翌日、俺は駅前の通りを歩いていた。昨日の紫音との会話が、まだ胸の奥でざわついている。
ふと、リハビリセンターの前で足が止まった。ちょうど送迎車が到着し、スタッフが誰かを乗せる準備をしている。──車椅子に座る孝輝だった。その姿を目にした瞬間、心臓が凍りついた。
表情は穏やかだった。けれど……かつて誰よりも明るく、俺たちと無邪気に笑っていたあの頃の彼は、もうどこか遠く、霞んで見える気がした。
紫音の話を聞くと、あの事故は偶然じゃない可能性が高そうだ。やはり、誰かに未来を“変えられた”のだろうか?
それとも――俺が世羅と凪沙を救うことを選んだから、その代わりに孝輝が再び事故に遭い、犠牲になったのか。
胸が締めつけられるように痛んだ。息もできないほど苦しい。けれど、現実は冷たくて、残酷だった。
午後、なんとなく街をふらついていると、俺は思いもよらない現実にぶつかった。
孝輝の家族が営んでいた小さなレストランは、すでに閉店していて、今ではまったく別の店に変わっていた。
何もかもが、俺の知らないところで静かに崩れていたのだ。過去に自分が選んだ行動の先で、孝輝の未来は確かに変わってしまった。その代償は、あまりにも大きかった。
(俺の選択が、孝輝を犠牲にしたんだ……)
風が吹いた。どこか遠くで、電車の走る音がかすかに聞こえた気がした。
帰宅して玄関のドアを閉めた途端、いつもならほっとするはずの静けさが、今日はやけに冷たく感じられた。フローリングを歩くたびに、足元からじわじわと疲れが滲み出してくるようだった。
何も考える余裕なんてなくて、俺はそのままソファに身を投げた。天井をぼんやり見つめながら、頭の中には孝輝の顔が浮かんでは消えていく。彼の未来は、あの日を境に音を立てて崩れてしまった。
そのときだった。なぜだか、空気の質が変わった気がした。風もないのに、カーテンがふわりと揺れて、どこかで小さな鈴の音がしたような気がする。
ほんの一瞬、世界が静止したような感覚。そして──視線を落とした先に、モモがいた。
いつの間に現れたのか、音もなく、ただそこに。まるで俺が気づくのを待っていたかのように、じっと見上げている。大きな瞳がすべてを見透かしているようで、思わず息を呑んだ。
「……モモ?」
気がつくと、俺は名前を呼んでいた。でも、その声には戸惑いと驚きが滲んでいた。
「また世羅の家を抜け出してきたのか……? でも、どうして俺の家に?」
不思議だった。それ以上に、信じられなかった。出会った頃、モモはまだ二歳。それから九年が経ち、今では猫としては老いに差しかかっている。もう以前のように元気に走り回れる年ではないはずだ。なのに、こんなふうにわざわざ俺の家まで来るなんて……おかしい。何かが引っかかる。
そもそも、玄関のドアも窓もきちんと施錠してある。どう考えても、中に入れるはずがない。
そう思いながらじっと見つめていると、モモが──信じられないことに、口を開いた。
「ねえ、湊君」
時間が止まったかのようだった。まるで夢の中にいるみたいに、目の前で――猫が人の言葉を話していた。
「……え?」
思わず、間の抜けた声が漏れる。モモは変わらず落ち着いた様子で、もう一度ゆっくりと語りかけてきた。
「最近……いろんなこと、忘れてきているんじゃない?」
背筋に冷たいものがぞくりと走った。信じられない光景なのに、どこかで「やっぱり」と納得している自分がいる。俺がタイムリープできる時点で、この世界で起きていることは普通じゃない──それに、少しずつ気づき始めていたからだ。
「……モモ。今……喋ったよな?」
モモは何も言わず、ただじっとこちらを見つめていた。その瞳は、言葉以上に強く、俺の心の奥を突き刺してくる。
言葉が喉でつかえて出てこなかった。冗談だとか、幻聴だとか、そうやって誤魔化したくなった。でも――
「もし……もう一度過去に戻ったら、今よりもっと大切なものを失うかもしれない。それでも、戻りたいと思う?」
やはり、聞き間違いじゃなかった。
胸の奥がざわつく。現実が揺らぐような感覚。だが、モモの声にはそれ以上に深い優しさと切実さがにじんでいた。本気で、俺を心配してくれている──そんなふうに感じた。
そのとき、ふと気づいた。
(もしかして……タイムリープを繰り返すたびに、記憶が少しずつ失われていってるのか……?)
