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第57話 閑の異変

 本庄さんの家を出る頃には日は沈みきって、辺りは暗くなっていた。


 感覚としてそこまで長居したつもりはなかったんだけど、話に熱中して時間のことを忘れてしまっていたらしい。魔女の話をしたあとも、本庄さんとたわいない話をしていたからだろうけれど。


 街灯がパチパチと光り夜道を照らす中を俺は自転車で進む。

 三日月町に比べると都会の夜は蒸し暑い気がする。自転車で風を切っているおかげでわずかに涼しさを感じているけれど、止まってしまったときが怖い。


 信号で足を止めると案の定じんわりと汗が服を濡らす。


 三日月町ではほとんど信号で足を止めるということがなかったので、こういうことにも懐かしさを抱いてしまう。抱いてしまうくらいには、俺の日常は三日月町に浸ってしまったのかと思えるな。


 それは嬉しくも思うし、少し寂しくも思う。

 そんなことを考えながらゆっくりと自転車を進めて自宅に到着する。


「ただいまー」


 家の中に呼びかけるが返事はない。

 鍵は空いていたのでいるだろうとは思うけれど、返事がないとはこれまたいかがなものか。


 そんなことを思いながらリビングへと顔を出す。


「ただいま」


 リビングに入り、もう一度挨拶をしてみる。

 するとキッチンのほうから「おかえりー」と母さんの声が返ってきた。


 同時にスパイシーなカレーのにおいが俺の空腹を刺激する。本庄さんの家でお茶菓子をいただいたけれど、三十分も自転車を走らせればカロリーの消費としては十分だろう。


 キッチンを覗くと、母さんと閑が二人並んで仲良く料理をしていた。


 閑は長い髪をポニーテールでまとめていて、見慣れないエプロンを装着している。


「おかえりなさい」


「手伝ってるのか?」


 こちらを向いた閑に尋ねると、彼女は「ええ」と頷いた。


「泊めてもらうだけだと申し訳ないから。できることは少しでも手伝おうかと思って」


「娘と料理してるみたいで楽しいわ。夢だったのよね、こういうの」


 その隣では母さんが満足げな声を漏らしている。

 表情からも本心であることは窺えた。


 似ているわけではないけれど、確かにこうして並んで料理しているところを見ると親子のように見えなくもない。母さんの言葉を聞いて、閑はくすぐったそうに俯いた。


「もうすぐできるからもうちょっと待ってなさい」


「じゃあ先にシャワー浴びてきてもいいかな。自転車漕いでたから汗かいちゃって」


 どうぞ、と言われたので俺は脱衣所へ向かうことにした。

 汗が乾いて体がべたついているところに暑いシャワーをかぶったときの気持ちよさと言ったら、大人が言うところの仕事終わりのキンキンに冷えたビールとやらに負けないくらいのものだ。俺が大人になったら、どっちが上か自分で確かめてみようと思う。


 あああああああ、と気持ちよさのあまり声を漏らしながらシャワーを済まし、部屋着に着替えてリビングに戻ると食卓に夕食の準備が整えられていた。カレーのにおいに、俺のお腹がぐううと再び空腹を主張する。


 長方形のテーブルにはカレーが三つ置かれていて中央には大皿のサラダが用意されている。


「あら、ベストタイミングね。見計らってた?」


「いやいや、偶然」


 コップを並べていた閑がこちらを振り返る。

 淡々とした口調の中には優しさというか、穏やかさというか、そういう温かい感情がこもっているような気がして、何となく安心させられる。三日月町で二人で過ごしているときとは、また少し違う雰囲気だった。


