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第70話

 ぼんやりと私は自室の扉に背中を預けた。

 ――どうやってここまで戻ってきたかあまり覚えていない。

 多分、アンネローゼが他の魔族を連れて帰ってくるまでは地下牢にいたはず。

 だけどそこからの記憶があいまいだ。

 気が付けば自室に戻ってきていた。

 それまでにどんなやりとりをしたのかも覚えていない。

「生きていてはいけない生物……ね」

 ただ、胸の中でその言葉が反響する。

 忌々しく私を睨むロイの表情とともに。

 目を閉じてもそれが消えることはない。

「…………」

 ずるずると滑るようにその場に座り込む。

 扉に背を付けたまま、体育座りの体勢になった。

 体を丸め、額を膝に押し付ける。

 何も見たくない。

 周囲のすべてから自分を切り離すように。

「悪いことをしたのは私じゃないのに」

 ロイを苦しめたのも、ノアを苦しめたのも。

 人類の敵となったのも。

 全部、私じゃないのに。

「……これまでは、そう言えたのに」

 だけどその言い訳も使えなくなる。

 すぐに。

(このままいけば、ロイは確実に死ぬ)

 孤立無援の状況で囚われの身。

 逃げられるような状況ではないだろう。

(きっと私は、それを見ているだけ)

 すでにロイはリュートの生存を知っている。

 だから魔族たちにとって、ロイを見逃すという選択はありえない。

 説得の余地はないし、妥協点もない。

 これまでのように、頑張れば全員を救えるかもしれないなんておいしい話はない。

 ロイを助けようとすることは、リュートを含めた魔族全員に死ねと言うようなものなのだ。

 ――リュートは全盛期の力を失っているのだから。

 彼の生存が漏れることは、魔族の滅亡に直結するのだ。

 それを分かっていて、ロイを助けようなどと言えるわけがない。

(見ているだけと言えば聞こえはいいけれど、それで彼の死への責任が消えるわけではない)

 見殺しという言葉があるように。

 何も行動を起こさなかったから責任はない――なんて思えない。

 行動しないことには、行動しなかったことへの責任が生じるものなのだ。

(少なくとも彼にとっては、私は絶対に許せない相手よね)

 本当のエレナがではない。

 私自身が、彼にとって許せない人間になるのだ。

 過去の所業は私のものじゃないだとか。

 私は世界の異物だとか。

 そんな言い訳はできない。

 この世界で生きている私が、許されない行為に手を染めるのだ。

「…………」

 照明の消えた部屋。

 月明りが差し込もうと、この暗がりが照らしつくされることはない。

 ドロドロと淀んでゆく思考。

 そのまま闇に溶けていきた――


「やはりふさぎ込んでいたか」


「え?」

 突然聞こえてきた声。

 思わず顔を上げしまう。

 だって、私の前に立っていたのはリュートだったのだから。

 ――彼の背後を見れば、テラスに続く扉が開いていた。

 テラスから私の様子を見て、部屋に入ってきたというわけだろうか。

 普段の彼なら何も言わずに部屋へと入りはしないだろうけれど、それだけ私の状況が目に余ったというわけか。

「まあそれも仕方のないことか。お前にとって、奴との会話は劇物だっただろうからな」

 いつもなら笑みをこぼすであろうリュート。

 しかし彼は静かに私を見つめているだけだ。

「魔王……様? どうしてここに……?」

 茫然としたままそう漏らす。

「万が一にも、オレの弱体を知られるわけにはいかないからな。奴の尋問は部下にすべて任せておいたのだ」

 リュートはそう答えた。

(たしかにロイなら、見ただけでもリュートの異変に気が付くのかもしれないわね)

 聖女の仲間が領に侵入していた。

 そんな一大事となればリュートが対応するのだろう。

 そう思っていたが、たしかに彼の意見ももっともだ。

 魂を分割したことによる弱体化。

 リュートはそれを周知していない。

 つまりロイはリュートが生きていることを知っていても、彼が弱っていることまでは知らない可能性が高い。

 少しでも情報が露見するリスクは避けるというのは当然のことかもしれない。

 ただ――

「それはオレが出歩く理由になっても、ここを訪れる理由にはならないと言いたげな顔だな?」

「…………」

 ちょっと思ってしまったけれど。

 なんで、私の部屋なんかを訪れたのだろうか……と。

 そんなことよりも気にかけなければならないこともたくさんあるはずなのに。

「なに。プレゼントを渡し損ねていたからな」

「プレゼント?」

 リュートの言葉に首をかしげる。

 プレゼント。当然ながら意味は把握している。

 だが、なぜ彼が私に?