言われてみれば、思い当たることがある。些細なことなのに、思い出せない出来事がいくつかあるのだ。
忘れていく。繰り返すたびに、記憶が薄れ、曖昧になっていく。ただの代償──もう、そんなふうには思えなかった。
それはまるで、自分を少しずつ削り取っていくような行為だった。記憶を犠牲にしながら、自分という存在が徐々に薄れていく感覚。
それでも、頭に浮かんでくるのは孝輝の笑顔だった。照れくさそうに笑いながら、家族のぬくもりに包まれていた、あの風景。
「……戻るよ」
小さくそうつぶやいた俺に、モモは何も言わなかった。ただそっと足元に寄り添い、静かに体を預けてくれる。
俺はクローゼットからスケッチブックを取り出し、一枚一枚めくりながら、視線でそっとなぞるように絵を眺めていく。
ふと、ある一枚で手が止まった。病室のベッドで笑っている孝輝。その隣で楽しそうに話している世羅と凪沙。何気ない──けれど確かにそこにあった、あの日の風景。
俺はそっと指先で、そのスケッチをなぞった。
(……また、忘れてしまうかもしれない。でも、それでも――守りたいものがあるなら、行くしかない)
そっと目を閉じ、スケッチブックを胸元に引き寄せる。その温もりを心に刻むように。
次の瞬間、部屋全体が白く淡い光に包まれていく。音も、空気も、遠ざかっていく。
「……がんばって、湊君。これが最後だとは限らないけれど」
小さな声が、そっと背中を押してくれた。
──今度こそ、必ず救ってみせる。
そんな思いを抱えたまま、俺はもう一度、時間の流れへと身を投げた。
***
Side 紗菜
紗菜は、机の上に広げた資料の束に静かに視線を落とした。
事故のことを調べ始めたのは、あの日――孝輝が再び車に轢かれたという報せを受けた直後のことだった。
一度は救われたはずの弟の命。それなのに、また同じような形で奪われかけるなんて。
疑問点は山ほどあった。目撃証言はどれも曖昧で、監視カメラも肝心な場面だけが途切れている。偶然にしては、あまりにも不自然だった。
けれど、それ以上に気になっていたのは──湊の変化だった。
最近の湊は、どこか様子がおかしかった。何かを隠しているような素振りがあり、言動にも違和感があった。
まるで記憶が飛んでしまったかのように、以前の会話をすっかり忘れていたり、未来の出来事を予知しているかのような反応を見せたりするのだ。
最初は紗菜も、気のせいだと思っていた。けれど、同じようなことが何度も繰り返されるうちに、ある考えが頭をよぎるようになった。
――もしかして、湊は時間を越えているのかもしれない。
馬鹿げた考えだと笑い飛ばしたくなった。けれど、それ以上に現実のほうが奇妙だった。
そして今日、さらにおかしなことが起きた。世羅の飼い猫──モモが、なぜか突然、紗菜の部屋に現れたのだ。
「……なんで、あんたがここにいるの……?」
モモは老猫だ。昔は脱走癖があってよく家族を心配させたけれど、最近はもうそんな元気もないと聞いていた。
それなのに、今――何の前触れもなく、この部屋の窓辺にまるで最初からそこにいたかのように、ちょこんと座っている。
不思議な光景だった。けれど、紗菜の胸の奥には妙なざわつきが広がっていた。
――この猫は、ただの猫じゃない。
(そういえば……この猫、九年前に孝輝のお見舞いで病院へ行ったときも、私の前に現れたことがあったっけ……)
そしてもうひとつ、気づいた。モモの隣に、見覚えのないスケッチブックが置かれている。明らかに、もともとこの部屋にあったものではない。
紗菜は、そのスケッチブックを手に取った。何気なく、ぱらりとページをめくっていく。その途中で、ふと手が止まった。
描かれていたのは、窓辺に置かれたコップと、そこに挿された一輪の花。
「これって……」
タッチ、構図、余白の使い方。そして何より、花の影の描き方が妙に印象的だった。
「これ、湊の絵だ。……というか、このスケッチブック、湊が昔よく持ち歩いていたやつだよね」
他のページもめくってみる。すると、ある絵に目が留まった。それは、昔――湊が孝輝の病室で描いていたスケッチだった。その絵を褒めたときのことを、紗菜は今でもはっきり覚えている。
ふと視線を落とすと、モモがじっと紗菜を見上げていた。まるで「わかるでしょ」とでも言いたげに。
「……もしかして、湊は今、過去にタイムリープしているの? ここにメモを挟めば、湊に届く……のかな?」
理由はわからなかった。ただ、そう感じた。だからモモに尋ねてみたけれど、返事はない。ただ、静かにそこにいる。否定も肯定もしない。でも、その沈黙はまるで肯定しているようだった。
次の瞬間、言葉のようなものがふっと頭に浮かんだ。
──この方法で、過去の湊にメモを送れるのは一度きり。
“声”ではなかった。ただの感覚。それなのに、紗菜の内側にまっすぐ届いた。思わず小さく息を呑む。
紗菜はスケッチブックをそっと閉じ、紙とペンを用意する。胸の鼓動が速くなって、耳の奥で響いていた。このメモは、きっと湊に届く――なぜか、そう確信していた。
書き終えると、紗菜は静かにメモ用紙をスケッチブックの間に挟んだ。
「──過去を変えるために、このメモを頼りにしてほしい」
願いを込めて、そっとページを閉じた。未来と過去が交わる一瞬に――紗菜は静かに、その情報を託した。