熟したリンゴが床を転がる。
目前で瞬きの雲が消え去った、焦げた臭いと体を貫く、自覚までの鈍感さに鋭い爪と楕円形の肉球で腹を拭う。
濡れた感覚を得たが、左目の琥珀はアルジーボを睨みつけた。
痛みよりも先に、牙を剥く。
『アルジーボぁお!!』
『ごめん、ごめんよ、長。俺は、こうするしかなくて……』
床を冷静に叩くブーツの音。
憎しみに満ち足りた眼光に映り込んだのは、ほどけた金髪と穏やかな碧眼の美しい女性――白い襟シャツと黒の細身パンツにブーツを赤く汚す。
「どうもヴォルフさん」
『どうやってここまで来た?!』
「背負って頂きました、なかなかスリルがあって興味深い体験でしたよ。アルジーボさんありがとうございます。さて、早速ですが狼クンを解放しにきました」
ボルトアクションライフルを構え、ヴォルフに向ける。
『赤ずきん! 良かった、よかったぁあ!!』
悲しみのどん底深くを這っていた狼は体を起こし、鉄製の檻をガシャガシャと押し鳴らす。
『待て待て、いいかぁパック! この女はお前の母親を殺したんだぞ!! またお前はこいつのいい様に使われて、最期は捨てられる!! オレたちと人間を、支配すべきだぁあ!!』
「アルジーボさん、少し下がっていてくれますか」
『え、あぁ、う、うん』
怯えたままアルジーボは赤ずきんより背後に下がる。
『裏切者がぁ! 逃げたら食い殺してやるからなぁああ!!』
本能剥き出しで獰猛に吠え、辺りにビリビリとした緊張を与えている。
「さて、ヴォルフさん、取引しませんか?」
『なぁんだと』
「実は、町の方々は生きています」
『はぁあ?!』
「撃つ前に避難させました。人食い狼といえども、さすがに建物に入る知能はありませんし、丸太の家はどれも頑丈で、びくともしません。ですので、貴方を殺さない代わりに、狼クンを解放してください。もし拒否するなら、私はここで全員を撃ち殺します」
『あぁあああクソっ、クソっ!! オレを舐めやがって、人間如きがぁ!!』
赤ずきんを覆うことができる背丈で襲い掛かる。
鋭い牙が赤ずきんの肩を貫く。
同時に爆圧と衝撃波が生まれ、ヴォルフの動きが一瞬大きく跳ねた。
皮膚と体毛を貫き、穴から血が噴き出す。
だらん、と凭れ、ずるずると赤ずきんの輪郭をなぞるように倒れ込んだ。
『あ、赤ずきん!!』
肩から血を流す赤ずきんは、穏やかな碧眼のまま――
『ぐぅぅ……あぁあぁ』
痛みに呼吸を乱すヴォルフに銃口を向ける。
「……」
虫の息状態。左目の琥珀はジッと睨む。
『はは、ぁ……』
「…………」
ヴォルフは可笑しくなって、にやけている。
右目の傷を見つめているのだと気付いた。
振り絞る、擦り切れる笑いを漏らし、赤ずきんのライフル銃を噛み砕く。
木片や金属、ネジ、弾薬が散らばる。
『あ、危ない、危ないよ赤ずきん、ダメ、ダメ!! 死なないで、約束守ってよ!!』
「あぁ……私は、狡い人間なんだよ、狼クン」
赤ずきんの囁く言葉が耳に届く。
鋭い爪が脇腹に刺さり、赤ずきんは力なく両膝をついた。
破裂音が響く――ヴォルフの脳天を貫いた。
両眼の琥珀に映る現実全てがスローモーションに動き、アルジーボがリボルバーを落とし、赤ずきんを支える。
ゆっくり横に寝かせたあと、ヴォルフのポケットから鍵を取り出し、檻を開けた――記憶が曖昧になりつつ、狼は赤ずきんに、恐る恐る寄っていく。
『赤ずきんっ』
「ごめん――約束、さいしょから、守るつもりなんて――」
クンクン喉を寂しく鳴らす。
『死なないでぇ……』
「君のお母さんは、助からなかった、見つけた時には、もう――」
『ボクには、赤ずきんだけだからぁあぁうぅうぅ……ぅぅあぁ』
「――ヘンリエッタ」
『?』
穏やかに細めた、美しい横顔は、消えかけた呼吸の中で声を絞り出す。
「ヘンリエッタ――君は、ヘンリエッタ」
『赤ずきんの、名前?』
小さく笑う。
「さぁね――でも、私が君にできる唯一の、こと、だから――」
『赤ずきん、ボクはたくさんしてもらったよ。でも、ボクは何も、なにひとつ、赤ずきんに』
『あぁ、人食い達がこっちに向かってきてる……俺は、大丈夫だけど、君達は』
「十分もらったよ、ヘンリエッタ――私の我儘に付き合ってくれて、ありがとう――愛してる、ずっと……――」
『愛してる、愛してる、ボクもずっと、ずっとずっと。こんなにも短い言葉なのに、いっぱい詰まってるんだね、なのに、なんだってこんな際に――あぁぁあああああぁああああ!!』
遠吠えが遠くまで――深淵の森を抜けた大陸中に届く。
恐れをなした人食い狼達が巨木から下り、深い、深い森の奥へと消えていく。
琥珀の両眼からこの上ない悲しみを零していた。
口も牙も真っ赤にさせ、ただただ『愛を食す』