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74.欠けたままの幸せ

 目を覚ました瞬間、自分がどこにいるのかすぐには把握できなかった。

 カーテンの隙間から差し込む光が、淡く壁を照らしている。部屋の空気はどこか非現実的で、時間が止まっているような感覚すらあった。

 時計に目をやると、午前九時を少し過ぎている。朝にしては、やけに穏やかすぎる気がした。


(戻ってきたんだな……)


 そう思いながら、ゆっくりと体を起こして部屋を見渡す。

 簡素な本棚に机。壁には何枚かのスケッチのコピーが無造作に貼られていた。

 ふと、その中の一枚に目がとまる。──病室の風景だった。笑顔の孝輝に、話に夢中な世羅と凪沙。柔らかなタッチで描かれたその絵が、なぜか胸の奥をざわつかせた。


「……」


 自然と眉がひそむ。何かが引っかかっていた。思い出せそうで思い出せない。ほんのわずかな“違和感”が、心の奥に残っている。


(……何か、大事なことを忘れている気がする)


 そんな言葉が、心の中に静かに浮かんだ。俺はスマホを手に取り、画面を点ける。

 そこには、世羅からのメッセージが届いていた。


『今日、三時にあのカフェでね』


 そういえば、そんな約束をしていた気がする。世羅との再会。ほんの少し胸の奥が温かくなる――けれど、それでも心のどこかに、薄い影が残っていた。俺は小さく息を吐く。


「……なんだろう、まだもやもやする」


 その言葉は、まるで自分に言い聞かせるように、静かに口をついて出た。

 確かな根拠はない。けれど──なぜだか、“ループ”はまだ終わっていない気がしてならなかった。


 午後になり、出かける準備をしながらなんとなくスマホに手を伸ばした。そのとき、画面に表示された名前が目に入り、思わず指が止まった。


『何か、忘れていませんか? 思い出してください。あのときのことを』


 ――差出人は、小日向紫音。

 この未来では、どうやら彼女と連絡先を交換していて、今も何らかの関わりがあるらしい。

 前回のタイムリープでは、紫音とはそれなりに関わった。だから連絡帳に名前が残っているのは、べつに不思議なことじゃない。……それなのに、なぜだ。

 胸の奥に、正体のわからないざわめきが生まれる。理屈では説明できない、肌の奥で警鐘を鳴らすような違和感――まるで、見落としてはいけない“何か”がこのメッセージの裏に潜んでいるかのようだった。


(このメッセージ……一体、どういう意味なんだ?)


 その瞬間、脳内に鋭い閃光が走った。途切れていた記憶の断片が、一気に押し寄せる。

 病院の一室。見覚えのある横顔。──車椅子に座っている孝輝だった。

 彼は微笑んでいた。けれど、その瞳の奥にあったのは底知れない絶望だった。


(……孝輝……)


 言葉が出ない。確かに、俺は彼を守ったはずだった。事故は、回避したはずだった。なのに――


(なぜ、また……?)


 足元がふらつく。心臓が異様な速さで打ち始め、指先が冷えはじめる。

 気がつけば、俺は鏡の前に立ち、無意識のうちに自分を見つめていた。そこにいたのは、いつもの日常に馴染んだ自分のはずなのに――どこかぽっかりと何かが抜け落ちたような、そんな空虚さが顔ににじんでいる気がした。


(ああ、そうか……俺はまた、“諦めた未来”の中に立っているんだな)


 思考がじわじわと鈍っていく中で、胸の奥にわずかでも何かを変えたいという願いが確かに芽生えはじめていた。



 ***



 約束の時間になると、俺は静かな街角のカフェに足を踏み入れた。

 ガラス張りの窓から差し込む西陽が、テーブルの上をやわらかく照らしている。木の温もりを感じる内装に、ほのかに香るコーヒーの匂い――どこか懐かしいような、落ち着いた空気が漂っていた。


