家に戻ると、玲奈がキッチンでお皿を洗っていた。
「ただいま」
足音を殺していたつもりはなかったんだけど、水の音で聞こえていなかったのか、玲奈は俺の声にびくりと肩を動かした。「びっくりさせないでよぉ」と笑いながらこちらを振り返った玲奈は続けて「おかえりなさい」と言ってくれる。
「皿洗いか?」
「あ、うん。双葉さん、食欲があるみたいだったから、お粥作ったんだ」
「体調は良さそうだった?」
「そうだね。少なくとも、昨日に比べると随分マシだと思う」
会話をしながらも玲奈はお皿を洗う手を止めなかった。
俺はコップを手に取り、冷蔵庫から麦茶を取り出す。暑い中いたのでとにかく喉が乾いて仕方がなかった。コップいっぱいに麦茶を注ぎ、それを一気に飲み干す。
「美味しそうに飲むね」
「喉がカラカラだったからな。砂漠から帰還した気分だ」
言い過ぎだとは思いながらも、気持ちとしてはそれくらいだった。
まだ乾きが残っていたので、もう一度麦茶を注ぐ。さすがに一気に飲み干すようなことはせずに、ちびちびと口に流すことにする。
「外、暑いもんね。最近ひどいよね」
「だな。走り回る子供とか尊敬するまである」
夏は暑いものというのは日本人誰もが抱く共通認識だと思うけれど、その気持ちを持ってしても最近は特にひどい暑さだ。ぶっ倒れる人がいてもおかしくないだろう。都会に比べれば幾分かマシだけど、それでも日差しを直に浴びると焼け死ぬバンパイアの気持ちを疑似体験している気分に襲われる。
「それで、紘くんはどこに行ってたのかな?」
視線は手元に向けたまま、業務連絡のような淡々とした玲奈の声が届く。
何となく、お察しな様子ではあるので隠すようなことはしないでおこう。そもそも、そんなつもりもないんだけど。
「山神のところにな」
ぐび、と麦茶を飲む。
ちょうどそのタイミングで皿洗いが終わり、玲奈が手を拭きながらこちらを向いた。
「それで?」
「分かったことがある」
手を拭いたタオルをもとあった場所に戻し、玲奈もコップに麦茶を注ぐ。
そして、視線で食堂へ行くよう提案してきたのでそれに従う。
「まず、閑を救う方法は一つしかないということ」
「一番大切なものを差し出すってことだよね」
玲奈の確認に、俺はこくりと頷いた。
他の手段があるのならば、と思ったけど山神はそれをケジメだと言っていた。
「それともう一つ。山神が俺に、久しぶりに見た顔って言ってただろ?」
「うん、言ってたね。それが分かったんだ?」
「ああ。俺は子供の頃に山神と会っていたんだ」
俺の言葉に玲奈は目を丸くした。驚いてか、声は出てなかった。
どうしようか悩んだけど、そのまま続けて言うことにした。驚くパートは一つに纏めたほうがいいだろうしな。
「それと、俺と閑も子供の頃に会ってた」
「はえ?」
今度はしっかりと声に出して驚いた玲奈を見て、俺はくすりと笑ってしまう。
そんな俺のリアクションに、玲奈は可愛らしくぷくっと頬を膨らませた。
「悪い冗談だよ?」
「いや、冗談ではないんだよこれが」
くつくつと込み上げてくる笑いをこぼしながら俺が言うと、玲奈はまたしても目を丸くする。
「どういうこと?」
「実はさ――」
俺は山神との会話で思い出したことを玲奈に話した。
驚いていた彼女の表情は、話を聞いている間にコロコロと変わった。驚いていたかと思えば、眉をひそめ、神妙な顔つきになったかと思えばまた驚きを繰り返す。そんな感じなので、話しているこっちも飽きないし、むしろ楽しくなってくる。
「双葉さんはそれを覚えてないんだよね?」
すべてを聞き終えた玲奈がそう尋ねてくる。
「ああ。俺は魔女の魔法によってその記憶を奥底に沈められただけだけど、閑の場合は山神の力の対価として支払ったってことだからな」
「双葉さんに教えてあげないの?」
「どうせ思い出せないんだから、言うだけ無駄かなって」
「まあ、悲しいもんね」
「そう思ってくれれば嬉しいんだけどな」
果たして彼女は俺との記憶がないことを悲しいと思ってくれるのだろうか。
「……でも、山神様が双葉さんから記憶を受け取ったということは、その頃の双葉さんにとって、紘くんとの思い出はすごく大切だったってことなんだよね?」
「そうなのかもな」
当時のような素直さが今の彼女にもあればいいんだけど。
いや、最近はまだ素直なほうか。出会った当初なんかは冷たくて常に風邪ひきそうだったもんなあ。
などと思っていると、玲奈はなぜか込み上げてくる涙を堪えるような悲しい表情になっていた。
「どうした?」
声を掛けるとハッとしてからにこりを笑う。
