窓から差し込む月明かりが照らす彼女の表情は、ひどく淋しげだった。
緊張感は伴う重苦しい空気が部屋の中に充満していて、俺は山の頂上に登りきったような息苦しさに襲われていた。なにか一言を発するだけでもお腹にぐっと力を入れなければならないような、どうにも形容し難い体の不調も感じる。
山神の呪いに命を蝕まれる閑。
その呪いから解放される手段を、山神から直接聞くことができた。
その方法とは、予想通りではあったのだけれど、かつて双葉の先祖が犯した罪を償うこと。つまり、あの時逃げ出した女性の代わりに『一番大切なもの』を差し出すことを要求されたのだ。
考えてみても、一番大切なものはきっと自分の命だ。
閑の母、遥さんにとって一番大切なものは『娘の命』だった。彼女は自分の命と引き換えに双葉家を――いや、当時まだ幼かった双葉閑を呪いから解放しようと考えていた。けど、彼女は気づいてしまった。閑を助けるために自らの命を差し出すということは、その覚悟ができるということは、自分にとって一番大切なものは自分の命ではないということに。
だから、彼女はなにもできなかった。
ならば、双葉閑はどうだろうか。
自分の命を蝕む呪いから解放されるために、自分の命を差し出す。
本末転倒というか、意味がないというか、それではこの先も生きていきたいと願う閑の問題は何も解決していない。
呪いから解放される手段が分かったからこそ襲いかかる、どうしようもないという絶望。
それに襲われ、彼女は追い詰められているのだろうか。
「私の、一番大切なものは……」
自問自答するように、彼女はもう一度その言葉を口にした。
この方法以外で呪いから解放される方法はない。けれど、山神に頼み込めばもしかしたら別の手段を提案してくれるかもしれない。
望みは薄い。
けど、俺にはもう、それくらいしかできないんだ。
「無理な話だよな」
言いづらそうにしている彼女の代わりに俺はそう口にした。
すると、閑は驚いたような顔をして俺を見る。その表情は、未だ不安に満ちている。
「誰だって、一番大切なのは自分の命だろ。それを守ろうと、これまでずっと頑張ってきたわけだし」
「……そうね。だとしたら、そもそもどうしようもない問題だわ」
感情を押し殺すように吐き出された彼女の言葉は震えていた。
「けど、それ以外に方法はない。だから、もう諦めるしか……」
四方八方を壁で囲われた迷路のようだ。
その壁はどれも高くそびえ立っていて登ることはできなくて、壊せるようなヒビもない。諦めて時間が経つのを待つしかないような、絶望的な状況。それに加えて、未来へ繋がる時間を奪うように上から水が注がれているよう。
「まだ諦めるには早いだろ。山神に言えば、なんとかなるかもしれない。誠心誠意お願いすれば、気持ちは届くかもしれないだろ」
諦められねえよ。
俺はこれから先も、まだまだお前といたいんだよ。
意見が合わなくてぶつかりあって、それでも一緒にいて、その時間が心地良くて、時折互いを頼り合うような、そんな毎日をこの先もずっと続けたいんだ。
だから、もう終わりだななんて口が避けても言えない。
「なあ双葉」
俺の呼びかけに彼女はこちらを見る。
「お前の一番大切なものは、自分の命なんだよな?」
今一度、確認をしようと投げかけた俺の質問に返ってきたのは、気まずそうに視線を逸らす彼女の反応と、そして、沈黙だった。
翌朝。
俺は閑の部屋の前で座りながら眠っていたこともあり、ふと目が覚めた。
何かあったらすぐに気づけるようにと思ったけど、眠った彼女の容態が悪化することはなかったらしい。ゆっくりと部屋の中の様子見ると今もまだ、彼女の寝息が聞こえるだけだった。
昨日は、あんまり負担をかけるのも良くないと思い、あのあとすぐに寝てもらうことにした。