 俺と閑が並んで座り、俺の前に母さんが腰を下ろす。

 いただきますと唱えてから、俺はカレーをスプーンで掬い口に運ぶ。


 ぴりっとした辛さが程よく食欲を唆り、気づけば二口目を口にしていた。


 中辛よりは辛さがあって、辛口ほど辛くもない。パクパク食べれるギリギリの刺激と空腹のダブルパンチであっという間に一皿平らげてしまった。


「ふう」


 額を伝う汗を拭い、一息つく。

 ごくごくと用意されていた水を飲んでいると、隣の閑が俺の空いたお皿を手に取った。


「おかわりは?」


「え? ああ、じゃあお願いしようかな」


「ん」


 それだけ言うと、彼女は席を立っておかわりをよそいにいった。

 そんな様子を眺めていた母さんが訝しむような視線を閑の後ろ姿に向けながら声を潜めてこんなことを言ってくる。


「いい子すぎない?」


「……分かるけど」


 なんでそんないい子があんたの彼女なのよ、とでも言いたげだ。

 実は本当は彼女じゃないんですよ、とは言えないのでさも自分の恋人めっちゃいい子でしょと自慢するような顔をしておく。こんなところで元子役の才能を発揮したくはなかったな。


「ずっと家にいてほしいわ。こっちに戻って来るときには連れてきてね?」


「できることならそうしたいところだな」


 そうするためにも、閑を蝕む呪いをなんとかしなければならないのだけれど。


 結局、決定的な情報を得ることはできなかった。なので、変に心配をかけないためにも余計なことは言わないことにしよう。とりあえず、三日月町に返ったら日記帳を探す。その中に何かヒントがあることを信じて。








 その日の夜、俺は自分の部屋で眠っていた。

 つい数ヶ月前まではここで生活していたというのに、部屋に入った瞬間に感じたものは懐かしさだった。三日月町の閑の部屋にある自室とそこまで差はない。いずれにしても必要最低限のものだけがある殺風景な部屋だ。


 いかに自分物欲というものがないかが理解できた。

 いろいろあって疲れていたこともあり、横になるとすぐに眠気に襲われた。


 明日は閑と東京観光でもしようかな。行きたがっていたし遊園地に行くのもアリだ。


 もう少しくらいはゆっくりしてもいいかもしれない。俺にとっては久しぶりの東京だし、閑にとっては初めての東京。夏休みの宿題や都市伝説のことはあるけれど、少しくらいは息抜きがあってもいいだろう。


 夏休みの宿題に関してはずっと息抜きしている状態だろ、というツッコミは華麗にスルーさせてもらおう。


 すう、すうと気づけば俺は眠りについていた。


「――」


 しかし。

 遠くの方から声がする。


 そんな気がした。

 微かに体が揺れていて、その声が徐々に大きくなっていっているような。


「――きて」


 はっきりと、その声が閑のものだと認識したとき、俺の意識が少しずつ現実に引き戻された。


「……しず、か?」


 うっすらと目を開くと、目の前に閑の顔があった。

 彼女は客間のほうで寝ているはずなので、こんなところにいるはずがない。夢だと一瞬錯覚するけど、意識はハッキリしているのですぐに勘違いだと気づく。


「……はぁ、は、っ、ひろ、君……」


 頬が紅潮していて、息遣いがどうにも荒い。

 俺の体に触れる彼女の手から、熱い体温が伝わってきた。


 温かいではなく、熱い。


「お前、どうした?」


 そのとき、俺は完全に目を覚ます。

 眠たいなんて言ってられない。それどころではないことは、目の前の閑を見れば明らかだ。


「……はぁ、はっ、んくっ」


 体調が悪いことは明白。

 そして、それが魔女の呪いによるものだというのも想像するに容易い。


「大丈夫か、おい」


 よりにもよって、こんなタイミングで襲ってこなくてもいいじゃないかよ。


 せっかくの東京、こいつにもいっぱい楽しんでもらって、いい思い出作ろうってときだったのに。


「……ふっ、ふぅ、はぁ……」


 それに。

 これはあくまでも俺の直感というか、何となくそう見えるだけなんだけど。


 今回の閑は、いつもよりも辛そうに見える。


 まさか、な。

 そんな思いを何とか飲み込み、押し殺し、俺はどうすればいいかだけを考えた。

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