 そんな疑問が湧きあがる。

「本来であれば、舞踏会の後に渡す予定だったのだがな」

 懐から小箱を取り出すリュート。

「ただのプレゼントなら事が落ち着いてからでも構わないのだが……これは、早めに渡しておいたほうが良いと思ってな」

 細長い箱。

 そこに入っていたのは――

「……ネックレス?」

 ネックレスだった。

 デザインとしてはかなり簡素なもの。

 紫水晶のようなものがあしらわれているが、サイズとしてはそれほど大きくはない。

 ――元の世界でも私がかなり無理をすれば買えなくはない、くらいの塩梅だろうか。

 つまるところ、リュートからすると安物だというわけだ。

 おそらく私が貧乏性というか、あまり豪華なアクセサリーは避けていることを理解しているからこその選択なのだろう。

 これなら、ギリギリ日常的に身に着けられる範囲だ。

「それには縁結びの呪いが込められている」

 リュートの言葉に、思わず肩が跳ねた。

 縁結びの呪い。

 響きだけはロマンチックだけれど。

 呪いというのはどういう意味なのか。

「えっと……それを早く渡しておいたほうがいい理由って……」

「そいつを介すれば、オレとお前の間には強い縁――つまり、呪いを届けるためのルートが生まれる。要するに、距離が離れていてもオレに呪いを飛ばせるようになるというわけだ」

 どうやら恋愛成就的なものではないらしい。

「なにかあれば、それでオレに声を飛ばせ。そうすれば助けてやれる」

 なんというか、もっと実利的な意味合いだったらしい。

 私の身を案じてくれているというのは素直に嬉しいけれど。

「オレに関わる出来事が多いせいで咎めづらいが、どうにもお前は危険な目に遭いやすいようだからな。念のためというわけだ」

 否定できない。

 原作を知っているからということもあるけれど、私は定期的に命の危機に陥っている。

 それこそ彼らの助けがなければとっくの昔に死んでいたほどに。

「十中八九、ここでオレはあの男を殺す」

「っ……」

 リュートの言葉に、わずかに息が詰まる。

 それが分かっていたことだとしても。

「だが奴の聖王国における立場を思えば、殺してそれで終わりという話でもない」

 それも必然のことだ。

「最低でも、奴を殺せるだけの実力者が魔族側にいることは露見するわけだからな。今後も密偵が潜入してくる可能性が高い」

 ロイが死亡するというのはそれだけの重さを持つ。

 聖王国は、これまで以上に警戒を強めるはずだ。

 本格的に魔族領への調査を進めることだろう。

「だから念のため、というわけだ」

 そうなれば、必然的に魔族領内でも危機に襲われる可能性が上がる。

 だからこそ護身の手段として、私にネックレスを渡したわけだ。

「ありがとうございます」

 ほんの少しだけ。

 だけど、小さく微笑んだ。

 粘ついた罪悪感に沈んでいた思考が、少しだけ軽くなった気がする。

「本来なら、もっと風情のある状況で渡したかったのだがな」

 そう笑うリュート。

 彼の手からネックレスを受け取ろうとしたとき――

「っ!?」

 ――城が揺れた。

 地震……ではない。

 そんな持続的な揺れではなく、大きな揺れが1度だけ。

 それ以前に――衝撃と同時に爆発音が聞こえたのだ。

「今のはまさか……地下牢か?」

 眉をひそめるリュート。

 爆発音と衝撃。

 異常事態としか言えない現象。

 もしそれが起こるとするのなら、必然的に『そこ』になるだろう。


 ――ロイが逃亡した。

 その事実を私が知ったのは、これから数分後のことだった。

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