気がつくと、俺は病室にいた。どうやらスケッチを通して、過去へ戻ることに成功したらしい。
夕暮れの陽射しが窓から差し込み、斜めに伸びた光がベッドの白いシーツをやわらかく照らしている。
カーテンの隙間から覗く景色、壁に貼られた掲示物、遠くから聞こえる人の声──どれも見慣れているはずなのに、なぜか心に引っかかる。
ほんのわずかに噛み合わないパズルのピースを無理やり押し込んだような、そんな微かなずれが、胸の奥に居心地の悪さとして残っていた。
「……湊君? さっきから無言だけど……大丈夫?」
世羅が心配そうに首をかしげながら顔を覗き込んでくる。
「……あ、うん。大丈夫。ちょっと、トイレ行ってくる」
曖昧に笑ってごまかしながら立ち上がり、病室を後にする。そして早足で廊下を進み、角を曲がって突き当たりのトイレに滑り込んだ。
鏡の前に立ち、深く息を吐く。映っているのは、高校生の自分。少しだけ幼い輪郭、整っていない制服の襟。あの日の俺が、そこにいた。心臓がドクン、と強く鳴る。何度目かのタイムリープ──それでも、この「最初の実感」だけは、どうしても慣れない。
胸元を押さえながら、ふと手にしたスケッチブックに視線を落とす。持っていたことさえ忘れていたそれを何気なく開くと、ページの隙間に何かが挟まっているのに気づいた。
慎重に指先でつまみ、そっと引き抜く。それは、小さなメモ用紙だった。
「……なんだ、これ」
首を傾げながら、そのメモに目を落とす。
***
二回目の事故について。
通報ログと現場記録をいくつか確認したけど、いくつか気になる点がある。
・赤い車が、事故現場に直前からいたという証言が複数。
→ 誰かを待っていたように見えた、と話していた人もいる。
・事故の直前、「若い男の怒鳴り声」が聞こえたという通報音声あり。
→ 音質が悪くて声までは判別できないけど、「渡るな!」みたいな叫びだったっぽい。
あと、少し気になって駅の東口の駐車場を調べたんだけど、あの赤い車、どうも事故の前にも何度か同じ場所に現れていたらしい。時間帯は、だいたい夕方から夜。
ナンバーは不明。でも、目立つ色の車で、ドライブレコーダーの映像に断片的に映ってる。
偶然とは思えない。誰かが意図的に事故を誘発したのかもしれない。
今回の分岐点は、おそらく「赤い車が現れる前後」だと思う。
孝輝が“なぜ”あのタイミングで渡ろうとしたのか、そこに仕掛けがある。
慎重に、でも迷わず動いて。応援してるから。
――紗菜
***
「まさか……これって、紗菜さんが俺に残したメモか……?」
そんな仮説が頭をよぎった。きっと未来の紗菜さんは、紫音と同じように俺がタイムリープしていることに気づいていたのだろう。でも、彼女が何か特殊な力を使って過去の俺に直接メモを送ったとは考えにくい。
そうなると、可能性として考えられるのは──モモだ。過去に来る直前、モモは明らかに普通の猫とは思えない行動を見せていた。もしモモが紗菜さんに手を貸していたとすれば、すべてがつながる。
胸の奥がきゅっと締めつけられるような感覚に襲われた。未来の紗菜さんが、俺を助けるために、わざわざスケッチブックにメモを仕込んでくれていたのだ。
指先がかすかに震える。時間はもう残されていない。できることも限られている。
「ありがとう、紗菜さん。絶対に間に合わせる。孝輝が退院するまでに、犯人を突き止めないと……」
あの事故を防がなければならない。孝輝を、今度こそ守りたい。
(でも……俺一人で、本当に止められるのか?)
