お腹を満たしたところで俺達は山手線の電車に乗り、さらに三十分ほど揺られる。
駅を降りて向かっているのは上村家だ。俺が生まれ育った家で、現在は母さんが一人で住んでいる。ホテル代を浮かせるため、今日は自宅に泊まることにした。
したんだけど……。
「分かってるな?」
住宅街の中を歩きながら、数歩後ろにいる双葉を振り返る。
彼女はコンクリートの道に家がズラリと並んでいる光景が珍しいのか、視線を右へ左へと忙しそうに動かしていた。俺に声をかけられ、ハッとしてこちらを向く。
「もちろんよ。私と上村君はコイビトドウシでしょ?」
言い慣れていないような言い方だったが、俺の言ったことは理解してくれているようだ。
母さんは俺と双葉が一つ屋根の下で暮らしていることをもちろん知らない。そりゃ言ってないのだから当然だ。三日月町を訪れたときの俺達の様子を見て、仲の良い二人くらいに思っていることだろう。
芸能界に長くいるというのに、母さんは意外と男女関係について固い考えを持っている。いや、芸能界は関係ないかもな。うん、関係ないですね。あそこは真っ白でピュアな世界だもんな。
「その上村君って呼び方も変えたほうがいいな。恋人同士なのに名前で呼ぶのはおかしい」
決して、名前で呼ばれたいというわけではない。
母さんは付き合ってもいない二人が同じ家で寝泊まりすることをよく思っていない節がある。つまり、このままだと俺と双葉の二人が自宅に泊まることが難しいのだ。違う部屋なのだから別にいいだろと思うんだけど、そこか母さんの頭が固い所以だ。とにかく融通が効かない。
けど、逆に言えば恋人同士であれば何の問題も浮かばない両極端な人でもある。
現に電話で双葉と付き合っていること、そして東京に彼女がついてくること、二人を自宅に泊めてほしいということを順番に説明したら二つ返事でオッケーを出してくれた。
双葉のことを気に入っているのもあるだろうな。
少なからず、俺と母さんの関係修復には彼女の功績もあったわけだし。
「……紘、君? は、なんかちょっと違うかしら。紘のほうがいい? うん、そうね……紘?」
眉間にしわを寄せ、顎に手をやりながら双葉が俺の名前を呼ぶ。
「そんな険しい顔するほどかね」
ちょっとショックだぞ。
「べ、別にそういうわけじゃないけど。ただ呼び慣れないなって……それに、男の人を名前で呼んだことなんてないし」
そ、そうか。俺が初めての相手なのか。
けど、これまで人を避けて生きてきたんだから当然といえば当然か。
「……」
などと、俺が心の中ではしゃいでいると、双葉はなおも難しい顔をする。難問を前に答えが喉でつっかかっているような顔に見える。
「どうした?」
「ううん、なんでもない」
俺が訊くと、彼女はかぶりを振る。
「なんでもないって顔じゃなかったけど?」
「デジャヴっていうのかしら。男の人を名前で呼んだことはないはずなんだけど、なんかそんなことないような気もして」
「子供の頃の話で曖昧だけど記憶に残ってるとか?」
「……分からないわ」
やがて、諦めたように息を吐く双葉。
彼女がそう言っているのだから、これ以上の詮索はやめておこう。俺が初めて、それでいいじゃないか。
「とにかく、母さんの前では俺のことは名前で呼ぶんだぞ。じゃないと、家から追い出されるんだからな?」
「あなたが?」
「んなわけないだろ、と言いたいところだけどシチュエーション的に有り得てしまう。恐ろしいことにそうなる可能性の方が高い……悲しい」
双葉を追い出したりはしないだろうしな。
うん、これは俺が追い出されるな。なんとしてもバレるわけにはいかない。
「さすがにそんなことになるのは寝覚めが悪いし設定は守るわ」
言いながら、双葉は俺を見る目をすっと細めた。
鋭い目つきはなにかを訴えかけてきているようだけど、残念ながらその意図を汲み取るだけの力はまだ俺にはなかった。
「なに?」
「言っておくけど、あなたもよ?」
「なにが?」
「私のこと、その……名前で呼ぶの」
頬を赤くし、視線をすーっと逸らしながら双葉はぼそりと言う。
これはなかなか見ることのできない恥ずかしがっている姿だ。写真撮りたい。
ていうか。
「あ、そ、そうか」
双葉に俺を名前で呼ばせることに思考を割きすぎて忘れてた。
「……いや、恥ずかしいな」
「やっぱりナシなんて許さないわよ? コイビトドウシは名前で呼び合わないとダメなんでしょ?」
俺の前まで駆け足で回り、行く手を阻む双葉。
別に女子の名前を呼ぶことくらいある。玲奈がそうだし、クラスメイトも何人かは名前呼びだ。最初こそ照れたものだが、時間とともに慣れていって今では普通に呼んでいる。俺だって成長しているのだ。
けれど。
好きな人を名前で呼ぶというのは、これまでにない緊張を伴うようで。
「……」
「さあ、早く」
逃げ道はなさそうだ。
俺は諦めの溜息をついて覚悟を決める。
「し、閑……」