結局、閑の一番大切なものを聞き出すことはできなかった。
彼女は最後まで沈黙を貫いたのだ。
けど、一つ分かったことは、おそらくだけど彼女の一番大切なものは『自分の命』ではないということ。閑が見せた苦しそうな表情とあの沈黙が、それを物語っている。
じゃあ、閑の一番大切なものってなんなんだろう。
母との思い出とかかな。だとしたらそれを失うのは辛いけれど、それでも呪いから解放されるのならば仕方ないと割り切るべきではないだろうか。あるいは、それとは違う、もっと別のなにか。
そうでないと、あんな顔はしないよな。
俺は一度気分転換しようと、一階に下りて外の空気を吸いに行くことにした。
扉を開けて外に出るとむわっとした空気が頬を撫でた。風が吹いたかと思えば、その風も生ぬるく涼しいとはとてもじゃないけど思えなくて。数秒いるだけでじわりと汗をかいてしまうような猛暑日。
俺は静かに扉を閉めた。
気分転換には程遠い不快感を抱いた俺は気を取り直してシャワーを浴びることにした。汗を流せばまあ少しはこの気分もマシになるだろうし、頭もスッキリするに違いない。
バスルームは一階にあるのでその足で向かう。もともとは旅館を想定していただけあって脱衣場も浴室もそこそこ広いのは有り難いけど、住んでいるのが二人なので持ち腐れだなとも思う。もちろん、二人で一緒に入るなんてこともないしな。
全裸になった俺は頭からお湯を被る。
お湯と一緒に自分に纏わりついていた不快感も洗い流されていくような気がした。
時折、ふと思うことだけど、俺は今こうして閑と二人で暮らしていて、それでもこの家のことをとにかく広いと感じる。同時に抱くのは寂しさだ。家が広ければ広いほど、ぽつりとそこに一人でいる自分にそんな感情を抱く。
二人でさえそうなのだ。
これまで閑はずっと一人でその寂しさと戦ってきたんだよな。
話していて思う。あいつは決して人嫌いというわけではない。自分の立場や状況を考え、人と関わらないことが最善だと判断して、一人でいることを選んでいた。
あいつは一体、どんな気持ちで生きてきたんだろう。
そんなの、俺がここでどれだけ考えても分かることじゃないのに、ついつい考えてしまう。
お湯を止め、ふうと息を吐く。
「……」
普通に生きていれば感じることができる楽しさや喜びを、あいつは全然知らないんだ。
これから、いろんなことを見て、知って、感じてほしいと思う。できることなら、それを隣で見ていたいと思う。
理不尽な運命だ。
俺は脱衣場を出て、タオルで濡れた体を拭く。そこで着替えを持ってきていないことに気づいた。考え事していると他のこと忘れてしまうから厄介だな。マルチタスクができる人間が羨ましいぜ。
さっきまで着ていた服は洗濯機に入れてしまったから着るのは躊躇ってしまう。
まあ、どうせ誰もいないし見られることはないか。
最低限の礼儀として腰にタオルを巻いて俺は脱衣場を出た。
「……」
「……」
一瞬、どういうことか全く分からなかった。
夢かと思いもした。
けど、みるみる赤くなっていく白石玲奈のリアクションを見るに、ああこれは現実なんだとじわじわ実感させられた。
「ご、ごめんね。インターホンは押したんだけど、返事がなかったから。それで、鍵開いてて、なにかあったのか心配になっちゃって……」
しどろもどろになりながら、玲奈は言葉を並べていく。
そこでようやく我に返る。大事な部分はタオルで隠してあるので、別に見られて困ることもないんだけど、いつまでもこんな格好を晒すのは失礼だよな。
「ああ、いや、別にそれはいいんだけど。こっちこそこんな格好で……あ」
はらり、とタオルが落ちた。
同時に玲奈は自分の顔を両手で覆った。
「……見た?」
「……ちょっと、だけ?」
これ、普通は逆じゃないですかね?