『ごめんなさい』
彼女は俺の問いかけにそう言って、頭を下げてきた。
どうして会ってくれないのか、不思議だった。格好悪いところは散々見せてしまったけれど、悪いことはしていないつもりだったから。わざわざ山の麓まで案内させてしまったという点では、まあ迷惑をかけたことにもなるのだろうけれど。
今の俺に、どれだけそれほどのガッツがあるかは分からないけど、その時の俺はただただ諦めきれなくて、その日帰ってさんざ怒られたというのに、翌日俺は再び三日月山へと足を運んでいた。
ここに来ればまた会えると思ったからだ。
そして、結論から言えば、もう一度会うことができた。
『どうして?』
『きみにあいたくて。あはは』
驚くを通り越して、もはや引いているのではないかというような反応を見せた彼女だったけど、そんな俺を見て諦めたのか、ふふっとおかしそうに笑い出した。
それから、閑は毎日俺と会ってくれた。
他の友達と遊んだりしないのか不思議だったけど、訊いても『べつにいいでしょ』と誤魔化すだけだったから俺も気にしないようにしていた。
今になって思えば、あれはきっと他の人を避けていたのだろう。それが閑の考えなのか、母親である遥さんの考えなのかは知る由もないが。
ともあれ、そうやって毎日顔を合わせることで心を通わせた俺達。
俺は三日月町を離れることを、初めて辛く思った。閑がどう思ったのかは分からないけど、きっと彼女も寂しいと思ってくれていたはずだ。その証拠に、別れるときは涙目だったし、翌年再び顔を合わせたときには笑っていた。
そして、そのときは来た。
その夏も俺は閑に会おうと三日月山へ向かった。山の中で遊ぶことが多かったから、その頃には俺もだいぶ山の道を把握していたと思う。その日も、俺達は山の中で楽しく遊んでいた。
山を登ると見えてくる細い道。そこを抜けると広い空間が見えてきて、奥の方に不思議な置物がある。当時はなんだありゃくらいにしか思ってなかったけど、あれは山神の祠だった。
今いるこの場所に、あのときも訪れていたのだ。
山なのだからいろんな虫がいるし、姿はあまり見ないけど動物だっているらしい。鳥や鹿くらいならいるだろうけど、もしかしたらもっと奥に行けば熊とかだっているかもしれない。危険がないはずはないんだけど、当時の俺は……俺達はそんなことまで考えていなかった。
あるいは、楽しくて考えることを忘れていたのかも。
遊んでいると、閑が突然痛みを訴えてきた。
押さえる足を見ると、なにかに咬まれた痕が残っていた。
本で読んだこともあって、俺はその咬傷が蛇のものだということにすぐ気付いた。
うずくまる閑の顔色はどんどん悪くなって、明らかに普通でないことはさすがに分かって、けど俺にはどうすることもできなくて、ただ立ち尽くして、自分の無力を嘆いた。
どうすることもできなくなった人間が最後にすることといえば、まあ神頼みだ。
『おねがいします、かみさま! しずかちゃんをたすけてください!』
誰にでもなく、どこにでもなく、ただ必死に、ただがむしゃらに、俺はその場で叫んだ。
すると、どこからか声がした。
そして、何が起こったのかは分からないけれど、閑の顔色が良くなっていき、苦しんでいた表情も和らいでいた。
『お前の願い、叶えてやったぞ』
ふと祠の方を見ると、そこに狐のお面をつけた子供がいた。
そして、すぐに消えていった。
けど、そんなことを気にしている場合ではなくて、俺は閑を彼女の家へと送ることにした。
この山を登ったところに家があるという話は聞いていたので、俺は気を失った彼女を背負い、山を登ることにした。
山を登りきると、大きな屋敷が見えた。
彼女はお金持ちのお嬢様だったのか、くらいにしか思わなかった俺は子供からすると大きな扉をノックした。少しして、中から人が現れた。
黒装束を着た大人の女性。長い髪と高い身長。顔を見るとどこか閑に似ていて、この人がお母さんなのかと思った。今ならば分かる。あれは双葉遥で間違いない。
俺は必死に説明した。
遥さんは俺の拙い説明を最後まで聞いてくれた。そして、俺と視線を合わせるようにしゃがんで、優しく笑んだ彼女は頭をゆっくりと撫でてくれた。こそばゆくて、けれど心地良くて、俺はくしゃりと表情を崩した。
『ありがとう。閑を助けてくれたのね』
まるで抱き寄せられるような温かさを覚える優しい声色だった。
『閑はいつもあなたのことを楽しそうに話していたわ。短い間だったけど、閑と遊んでくれてありがとう。この子に、思い出をくれてありがとう……』
どうしてか、遥さんの声は震えていて。
『けど、ごめんなさい』
最後に彼女が俺に残した言葉の意味を、そのときの俺は理解できなかった。
『閑に辛い思いはしてほしくないの』
まるでお日様に包まれたような温かさに包まれた俺は気を失い、気がつけば山の麓のバス停で眠っていた。
――これまでそこで、何をしていたのかを綺麗さっぱり忘れて。
「俺に魔女の魔法が効かなかったのは、すでに魔女の魔法を受けていたからなのか。閑の母さんである、双葉遥から」
「ご明察。あの時、お前を……というより、双葉の娘を助けたのは私だ」
だから俺と山神は会っていたし、こいつは俺を久しぶりに見たと言ったのか。
思い出したばかりで思考が追いついていないだけかもだけど、まだ分からないことがある。
「子供の俺は別に魔女のことを知ったわけじゃなかったはずなのに、どうして遥さんは俺に魔法を使ったんだ?」
最後の言葉の意味もやっぱり分からない。
それに、もう一つ大事なことがある。
「どうして、閑も俺のことを忘れてるんだ?」
彼女が俺のことを覚えていて、その上で知らないフリをしているとは思えない。
これまで一緒にいた彼女が、そんな演技を続けていたはずがない。間違いなく、双葉閑は俺のことを忘れている。
遥さんが閑にも魔法を使った?