 やがて、入口のドアが小さく開いて、世羅が現れた。

 前に会ったときよりも、少しだけ髪が伸びている。その姿は、柔らかくて、でもどこか洗練されていて――俺は、胸の奥にふっと安堵のような感情が広がるのを感じた。


「なんだか、こうして会うのは久しぶりな気がするね」


 椅子に腰掛けた世羅が、ふっと笑いながらそう言った。


「うん……確かに、最近はお互い忙しかったからね」


 俺も自然と笑みを浮かべて、手元のコーヒーカップに目を落とした。

 あの頃抱いていた“淡い好意”は、いつの間にか形を変えていた。今ではもっと静かで、穏やかな“愛情”に近いものになっている。

 まだ記憶は完全に補完されていないけれど、こうして順調に付き合えているということは、きっと前回のタイムリープでも俺は彼女に告白して成功したのだろう。

 ふたりの間には、穏やかな空気が流れていた。

 学生時代の友人の話、仕事のこと、最近見たテレビ番組の感想──話題はどれもとりとめがなくて、それでいて途切れることはなかった。


 やがて店を出た俺たちは、並んで歩きながら、ゆるやかな坂を越えて小さな公園へと向かった。

 公園に着くと、俺たちは並んでベンチに腰を下ろした。

 手にしていた紙コップの飲み物はもうすっかりぬるくなっていたけれど、不思議と気にならなかった。


 西陽が傾きはじめ、木々の隙間からこぼれる光が俺たちのまわりをやわらかくオレンジ色に染めていく。

 ふと空を見上げると、薄くたなびいた雲が夕焼けに溶け込んでいて、どこか懐かしい風景に思えた。

 気づけば、自然と笑みがこぼれていた。でもそれは、きっと少しだけ――切なさの混じった笑顔だった。


(……きっと、これが“最善”に近い未来なんだろう。俺にとっても、世羅にとっても)


 ここまで来るまでに、時間を巻き戻して、何度も誰かを救おうとして、選び続けてきた。その果てに辿り着いたのが、今のこの未来なのだ。

 だけど──


(孝輝だけが、取り残されたままだ)


 誰よりも明るくて、誰よりも俺たちを支えてくれていた、孝輝。

 あのとき車椅子に座って笑っていた彼の、その笑顔の裏にどれだけの痛みが隠れていたのか。思い出すたびに、胸の奥がきゅっと締めつけられる。

 沈黙の中、世羅がぽつりとつぶやいた。


「……まだ、後悔してるの? 孝輝君のこと」


 驚きはしなかった。ただ、そっと目を伏せて、小さくうなずく。


「……ああ。たぶんずっと、心のどこかに残ったままだと思う」


 世羅は黙ったまま、俺の横顔を見つめていた。

 何か言葉を探しているのか、それともただ、そばにいてくれようとしているのか――たぶん、そのどちらでもあるのだろう。


 優しい風が吹き抜け、ベンチの足元に落ちた木の葉がさらさらと音を立てた。

 俺はもう一度、空を仰ぐ。


(……このままじゃ駄目だ。俺には、まだやらなきゃいけないことがある)


 そう思った瞬間、ようやく気づいた。紫音からのあのメッセージの意味に。


(あれは……そういうことだったのか)


 全部思い出せ。――まだ、終わりにしてはいけない。

 ふと隣を見ると、世羅がじっと俺を見つめていた。目が合うと、彼女はそっと微笑む。


「……湊君って、たまにすごく遠くを見てるみたいな顔するよね」


「そうかな」


「うん。……でも、そういう湊君も、嫌いじゃないよ」


 そう言って、世羅は空へ視線を移す。沈みかけた太陽の光が、彼女の横顔を柔らかく照らしていた。


「ありがとう、世羅」


「え? 何のこと?」


「ああ、いや……特に理由があるわけじゃないんだ。ただ、今こうして隣にいてくれるだけで、すごく救われている気がするんだ」


 世羅は返事の代わりに、静かに笑った。

 この未来が――たとえ一時のものでしかなくても。それでも、こんな時間があったということが、きっとこれからの俺を支えてくれる。

 俺は立ち上がり、軽く伸びをした。カップの底に残ったコーヒーが、かすかに揺れる。


「そろそろ、行こうか」


「うん。……次、いつ会えるかな?」


 その問いには、すぐに答えられなかった。言葉にしてしまえば、何かが壊れてしまいそうだった。この穏やかな時間が、手のひらからすり抜けていくような気がして――。


「いつになるかわからないけど……次に会う時まで、今日のことを覚えていてくれたら嬉しいな」


 精一杯、笑顔を見せたつもりだった。でも、胸の奥がきゅっと締めつけられるような痛みまでは、どうしても隠しきれなかった。

 世羅はふっと目を見開いたあと、少しだけ視線を逸らして、静かに目を伏せる。


「……うん。忘れないよ。湊君とのデートは、いつだってちゃんと覚えてるから」


 その声は、かすかに震えていた。まるで、彼女も気づいているかのようだった。俺が過去を変えれば、この幸せな記憶が消えてしまうことを。

 夕暮れの空が、静かに夜に溶けていく。長く伸びた影が足元をかすめ、風が季節の境目を告げるように吹き抜けた。


 俺たちは言葉も交わさず、ゆっくりと肩を並べて歩き出した。この瞬間を、まるで奇跡のように胸に刻みながら。

 手に持っていたカップはもう空っぽだったけれど、心には確かな何かが残っている。


 足元を、一枚の落ち葉がふわりと舞い通り過ぎた。

 ──たとえこの時間が消えてしまったとしても、きっと忘れることはない。今日の出来事も、彼女の笑顔も、そして自分の決意も。

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