三日月町には祖母が住んでいたこともあり、子供の頃によく訪れていた。
いつから来なくなったのかといえば、有り難いことに芸能人としての仕事が忙しくなったタイミングだ。それが明確にいつだったかは覚えていない。気づけば、いつの間にか、という言葉を遣うのが正しいような、そんな曖昧な記憶。
そして、三日月町によく来ていたという記憶はあるんだけど、実のところ、じゃあそこで何をしていたのかという詳細を覚えているのかと言われると残念ながらそうではなかった。訪れていた、という記憶がふわっとあるだけで、実際にどういう生活をしていたのかはほとんど覚えていない。
子供の頃の記憶なんてそんなもんだろうし、別段気にすることはなかった。
「記憶というのは繋がっている。頭の中から消えてなくなるということは決してない。きっかけ一つでふと思い出すこともある。今お前はそのきっかけの欠片を幾つも持っているはずだぞ」
それはかつて、閑が言っていたことに似ていた。
彼女が使う魔法は記憶に関係するもの。
記憶を消すということは不可能らしく、閑がやっていたのは記憶を奥底に沈めて封印するようなことだと、彼女は言っていた。普通に生活していくくらいだと思い出すことはないが、きっかけがあればそれは連鎖するように浮かび上がる。
小説『私と魔女』の中で、魔女の魔法によりすべてを忘れた本庄百合子が双葉泉のことを思い出したのは、初めて会ったときの双葉泉の放つオーラが圧倒的で、だからもう一度彼女の姿を見た時に同じ感覚に陥り、思い出した。
「……俺は」
かつて三日月山に来ていたことがある俺。
けど、そのほとんどはうろ覚えで詳細は記憶にない。
魔女の魔法は記憶を操作するもの。
記憶は消えることはなく、きっかけ一つで蘇ることもある。
「最後のピースをくれてやろう。魔女の魔法は、一人の人間に二度は使えない。仮に二度目の魔法をかけようとしても効果はない」
ごくり、と喉が鳴った。
閑の記憶操作の魔法が俺に効かなかったのは、そういうことなのか。
だから、つまり。
「俺はすでに一度、魔女の魔法を受けているってことか?」
その時だ。
脳裏に覚えのない記憶が一瞬フラッシュバックした。
黒装束を着た女性が、まだ幼かった俺に合わせるようにしゃがんで、優しい笑みを浮かべながら頭に手を伸ばしてきている。
いや、違う。
俺はこの人を知っている。
知らないはずだったあの人を、俺は本当は知っていたんだ。
「……」
まるで海底からぷかりぷかりと空気が浮かび上がっていくように、俺の記憶の奥底に沈んでいた思い出が、一つ一つ蘇ってくる。
「まだ幼かったお前は、ある年の夏にこの三日月町に訪れたとき、一人の少女と出会った」
「……そうだ。思い出した」
あれは小学二年の夏。
母さんに連れられ、この三日月町を訪れた俺は――。
――双葉閑と出会った。
幼稚園の頃から、夏になると三日月町に住んでいる祖母の家に行くのは毎年恒例のことだった。
高層ビルが並び、多くの人が行き交う都会の喧騒から離れ、静かで落ち着いた田舎町の風景は俺にとって新鮮で、けれど少し退屈で、家の縁側でぼうっと庭を眺めるような何でもない時間を過ごしていた。
そんな年が続いた、小学二年の夏。
俺はいつものように母さんに連れられて三日月町を訪れていた。
三日月町にも子供はいる。けれど、毎年夏にだけやってくるだけの俺と仲良くしてくれる人はいなくて、いや、今思うと俺が仲良くなるのを避けていただけだったのだろう。だって、同年代のみんなは転校してきた俺をすぐに受け入れてくれたのだから。
だから、毎年のように一人で過ごしていた。
駄菓子屋でアイスクリームを食べる人達を横目に、広場でボール遊びをする人達を羨ましく思いながら、気づけば俺は三日月山に足を踏み入れていた。
一人でできることなんて知れている。
暇つぶしの冒険、程度の気持ちで俺はまだ入ったことのないその場所を探検することにしたのだ。三日月町に来て、久しぶりにワクワクしていた。山に入ることなんてなかったから、見たことのない自然の中を突き進む自身の状況が、俺の好奇心をさらに駆り立てたのだ。
疲れていることすら忘れて、山の奥へ奥へと進んでいった俺は、まあ、なんというか、妥当というか当然なんだけど、迷った。
そのときだった。
『なにしてるの?』
帰り道が分からず、疲れを自覚した瞬間に襲ってきた足の痛みに耐えかねた俺は座り込んで俯き、泣いていた。思い出してしまうとダサくて恥ずかしい話この上ないが、だからこそ、俺は彼女に出会ったのだ。
『……えっと』
ぐすん、と鼻水をすすりながら、涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げた俺は目を見開いた。
こんなところで人に会えるなんて思っていなかったのもそうなんだけど、なにより、目の前にいたその女の子がとんでもなく可愛かったからだ。
『まいご?』
『いちおう、そんなところ』
俺だって男だ。可愛い女の子の前では格好つけたいわけで、時すでに遅しなんだけど迷子と認めるのは躊躇ってしまった。もちろん、すでに彼女には迷子になって俯き泣きじゃくっていたダサい男の子、という認識は持たれていただろうけど。
サラサラ揺れる黒い髪。
まだ子供なのにピンと背筋を伸ばして歩く凛とした佇まい。
整った顔立ちもそうだけど、相手のことを思いやる優しい笑みがなによりも魅力的だった。
『きみ、なまえは?』
山の麓まで案内してくれることになった道中、俺はそう尋ねた。
彼女は答えるのに躊躇いを見せたけれど、迷ったあとに口を開いてくれた。
『ふたば、しずか』
ぽつりと呟かれた彼女の名前。
『おれは、かみむらひろ。なつのあいだだけこっちにきてて』
『そうなんだね』
歩いている間、たわいない雑談をした。
まあ、主に俺があれこれと喋っていただけなんだけど。
山の麓に到着した頃にはもうお日様は沈んでいて、きっと帰れば怒られるんだろうなと予感していた。
『じゃあね、かみむらくん。さようなら』
『ちょっと、まって!』
多分、子供ながらにして一目惚れってやつだったのだろう。
つまるところ、初恋とも言えるわけで。
だから俺はそれを終わらせたくなくて、必死の思いで勇気を出した。
『あしたもあってくれる?』