「魔女に魔法は効かないよ」
俺の思考でも呼んだのか、ピンポイントに山神がそんなことを言った。
「だったら、なんで」
「答えてあげようか。焦らしたところで意味はないからね」
ふふ、と山神は笑みをこぼす。
できることならその仮面を剥いで顔を拝みたいもんだ。どんなに楽しそうな顔をしていることやら。ただ、そんなことをして機嫌を損ねるのもバカバカしいのでここは我慢一択だ。
「双葉遥がお前に魔法を使ったのは、お前が魔女のことを知ったからではもちろんない。そいつが言った言葉に嘘もない」
「閑に辛い思いをしてほしくないってやつか?」
俺の言葉に山神は「そうだ」と頷いた。
「双葉遥は自分の娘を見た瞬間、触れた瞬間、娘の記憶に異変が起こっていることに気づいたのだろう。魔女の力が強まると、それくらいはできるようになるからな」
「異変って?」
「双葉閑の記憶から、お前に関する記憶がすべて消えていたという異変だよ」
山神の言葉以外の音がすべてシャットダウンされたような、不思議な感覚に襲われながら、俺は山神の言葉を頭の中で反芻した。
閑の中の俺との記憶が、すべて消えていた。
「どうして? 魔女に魔法は効かないのに……」
言っていて、何かが喉のところに詰まったような感覚に陥る。
なんだろう。
何か、大事なことがすぐそこにあるようだ。
魔女に魔法は効かない。だから、遥さんが何かをしたわけではない。それよりも前に閑は記憶を失った。けど、その日は俺と遊んでいたのだから、ちゃんと覚えていたはずだ。
だったら、その間に何があった?
俺のことを覚えていた時間から、遥さんが閑の異変に気づいた瞬間までの間にあったこと。
「……お前が、閑から記憶を奪ったのか?」
「奪ったとは神聞きが悪いな。私は対価として、そいつから貰ったのだ。大切なものをな」
ズキリ、と胸が痛んだ。
嬉しいことを言ってくれるな。
山神は瀕死の閑を自らの力を使って助けた。その対価として、その人が大切にしているものを対価として支払う必要があった。事実、それで山神が納得しているのだから、当時の閑にとって俺との思い出はそれほどまでに大切だったというわけだ。
だから、遥さんはあんなことを言ったのか……。
「それが、お前の記憶にまつわる物語の全てだ。スッキリしたか?」
山神の声がどこまでも楽しげだ。こいつにとってはただの暇つぶしというのも本当らしい。
「なんで俺を、というか閑を助けてくれた?」
「その気持ちが本物だったから」
「なんで、俺じゃなく閑の記憶を奪った?」
「私はお前の気持ちに反応したのではなく、双葉閑の助けてほしいという気持ちに応えたからだ」
「閑はいずれ、お前の呪いを受け継いで、死んでいくのに?」
「いずれ死ぬからと言って、それが助けない理由にはならないだろ。お前は目の前で困っている人を、どうせいつかは老いぼれて死ぬんだしどうでもいいかと見捨てるのか?」
「なんで呪いをかけた奴が正論ぶつけてくるんだよ」
こいつが善なのか、悪なのか、俺にはもう分からなくなってきたぞ。
「勘違いするな。私は別にあの娘を恨んでなどいない。あくまでも、当時私との約束を破った双葉楓を苦しめる呪いでしかないのだ」
「なら、閑を呪いから解放してくれてもいいだろ!」
思わず、声を荒げてしまう。
「この世にはケジメというものがある。そこを曖昧にすると、これまで積み重ねてきた常識が全て瓦解する。だから、罰は必要なのだ」
助からない、とは言っていない。
助ける方法も教えてくれた。
ただこいつは、ケジメをつけろと言っているだけ。
でも、そのケジメがどうしようもなく残酷なんじゃねえか。
「命を守るために、命を差し出すなんてどうかしてるだろ」
「私は命を差し出せなど言ってない。一番大切なものを差し出せと言っただけだ」
「自分の命以上に大切なものなんてあるのかよ?」
「どうだろうな。だが、少なくとも双葉閑にはあるのではないか? 自分の命よりも大切な何かが」
玲奈もそう言っていた。
けど、それが何なのかが分からないんだろ。
「なんとか、ならねえのかよ。それ以外に方法はないのかよ?」
「ない。それが、ケジメというものだ」
その瞬間、強い風が吹いた。
思わず目をつむり、再び目を開いたときには山神の姿は消えていた。
明らかになったことがあって、その中にどうしようもないこともあって。
「……やっぱり、閑から聞き出すしかないってことか」
彼女にとって一番大切なもの。
それがなんなのか。
自分のやらなければならないことを自覚した俺は、溜息をついて家へと戻ることにした。