「本当にもう帰るの?」
翌日。
俺と閑は帰り支度を済まし、昼になる前に家を出ようとしていた。
「ごめんなさい。どうしても外せない用事を思い出してしまったんです」
ぺこり、と閑は頭を下げる。
俺はバクバクと激しさを増す心臓を必死に抑えながら閑に続く。
「また来るから、今日のところは帰るよ」
閑のことをよほど気に入ったようで、母さんは俺達の帰宅に不満げだった。
きっともう数日くらいはゆっくりすると思っていたのだろう。俺だってその予定だったのだ。昨日の時点では帰宅のきの字も話題に上がることがなかったわけだし、そう思うのは無理もない。
今朝、起きてきた母さんに用事を思い出したことを説明し、帰ることを伝えた。その場ではとりあえず頷いた母さんだったが、こうして荷物をまとめて玄関まで来たところで再び口から気持ちをこぼした。
「寂しいわね」
それは俺達が帰ることに対してであり、もしかしたらまた一人になることに対しての言葉でもあるのかもしれない。本来であれば俺と母さんはもう二人で暮らしても大丈夫なくらいには関係修復に成功している。
だから、そんな思いをさせてしまうことには少なからず罪悪感は覚える。
「本当にごめんなさい」
閑が絞り出したような声でもう一度謝罪する。
別に謝ることでもないんだけどな。
「……閑ちゃん、また来てね」
「……はい」
母さんのいろいろと飲み込んだような笑顔に、閑もにこりと笑い返す。
そうして上村家をあとにした俺達は大きい道路に出たところでタクシーを拾った。
乗車し、目的地を伝えたところで閑が大きな息を吐く。
「……はぁ、はぁ」
「よく頑張ったな」
俺は彼女の肩をぽんぽんと叩いた。
昨夜、何とか眠りについた閑だったけれど、今朝目を覚ましたところで体調は回復しなかった。だから急遽帰ることにしたんだけど、体調不良だと母さんに心配かけるからと、彼女がなんでもないふりをすると言い出したのだ。
もちろん魔女の呪いの話なんてできないけれど、風邪を引いたと言えば納得してくれたかもしれない。その可能性は十分にあったんだけど、俺が危惧したのは体調が良くなるまで休んでいけばいいと提案されることだった。
閑の体調がどう転ぶかは分からないし、どうにかなってしまったときに説明するのが難しい。そう考えた俺は、彼女の提案を受け入れた。
そして、双葉閑はやり遂げた。
母さんに体調不良を悟られることなく上村家をあとにした。
タクシーの窓から見える景色はぐわんぐわんと過ぎ去っていき、少しずつ駅へと近づいている。今は一刻も早く三日月町に帰りたいのでお金は惜しまないことにした。タクシーだって使うし、新幹線や特急で行けるところまで行くことにした。
苦しそうな閑を俺は見守ることしかできなかった。
俺になにかできることはないだろうか、何度も考えたけれどなにもない。自分の無力さに腹が立った。苦しむ泉さんを前に何もできなかった本庄さんも同じような気持ちだったに違いない。
東京駅で新幹線の切符を買い、必要になるかもしれない水やら食料をさっと購入し車両に乗り込んだ。夏休みの中でも中途半端な時期だったからか、それとも時間的にあまり混雑していないのか、車内はわりと空いていた。騒がしくないのは幸いだった。
「辛いなら横になっていいぞ?」
俺はぽんぽんと自分の膝を叩きながらそう言った。
二つ並ぶ席を購入したので大丈夫だろう。
人の目は気になるかもしれないけど、迷惑はかかるまい。
「……でも」
閑は俺の顔を見て唇をきゅっと結ぶ。
「大丈夫だから」
努めて優しく、彼女を受け入れるように言うと、険しい表情のまま閑はゆっくりと頷いた。
そして、のそのそと体を倒し、頭を俺の膝の上に置く。
「しんどいようなら寝ていいからな」
「……ごめんなさい」
寝て、少しでもマシになるならそのほうがいい。
体調不良を起こす期間が短くなっているような気がする。しっかりと数えたわけじゃないから絶対にそうというわけではないんだけど、感覚的には徐々にそうなっているように感じた。
俺の中の嫌な予感が次第に膨らんでいく。
誰とも話すことなく、ただ一人なにもできずに苦しそうな彼女の顔を見ていると、どうしても嫌な未来を想像してしまう。それを必死に振り払っていると、気づけば乗り換える駅に到着しようとしていた。
閑を起こし、電車を乗り換える。
ちょっと休んだからか、気持ち程度だけど体調はマシになっていたようだったけど、少しすると再び襲われていた。そうやって誤魔化し誤魔化しやって、俺達はようやく三日月町へと帰ってきた。
途中で結構休憩を挟んだので辺りはすっかりなっていた。三日月町に戻るバスももう動いていなかったので、そこもタクシーを使うことになった。けれど、そのかわりに誰かと遭遇する可能性はがくりと減っただろう。
その頃には、歩くことも難しいくらいに疲弊していたので家までの道はおぶっていくことにした。
「……く、う、ぐぅ」
唸り声を漏らす閑。
それはこれまでになかった反応だった。
表情を歪めたり、息を荒げたりすることはあった。唸るようなことももしかしたらあったのかもしれないけれど、ここまでしっかりと、それも辛そうに漏らしたのを俺は見たことがなかった。
「大丈夫か?」
「……う、うん。う、はッ……」
そうは言うが、とてもそうは見えない。
「無理はするな。本当のことを言ってくれ」
「……ちょっとだけ」
こぼれるような小さな声で。
強い風が吹けばそのままかき消されそうなほど弱々しく、言葉を漏らす。
「……体が痛い」
どくん、と心臓が跳ねた。
ごくり、と喉が鳴った。
一瞬、めまいがしたような感覚に襲われて思わず倒れそうになったところを何とか踏みとどまる。
「だい、じょうぶなのか?」
俺はできるだけ平静を装い、確認する。
「……今の、ところは」
バス停から歩き、学校の前を通って、そのまま三日月広場のほうへと向かう。
体に痛みが起こる、というのはこれまでの彼女にはなかった症状だ。
そして、本庄さんの経験からして、体に激痛が走り出すと末期症状の可能性が高いという。
今の彼女を見る限り、激痛という感じはしない。
けど、これまでにない痛みという症状は出ている。それは激痛の初期症状かもしれない。
まだ解決策は見つかっていないのに。
どうしていいのか分かっていないのに。
どうしてこのタイミングなんだよ。
あともう少し時間をくれれば、なにか見つかったかもしれないのに。
ぐるぐると頭の中で様々な考えがよぎる。
自分がこれからどうすればいいのかも分からず、脳裏に浮かぶ最悪の未来が俺の不安をぞ服させ思考を鈍らせる。
気づけば唇を噛んでいた。
口の中に鉄の味が広がる。
俺が動揺してどうする。
この状況をどうにかできるのは俺だけなんだ。
彼女を――双葉閑を救えるのは俺だけなんだ。しっかりしないでどうするよ。
「……」
けど、どうすれば……。
とぼとぼと歩きながら、絶望の中を彷徨っていた俺。
そんな俺の名前を呼ぶ声がした。
「紘くん?」
思わず足を止め、後ろを振り返る。
「……玲奈?」