スケッチブックを閉じて小脇に抱える。鏡に映る自分が、真剣な眼差しでこちらを見返していた。
やっぱり、協力者は必要だ。でも──世羅や凪沙に、自分が未来から来たなんて言えるわけがない。信じてもらえるはずがないし、下手をすれば余計に混乱を招くだけだ。
病室に戻る廊下を歩きながら、どう伝えればいいのかを考え続けた。何をどう言えば、動いてもらえるのか──。
言葉の糸口を必死に探しながら、俺はトイレを後にした。
***
翌日の放課後、俺は世羅と凪沙を図書室の一角に呼び出した。夕暮れの光が静かに差し込み、室内には静寂だけが漂っていた。
「……昨日、孝輝の見舞いに行ったときさ。病室の前で、ちょっと変な人を見かけたんだ」
言葉を選びながら、ゆっくりと話し始める。二人は目を見合わせ、不安そうな顔でこちらを見つめていた。
「トイレから戻る途中だったんだけど……最初は同じ病室の人の家族か知り合いかなって思ったんだ。でも、その人、ずっと廊下に立っててさ。中には入らないで、ただじっと孝輝のほうを見てる感じだった。なんていうか……明らかに“観察してる”って雰囲気でさ」
俺は自然と声が低くなる。
「それで、家に帰ってから気になってさ。孝輝にメッセージを送ってみたんだ。“あの後、親とか来る予定あった?”って。長居して悪かったかな、って感じの言い方で」
一度言葉を切り、息を整えてから続けた。
「そしたら、“誰も来る予定なんてなかった”って返ってきて……それで、余計に気になったんだ」
その瞬間、世羅が小さく息を呑んだのがわかった。どうやら、俺の話をちゃんと信じてくれているらしい。嘘をつくのは正直、気が重い。でも――協力してもらうには、こうするしかなかった。
「……おかしいよな。あの人、何のためにそこにいたんだろう。ただの偶然かもしれない。でも……もし、また孝輝が誰かに狙われてるとしたらって思うと、不安で……」
言葉にしてみて初めて、自分がどれだけ焦っていたのかを実感する。
「だから……二人に、力を貸してほしい」
一瞬の沈黙のあと、凪沙が小さくうなずいた。
「わかった。私で良ければ、協力するよ」
続いて、世羅も真剣な表情で頷く。
「湊君がそんなふうに不安そうな顔するの、初めて見た。……ちゃんと理由があるんだって、伝わってきたよ」
その言葉が胸に染みた。俺は二人に向かって、深く頭を下げる。
「ありがとう。本当に助かる。……俺たちで、できることは全部やろう」
ゆっくりと、三人の間に静かな覚悟が生まれていく。未来を変えるために。今ここから、動き出さなければ――。
***
Side 紗菜
病院の白い廊下には、いつものように消毒液の匂いが漂っていた。
紗菜は孝輝がいる病室へ向かおうと、慣れた足取りでエレベーターを降りた。見舞いの花が入った紙袋を抱えながら、ふと前方の曲がり角に目を向けると――突然、一匹の猫がひょっこりと姿を現した。
一瞬、幻を見たのかと思った。病院に猫なんているはずがない。けれど、その猫は確かに足元にすり寄ってきた。
心臓がわずかに跳ねる。白く美しい毛並みの猫は、紗菜の足元に身体を擦りつけたあと、するりと顔を上げてじっと見つめてきた。
その瞳には、まるで「何かを知っている」と言いたげな、不思議な雰囲気が漂っていた。
(……なんで、猫がこんなところに……?)
戸惑いながらも目を逸らせずにいると――ふいに、頭の中に“映像”のようなものが流れ込んできた。
孝輝が、車椅子に座っている。その後ろには、うつむいたままの湊の姿。光の加減も、病室のカーテンの色も、どこまでも現実的で……夢とは思えなかった。
「……え?」
思わず、小さな声が漏れる。紙袋を持つ手に、ぎゅっと力がこもった。
(今、頭に浮かんだ映像は……何?)
猫は、まるで「気づいて」と言わんばかりに、もう一度だけ紗菜をじっと見つめ、それから音もなく踵を返して、静かに廊下の奥へと消えていった。
紗菜はその場に立ち尽くし、胸の奥がざわりと波打つのを感じていた。確かな理由も、明確な答えもない。ただ、それでも――何かが動き始めている。そんな予感だけが、確かにあった。