「聞こえないわ?」
耳に手を当てこちらに向けてくる。
表情が楽しげなので、聞こえていないということはないだろう。
「……閑」
「ふふ、それでいいのよ」
ご満悦の双葉……閑は上機嫌に歩き始める。
周りに人がいなくてよかった。こんな光景を見られでもすれば、ラブラブなバカップルだと馬鹿にされるに違いないからな。ラブラブなわけじゃないし、カップルですらないのだから虚しいだけだ。まあ、馬鹿ではあるんだろうけど。
事前打ち合わせもほどほどに俺達は再び歩き始め、ようやく俺の家へと到着する。
といってもマンションだ。十四階建ての五階にあるんだけど、閑はマンションというものがよほど珍しいらしく、きらきらした瞳で見上げている。子供の頃、ショッピングモールにある大きなクリスマスツリーを見上げたときにこんな顔をしていたような気がする。
「行くぞ?」
「あ、うん」
意識をこちらに戻した閑がてててと駆け寄ってくる。
三日月町には高層ビルなんてもちろんない。駅前に行けばショッピングモールがあるけれど、それはあくまでもショッピングモールだ。マンションがあったとしてもここまで高くはないのかもしれない。
もともと持っていたカードキーで自動ドアを開けて中に入る。
廊下を進むとエレベーターホールがあり、ボタンを押して二つあるうちの一つがガコンと音を立てて俺達を迎え入れてくれた。五階にはわりとすぐに到着した。
迷いなく進む足が自宅前で止まる。
閑は改札に書かれている『上村』の文字を確認してから、こちらを見やる。
俺は小さく息を吐く。
俺と母さんの間にあった壁は三日月町での話し合いで壊れた。長い時間をかけてしまったけど、俺達はようやく親子になることができたんだ。
「どうしたの?」
様子を窺うような声色の閑に俺は大丈夫だと笑ってみせる。
そして、インターホンを押す。中から声がし、近づいてくる足音がやがて止まる。
ガチャ、とドアが開かれ母さんが中から顔を出した。
「おかえりなさい、紘。それと、双葉さん」
微笑む母さんは、やっぱり年相応には思えない整った顔立ちをしていて、自分の親だということさえ信じられないくらいに若々しかった。
「ただいま、母さん」
それは俺と母さんの、思っていたよりもずっと早い再会だった。
リビングで一息ついた俺は荷物を置くために自室へと向かっていた。
突然家を出てから初めて戻るのでどうなっているのか少し心配だけれど、ドアを開けたときに俺は驚きのあまり目を見開いた。
しっかりと掃除されていて、埃臭さなんて微塵も感じなかった。
きっと、というか絶対、母さんが掃除してくれていたのだろう。いつ母さんは気持ちを入れ替えたのだろう。俺が家を出て、ここに一人でいた母のことを思うと、胸がずきりと痛んだ。
なにもかもがそのままだ。
参考書が並ぶ勉強机も、昔好きだった漫画がそのままの本棚、ベッドも、クローゼットも、壁に貼ってあるライダーのポスターも、全部が俺が出ていったときのまま。
「ここがあなたの部屋?」
「うおあッ!?」
感傷に浸っていると、急に後ろから声がして思わず大声を漏らしてしまう。
俺の声に驚いた閑が同じようにびっくりした顔でこちらを睨んでいた。
「そんな大声出さなくてもいいじゃない」
「いや、急に後ろから声かけられたら誰でもこうなるだろ」
「幽霊じゃなくても?」
「怖いと驚きは別感情だよ」
そもそも俺は幽霊を信じているタイプではないので驚かないような気もするけど、実際はどうなんだろう。本当にいるはずはないんだけど、だからこそ振り返って幽霊がいたら驚くか。怖いというよりは驚きが勝つな。昨日引っ越したはずのお隣さんが今日も家から出てきたようなもんだ。だとしたらめちゃくちゃホラーだな。
「どうかしたか?」
「花恵さんが呼んでる」
「母さんが?」
荷物を置いたら戻ると言ったので遅いことに疑問を持ったのか。
別に遅くはないんだけど。
閑と一緒にリビングに戻ると、湯呑みに淹れたお茶をすすりながらテレビを見ていた母さんがこちらを向く。
洋室のリビングで、別に特別変わったところはない有り触れた部屋だ。食卓用のテーブルとイス、テレビにソファとリビングにありそうなインテリアがそれっぽく配置されている。
「どうかした?」
「今日、晩ご飯はどうするの?」
「せっかくだし家で食べようとは思ってたけど」
そういえばそこまで詳しくは話していなかったな。
もしかしたら材料がないとか言われるかもしれない。そうなったら、最悪どこかに食べに行かなければならないか。
「そう。じゃあせっかくだしちょっと買い物でも行ってこようかしら」
よっこらしょと立ち上がった母さんは出掛ける準備をする。
「紘たちも出掛けるんでしょ?」
「ああ、うん」
そう。
今日はこれから予定がある。
この旅行、というか帰省、でもなくて……なんでもいいや。
この旅の一番の目的。
本庄百合子さんとの面会だ。