世羅と別れたのは、夕暮れが夜の帳に変わる少し前だった。その直後――紫音から、再びメッセージが届いた。
『明日、午後四時。指定の場所に来ていただけませんか?』
地図に示された座標を見た瞬間、思わず目を見開いてしまった。そこは、長いあいだ使われていない郊外の廃駅だった。
普段の生活圏からも外れていて、普通ならわざわざ足を運ぶ理由なんてどこにもない場所だ。
翌日。半信半疑のまま、俺は指定された時間にその場所へ向かった。
風の音だけが、寂しげに耳をかすめる。朽ちかけた看板、ひび割れたアスファルト、錆びついた手すり。
草に覆われた線路の先に、もう誰にも使われなくなった古びたホームが、ぽつんと取り残されていた。
そして――まるで時間に取り残されたように、紫音が静かにそこにいた。
二十五歳になった彼女は、少し背が伸びて、髪も長くなっていた。ベージュのコートが風に揺れ、大人びた雰囲気を纏っている。
けれど、目元にはどこか拭いきれない翳りが残っていた。
「来てくれたんですね」
その声は驚くほど淡々としていた。怒りも、喜びも、焦りさえも感じさせず、まるで深い湖の底からゆっくりと響いてくるように――穏やかに、心の奥へと沈み込んでいく声だった。
「……訊きたいことが山ほどある」
俺は立ち止まり、まっすぐに問いかけた。
「どうして君は、俺がタイムリープしていることに気づいたんだ?」
昨日、紫音から届いたメッセージは、まるで俺がタイムリープしていることを知っているかのような内容だった。気のせいとは思えない。きっと、何かを知っている――そう確信せずにはいられなかった。
そんなことを考えていると、紫音は静かに口を開いた。
「前にも少し話しましたけど……私、幼い頃に事故で母を亡くしたんです。そのとき、どうしても受け入れられなくて。何度も何度も、『もしあのとき、こうしていれば』って……頭の中でずっと繰り返していました」
紫音の視線は、自然と足元へと落ちた。
「気づいたら、本気で“過去を変える方法”を探していました。現実には限界があるってことくらい、ちゃんとわかってた。でも……それでも、どうしてもあきらめきれなかったんです。そしてある日、あなたが“何かをやり直している”って……直感的に、そう感じたんです」
その声は穏やかだったが、その奥に宿るものは切実で、揺るぎなかった。
「あなたが過去を変えようとしているとわかったとき……正直、希望を感じたんです。だから、近づいて……あなたに協力しようって決めました」
俺は言葉を失ったまま、ゆっくりと周囲を見渡した。
ホームの端には、錆びついたベンチと色あせた時刻表。もう二度と電車が来ることのない、時が止まったような景色が広がっていた。
「……どうして、わざわざこの場所を選んだんだ?」
俺の問いに、紫音はほんの少し寂しそうに笑った。
「ここ、昔はよく母と来ていたんです。なんてことない、小さな駅なんですけど……今はもう、誰も来ない。まるで、時間が止まってしまったみたいで」
紫音の言葉が、風の音とともに、胸にじんわりと染み込んでいった。
「ここは……取り残された“未来”の象徴なんです。過去をやり直すことで救えた人がいる。でも同時に、失われてしまったものもある。そのことを、ちゃんと見ておいてほしかった」
紫音がホームのベンチを指さす。
「――あなたの“痛み”は、きっとここに残っているんじゃないですか?」
「痛み、か……」
俺は促されるようにゆっくりと歩き出し、ベンチに腰を下ろした。冷たい金属の感触が、じわりと体に伝わってくる。無意識に視線を上げた瞬間――胸の奥に、あの日の記憶が走馬灯のように蘇った。
涙、約束、後悔。確かに、すべてがここにあった。俺の過去と、痛みが。
「由井君」
紫音の声が、そっと耳に届く。
「あなたが過去で椎名さんや桜庭さんを救ったことで、確かに二人の未来は変わりました。でも――」
彼女は一瞬、言葉を飲み込み、静かに続けた。
「でも、“彼”の未来は、まだ何も変わっていないんです」
風の音が、ふと遠くへ引いていくような静けさが辺りを包む。
