっていく。次の瞬間──俺の視界は真っ白に包まれてしまった。

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