「私は――貴方を殺します」
私は胸にした覚悟を宣言した。
退路を断つために。
臆病風に吹かれて逃げ出してしまわないように。
(ロイはすでに瀕死の状態だけど、それでも私がどうにかできる相手じゃない)
私は懐からナイフを引き抜いた。
果物ナイフよりはマシな、包丁レベルの武器。
武器と呼ぶにはあまりに貧相だが、それでも私にとっては重かった。
(あのときの……本物のエレナと会ったときを思い出して……)
いくらロイが衰弱しきっていたとして。
それでも彼は聖女と共にリュートを討った男。
私が太刀打ちできる相手ではない。
だから、思い出す。
私になら真似できるはずの、そして私が見た中で最も身近で強かった存在を。
「動かないで」
――間接的とはいえ、これが初めて誰かを傷つけるために呪術を使った瞬間だった。
私の袖口から黒い縄が伸びる。
それは蛇のようにうごめき、ロイの体を縛った。
これは呪術。
聖域で本物のエレナが、私を縛るために使ったものだ。
まさか自分が使うことにはなるとは思わなかったけれど。
「ちっ……」
舌打ちするロイ。
しかし弱っているからか。
彼はすぐにそれを千切り飛ばすことはできずにいる。
「できた……!」
成功したことで喜色がにじむ。
だが余裕はない。
私は駆けだした。
「はぁ……」
私は走る勢いのままにロイへとぶつかった。
ほとんど押し倒すようなタックル。
そのまま私は、彼の上で馬乗りになった。
「人を呪うことだけは一人前だなッ……」
憎々しげなロイの怨嗟。
腰が引けそうになる。
だけど逃げてはいけない。
私はナイフを両手で握りしめた。
「……」
ちくりと胸が痛む。
だけど言い訳する権利は私にないのだろう。
そのままナイフをロイへと突き立てようとして――
「この……!」
ぐるりと視界が回る。
気が付くと、私たちの上下は逆転していた。
私は芝の上に押し倒され、ロイは私の体に乗っている。
「きゃっ」
ロイの手が伸び、私の手首を捕らえる。
手首がきしむ。
握られただけで骨が折れそうなほど痛い。
視界が涙でにじんだ。
「呪術で殺さずに、わざわざナイフで俺を殺そうとはな。憎い相手は、直接殺さなければ気が済まないか?」
原作のエレナほど呪術を使いこなせていないだけ。
そんなことを言えるはずもなく、なんとか私は彼の手を振り払おうとする。
「とはいえ、ちょうど得物を失くしていたところだから運が良い」
しかし、私とロイの間にある筋力差は圧倒的だった。
男女差なんて可愛いものじゃない。
レベル差。
もはや同じ人間とは言えないほどに、その膂力はかけ離れている。
「死ね」
ロイが腕に力を込めれば、私に抵抗する術はない。
私が握ったままのナイフ。
その切っ先が、私自身へと向けられてゆく。
このまま私の胸にナイフを突き立てるつもりらしい。
必死に抵抗するが、ナイフが近づいてくる。
「動か……ないでっ!」
必死に私は呪縛の呪いを使う。
黒い縄は幾本もロイに絡みつく。
(だめ……! 止まらないっ……!)
だが無駄だ。
ほんの少しだけロイの動きを妨害したとして。
それでも彼の手を押し戻せるほどには至らない。
少しずつナイフが近づいてくる。
切っ先がドレスに触れた。
そして生地越しに、胸にチクリとした感覚が走る。
あと十数センチでもナイフを押し込まれてしまえば、きっとその刃は心臓に到達することだろう。
(このままじゃ……)
死。
恐怖。
――迫りくる脅威を、私は全力で拒絶した。
「ぐッ……!」
直後、私の背後から骨の腕が現れた。
巨大な骸骨の腕はロイの体を吹っ飛ばす。
地面を転がるロイ。
彼が離れたことで、私は起き上がれるようになった。
「これは……エレナの……」
私の背後で顕現した骨の腕。
それは聖域でエレナが見せた骸骨――その一部のように思えた。
私の死を拒絶する想いが、あれを召喚したということだろう。
(一部だけとはいえ、原作のエレナと同じ領域で呪術が使えた……)
考えようによっては、私が死を前にしてやっと抱くほどの拒絶感を日常的かつ意図的に発露できるということでもあるのだけれど。
それだけでエレナという少女の闇の深さがうかがえるというものだ。
(骨が消えていく……)
とはいえ、それも窮地だからこそ成功したマグレでしかなかったのだろう。
骨の腕が塵となり消えてゆく。
私ではあれを意識的に扱うことはできないらしい。
(死を拒絶しようとする気持ちが薄らいだから、形を保てなくなったということかしら?)
あの呪術は、エレナがノアを憎む気持ちで顕現させたもの。
常軌を逸した拒絶感。それがあの骸骨を呼ぶための感情なのだ。
ひとまずとはいえ危機を遠ざけたことで、あの骨を維持できなくなったらしい。
「だけど今なら――」
私はロイへと目を向ける。
「こ……の……!」
倒れたまま咳き込むロイ。
吐き出す唾には血が混じっていた。
元より虫の息だったのだ。
骨の腕に吹っ飛ばされたことで、ついに彼の体は限界を迎えたのだろう。
――もはや彼は動けない。
「……ごめんなさい」
ゆっくりと立ち上がる。
これから行う凶行への拒否感で足が震える。
それでも歩かなければならない。
私はそして、ロイの体へとまたがった。
「――――」
ナイフを握る手が震える。
きっと私はこれからの行動を忘れることはできないのだろう。
きっと一生、何度も何度も後悔するのだろう。
だけど選ばなければならない。
それがこの世界で生きるということだから。
「あ、あああああああああああああああッ!」
私は声を裏返らせながら叫び、ナイフを掲げた。