“彼”――その言葉が、胸の奥に重くのしかかる。
「……孝輝」
思わず口にしたその名前に、自分でも戸惑った。記憶の底に沈んでいた断片が、少しずつ浮かび上がってくる。
退院してから、彼は少しずつ笑顔を取り戻していた。あの日もきっと、いつものように、何気なく横断歩道を渡っていたのだろう。
紫音は、静かに言葉をつなぐ。
「事故は……退院して、ほんの数日後のことだったそうです。横断歩道を渡っていたときに、突然車が突っ込んできたって」
まるで自分の目で見たかのように、その場面が頭の中で鮮明に再生された。血に染まったアスファルト。警察官の笛の音。膝をついて泣き崩れる孝輝の両親の姿。
――どうして、今まで思い出せなかったんだ。
いや、違う。ただ忘れていたわけじゃない。まるで、記憶そのものが何かに覆い隠されていたような……そんな感覚だった。思い出そうとするたびに、頭の奥がじんわりと痛む。
そのとき、紫音がふいに口を開いた。
「あれは事故じゃありません。誰かが意図的に仕組んだ可能性が高いんです」
その一言に、背筋がぞくりとした。
誰かが、孝輝を再び狙った? なぜ? 何のために? 答えの出ない問いが、頭の中をぐるぐると巡る。
けれどひとつだけ、確かなことがあった。俺は、今まで“現実”に向き合えていなかったのだ。
「……どういうことだ?」
俺が問いかけると、紫音はほんの一瞬だけ目を伏せ、それからそっと鞄の中から一枚の紙を取り出した。
「これを見てください。私が知り合いを通じて入手した監視カメラの解析記録です」
差し出された紙には、事故現場周辺の防犯映像のキャプチャと、映像に映っていた車の姿と、それぞれの通過時刻が一覧になっていた。その中に、ひときわ目を引く赤い車が映っている。ナンバープレートは、途中で切れていて読み取れない。
「事故が起きたのは、信号のない横断歩道でした。……この赤い車、雲雀君が横断歩道の前で立ち止まったときに、すっと止まったんです。まるで『どうぞ』って言っているみたいに」
彼女は防犯映像の静止画を指さしながら続ける。
「雲雀君はそれに応えるように歩き出したんです。でも……赤い車の影になって、右側から来ていた別の車に気づけなかった。その車は、おそらく赤い車を追い越そうとしたんでしょう。結果的に、それが接触事故につながってしまった」
紫音は息を詰めるように言った。
「傍から見れば、赤い車はただ親切に譲っただけ。でも、もしもそれが“狙って”やったことなら……あまりにも巧妙すぎます」
その言葉に、思わず目を見開く。
「それに、事故の直前、雲雀君のスマートフォンに不審なアクセスの痕跡がありました。通話やメッセージではなく、位置情報だけが外部から取得されていたんです。まるで誰かが、居場所を特定しようとしていたかのような……不自然な通信記録でした」
一瞬、俺は言葉を失った。
「どうして、そんなことがわかるんだ?」
「実は、事故後に警察と携帯キャリアが連携して、雲雀君のスマートフォンの通信記録を調査していました。病院側にもその情報が特例的に共有されていて、システム担当の知人がそのデータの解析を手伝ってくれたんです。だから、通常は見ることができないスマホの位置情報アクセスの痕跡を確認できました」
紫音は目を伏せながら、そう言った。
胸の奥がざわつく。自分が過去を変え、孝輝を絶望から救ったはずの未来。その直後、また何者かに狙われた。
「じゃあ……二度目の事故は、偶然なんかじゃなかったってことか? つまり、誰かがわざと事故を起こそうとしたのか……?」
その問いかけに、紫音は静かに頷く。
「……ええ。少なくとも、私はそう思っています」
夕暮れの空の下、錆びついたホームに風が吹き抜ける。静かで、けれどどこか不穏な空気が漂っていた。
俺は、目の前の紙に視線を落としながら、はっきりと確信していた。
これは終わりではなく、始まりだ。守り抜いたはずの未来に、まだ“敵”が潜んでいる。
孝輝の痛みを、二度と繰り返させないために――俺は、もう一歩、深く踏み込む覚悟を決めた。