「ううん、なんでも」
そして、コップに残っていたお茶を一気に飲み干し、空になっていた俺のコップも合わせて手に取った。
「双葉さん、まだ起きてると思うよ。その話はしないとしても、しなきゃいけない話はあるんだよね?」
「あ、ああ。急にどうした?」
「んーん、なんでも。早くしないと双葉さんがまた寝ちゃうなって思って。洗い物はやっておくから、行ってきなよ」
なんだか急かすような玲奈にキッチンを追い出されてしまう。
ここまでされて戻るのもおかしいだろうし、もともと行くつもりだったから俺は閑の部屋に向かうことにした。
キッチンを出て階段を上がって二階に行く。ギシギシと軋むこの階段にも慣れたものだ。見た目は豪華なのにしっかりと年季が入ってるんだよなあ、などと思いながら閑の部屋の前までやってくる。
「……」
すうはあと深呼吸をする。
俺が、俺達が抱えていた様々な問題。
それがまもなく解決する。いや、解決というと語弊があるな。結末がどうなるかはともかく、終結すると言ったほうがいい。
山神の呪いから解放される唯一の手段が、閑の一番大切なものを差し出すこと。山神直々にそう言っていたし、それ以外は有り得ないとも言い切っていた。つまり、差し出しさえすれば助かるわけだが、逆に言えば差し出せなければ閑はこのまま呪いに命を蝕まれて最悪の場合、死に至る。
双葉閑にとって、一番大切なもの。
それが自分の命でないとするなら、果たして何だというのだろう。
コンコン、と俺はゆっくりノックをする。すると、中から小さな返事が聞こえたので扉を開く。
「二回のノックはトイレのドアにするときのものよ。正確には三回」
「小言言うくらいには元気そうでなによりだよ」
声に元気はないけれど、優しい笑みを浮かべながらベッドに座る閑を見て俺は安堵した。
東京から三日月町に戻ってきたときの激しい苦痛。あれから容態は安定しているようで、昨日といい今日といい、閑は調子が良さそうだ。まあ、またいつあのときのような事態に陥るかは分からないんだけど。
明日かもしれないし、三時間後かもしれない。もしかしたら五分後に体調が急変する可能性だってゼロではない。つまり、油断ならないし一刻を争うということには変わりないということだ。
俺はベッドのすぐ隣にある椅子に腰掛ける。
雰囲気を察してか、閑の表情は少しだけ固くなり、部屋の中の空気がどこか張り詰めた。
「呪いから解放される方法は、閑の一番大切なものを差し出す。それ以外に手段はないらしい」
時間もないので、俺は単刀直入に言う。
彼女はまるで覚悟していたように、一切狼狽える様子を見せなかった。ただ、小さな声で「そう」と口にした。死を覚悟したような真剣な表情に、俺の心臓がズキリと痛む。
「教えてくれよ。お前の一番大切なもの……自分の命、じゃないんだよな?」
俺の質問に閑は顔を伏せた。
その沈黙は肯定を意味していた。けれど、俺にはその大切なものが分からない。
閑は何も答えなかった。
「お母さんとの何か、とかか?」
閑の母、遥さんは娘のことが大好きで、一番大切だった。
愛されて育った閑が、そんな遥さんのことを、あるいは遥さんとの思い出を一番大切に思っていても不思議ではない。かつて幼少期の双葉閑が、俺との思い出を大切に思ってくれていたように……。
「ちがうわ」
彼女の否定に嘘はない。
それは顔を見れば分かる。
そう思った瞬間、俺の中に違和感が生まれた。これまで脳内で散らばっていたピースがカチ、カチ、とはまっていくような感覚。
閑はかつて、俺との思い出を大切にしてくれていた。
それを捧げることで命を助けてもらったのだ。
そして、彼女の中で今一番大切なものは自分の命ではない何か。
俺には言えない、何か。
「もしかして」
俺はじいっと閑の顔を見つめた。
目が合った瞬間、彼女はハッとして顔を背けた。隠したテストが母親にバレてしまったような、見られたくないものを見られたような反応。しかし次の瞬間、ちらと横目で俺の顔を確認してくる。
再び視線が合い、今度は視線だけを逸らした。
「お前の一番大切なものって」
ごくりと喉が鳴る。
もし、この答えが違っていたら自意識過剰にも程があるしめちゃくちゃ恥ずかしい。
けれども。
俺が彼女を大切に思うように。
短い間でも、一緒に過ごした時間が彼女の心を動かしたのだとすれば。
「……俺、なのか?」
だとしたら、言えるはずがない。
だって、もしも。
そうだとするならば、双葉閑が助かるためには上村紘が命を差し出さなければならないのだから。